夕暮れの気配がした。閉じた瞼から感じる光はごく僅か。隙間風の音は一段と鋭くなっていた。
目を開ける力はまだ戻らず、重く荒い呼吸が布団に横になった名無しさんの胸を動かしている。
ふと、ごはんの炊けるような、ほんのりと甘い香りを微かに感じた。
昨日のように、隣のおばちゃんが粥を持って様子を見にきてくれたのだろうか。ありがたいな。
名無しさんがそう思った途端、冷たい手が額に触れた。彼女は驚きで小さく体を揺らしながら目を開いた。
「起こしてしまったか?」
すまない、と申し訳なさそうに言う半助に、名無しさんは焦点の定まりきらない視線を向ける。
「まだ、熱が下がらないな」
「……半助さん?」
掠れた声が出た。「ほら、白湯を飲め」
言いながら名無しさんを抱き起こすと、半助は彼女に湯呑みを手渡した。
どうして半助がここにいるのだろうかと考えながら、名無しさんは渇いたのどを潤す。
春休みはまだ先で、授業があるはずの半助が家に帰ってくるはずがない。
「ああ……夢……」
湯呑みの底に目をやって、名無しさんは静かに呟いた。
「夢、か」
半助は苦笑しながら名無しさんの手から湯呑みを取ると、彼女を布団に寝かせた。掛け布団を整えると、名無しさんの頭をそっと撫でる。
「もう少し、おやすみ」
柔らかい陽光の下、風が草を揺らしている。名無しさんはその蒼い波の中で、菜の花を見つけた。
「春だものね」 黄色い花に向かってそう呟くと、聞き慣れた声に呼ばれた。
「名無しさんさーん」
振り向くと、きり丸が大きく手を振りながら草原を駆けてくるところだった。
「きりちゃん」
「何やってるんっすかぁ?」
速度を緩めたきり丸に微笑んで、菜の花を指さす。
「菜の花を見つけたの」
「綺麗っすね。あ、今からアルバイトに行ってきます」
「暗くなる前には戻ってね」
名無しさんの言葉に、きり丸は困ったような表情をした。
「遅くなりそうなの? もしかして、泊まり?」
「帰るの、3年後なんです」
さらり、ときり丸が言って、名無しさんは驚きのあまり目を大きく見開いた。
「さ、3年って……何言ってるの。学校はどうするの」
きり丸は屈託なく笑う。
「土井先生も一緒だから大丈夫ですよ」
「え?」
聞き返すと同時に、きり丸は走り出した。彼を呼び止める寸前、強い風が吹いて名無しさんは思わず目を閉じた。
名無しさんが目を開けたとき、既にきり丸の姿は消えていた。
どこへ行ったのだろうと、辺りを見回しながら歩いていると、草原は雪原に変わっていた。辺りはもう薄暗く、日没の迫った風景には枯れ木が寂しげに並んでいる。
「帰らなきゃ」
名無しさんは走りだした。ここがどこなのかは分からないが、今はもう存在しない、記憶の片隅にこびり付いた村に似ていた。
とにかく、家に帰らなければ。
走っても走っても、足は重く、前に進んでいる気がしない。まるで水の中を急いでいるようだった。 何故急ぐのかも分からないまま通り過ぎる景色は、段々と霞みがかっていく。懸命に地を蹴るも、もどかしい遅さでしか進まず、名無しさんの中では焦りだけがただ強くなった。
泣き出しそうになったとき、家の戸口がすぐ目の前にあるのに気が付いた。名無しさんはほっとして足を止め、暖簾をくぐった。
「ただいま……」
誰もいない家の中を、湯気だけが漂っている。
「半助さん? ……きりちゃん?」
履き物を脱いであがると、炭櫃には雑炊の入った鍋がある。火は消えていない。今の今まで、ここに誰かいたはずだ。
半助か、きり丸か。いや、もう日が暮れる時間なのだから、ふたりともいたのだろう。
名無しさんは家の中を見回した。何か企んで中庭に隠れているのだろうか。それとも何かが起きて、また厄介な客が来て、一緒に出かけてしまったのだろうか。
「きりちゃん、半助さん」
名無しさんは中庭に出たが、そこにも誰もいなかった。既に日は沈んで暗い。静けさが彼女を包み、いつもと変わらぬ景色がひどく寂しく映った。
「きりちゃーん」
名無しさんはありったけの声で呼ぶ。
「半助さんっ」
がたん、と家の中で音がした。
「……半助さん?」
名無しさんは屋内に駆け込んだが、真っ暗な家の中か変わらず無人で、火の燃える音が妙に大きく聞こえるだけだった。
ああ、ひとりぼっちなんだ。
そう思い出したところで、ようやく夢が終わった。
名無しさんがのそりと起きあがると、半助が振り向いた。
「起きたか」
部屋は暖かい。明かりに照らされて、半助の髪が彼の顔に濃い影を落としている。
「粥を作ったから……名無しさんっ?」
名無しさんはぼろぼろと涙をこぼす。
「どうしたんだ?」
心配そうに近付いて覗き込む半助に、名無しさんは首を振る。
「なんでもないの」
言って、咳込んだ名無しさんの背中を、半助がさする。
「大丈夫か?」
名無しさんは頷きながら、半助から白湯の入った湯呑みを受け取った。
「変な夢を見ただけ」
それだけ言って、白湯に口を付けた。あっという間に飲み干して、ほうっと息を吐くと、やっと夢の重さから解放された気がした。
差し出された手に湯呑みを返す。
「ありがとう」
名無しさんの声に半助は頷きながら、安堵の表情を浮かべた。
「食事の前に着替えた方がいいな。これだけ汗をかけば、そろそろ熱も下がるだろう」
言われてみると、名無しさんはかなりの汗をかいていた。
きっとあの悪夢のせいだろう。嫌な夢を見るものだ。一人だったら、どれほど嫌な目覚めだったろう。暗い部屋の中でひとり目を覚ます自分を思い浮かべて、身震いした。
「名無しさん?」
着替えと手拭いを用意した半助が帯に伸ばした手を、彼女は慌てて払った。
「じ、自分でやります」
「今更、恥ずかしがることもないだろう」
平然とそう言う半助を睨め付けて、名無しさんは奪うように手拭いを取った。「むこう向いてて」
はいはい、と半助は名無しさんに背を向けた。その肩は僅かに揺れていて、笑っているのは明らかだった。
「授業はどうしたんですか?」
帯を解く音を消すように、名無しさんはわざと普段より大きな声で言った。
「学園長先生に用事を言いつかって、町まで来たんだが……生憎、先方が留守で」
「いいんですか、寄り道なんかして。授業、ちゃんと進んでるんですか?」
「胃が痛くなるようなことを言うな。明日の夕方には戻るよ」
夕方には戻る。
名無しさんは胸が痛くなったのを誤魔化すように、努めて明るい声を出す。
「きりちゃんは元気ですか?」
「元気だよ」
そうですか、と答えて名無しさんは口を噤んだ。
着替えを終えた名無しさんが脱いだ着物を畳んでいると、半助が彼女の方へ向き直った。
「こっちを見てもいいって、まだ言ってないですよ」
「でも、終わっただろう」
からかうようにそう言って、半助は笑った。
食後に苦い薬を飲んで、名無しさんは再び布団に横になっていた。そのすぐ隣には半助が黙って座っている。
名無しさんは冬休み明けからの婦人会や近所付き合いの話をぽつぽつとしていたが、話題が途切れたところだった。
片付けをするか、と呟きながら半助は立ち上がろうとした。
「半助さん」
半助の袖を名無しさんが引く。
「行かないで」
名無しさんはすぐに、自分の子供じみた言動に恥入った。熱がまた上がったように、顔が熱くなる。
「食事の後片付けをするだけだ」
半助はそう苦笑いしながらも、袖を掴んでいた名無しさんの手を握って座り直した。
そういえば、と半助はぽつりと言う。
「隣のおばちゃんに怒られた」
「どうして」
「嫁をほったらかしすぎだ、と」
くすくすと笑って、名無しさんは繋いでいる手に力を込めた。優しく握り返されたのを確認して、名無しさんはそっと口を開く。
「半助さん。片付け、お願いします」
はい、と返事をする代わりにか、半助は名無しさんの手に唇をそっと押し当てた。
名無しさんはうとうとと眠っていた。薬が効いているせいか、半助の気配を感じるせいか、先程の眠りよりずっと心地よいものだった。
片付けをする半助が立てる音を聞いてたはずだったが、いつの間にかそれは止んでいた。横を向くとすぐ隣に布団が敷かれているが、半助の姿はない。
明かりがちらちらと不安げに揺れて、また夢の中にいるのではないかと疑った。
「半助さん」
小さくそう呼んだ。
「ん?」
すぐに返ってきた声に、名無しさんはほっとした。
「どうした」
僅かに心配そうな表情を向ける夫に、妻は頭を振る。
「もう明かりを消すぞ」
はい、と名無しさんが返事をすると、すぐに火は消え、ふたりは闇に包まれた。
何も見えないまま、名無しさんは半助の方へ体を向けると布団から手を出した。
いつもは温かい半助の手が、ひんやりとしているように感じた。
ふふっ、と名無しさんは密やかに笑う。
「嬉しいですね。病気の時に、誰かが傍にいてくれるって」
暗闇に目が慣れて、半助の顔が見えた。
「あなただからかな?」
「どうかな」
半助は穏やかな声で歌うようにそう言ったが、すぐに嘆息を漏らした。
「治るまでいたいが、明日の夕方には戻らないと……」
「分かってます。大丈夫」
名無しさんが言うと、半助は申し訳なさそうな顔で静かに微笑んだ。
まだ苦しい呼吸の合間に、名無しさんは半助の横顔を何度も盗み見た。
「寝ないのか」
やはり半助に気付かれている。名無しさんは布団に顔を半分だけ潜らせた。
「眠るの……勿体無いなぁ、って。折角、一緒にいるのに」
「できるだけ、早く帰るから」
でも、きっと補習があるでしょう。名無しさんはそう言いかけて、飲み込んだ。口にしてしまうと本当になりそうに思えた。
けれども全て、半助には伝わってしまっているのだろう。
「ねぇ、半助さん」
「何だ?」
「何か喋って。なんでもいいから」
考え込むような間があって、半助が口を開く。
「物語か?」
「授業でもいいから。半助さんの声を聞いていたいだけ……あ、1年は組のみんなの話がいいかなぁ」
「ろくな話はないぞ」
その情けない声の響きに、名無しさんは可笑しくなった。
きり丸、乱太郎、しんべヱ、残りのは組の子供たちの話。他学年の生徒や委員会の話。ゆっくりと囁くように、けれども時々呆れたように、それでも楽しそうに半助が話すのを、名無しさんは聞いていた。
ずっとずっと聞いていたい。夜が明けなければいい。そう思っていたが、名無しさんは気づかぬうちに深い眠りに落ちていた。
ふっ、と目が覚めた。
昨日に比べて体が軽く、熱もないだろう。薬のおかげかな。
名無しさんは気分良く起きあがったが、その顔はたちどころに曇った。
「……半助さん?」
声は、がらんどうになった家の中に虚しく響いた。
随分と眠っていたようで、部屋の薄暗さは夕刻を告げていた。遠いところから烏の鳴き声がする。
半助が既に発ってしまっていたことに、名無しさんは落胆した。
「起こしてくれればよかったのに」
病人を起こしはしないことなど分かっているが、もう一目だけでも会いたかった。
名無しさんは布団に横になった。
きっと、書き置きがあるだろう。春休みには戻る、とでも書いてあるのだろうか。
春休みはもうすぐだ。十中八九、補習はあるだろうが1日くらいは帰ってくるだろう。またアルバイトに追われることになるだろうか。ふたりに何を食べさせよう。半助の着物は汚れていたから、帰ってきたら洗わなければ。
名無しさんは布団に潜って体を丸めた。
これ以上なく体を縮めて我慢したが、とうとう耐えきれずに嗚咽が洩れた。
昨夜の夢と同じだ。寝ても覚めても、同じように自分はひとりぼっちなのだと思い知らされたようで、名無しさんは泣いた。
半助の仕事のことも、ひとりで留守を預かることも、きちんと納得しているはずなのに、どうしてこんな気持ちになるのだろう。半助ときり丸を送り出した晩には、いつもこうして泣いてしまう。
熱を出した夜にも、不安で泣いた。
夕暮れ時になると切なくてたまらない。孤独になるために結婚したのだろうか。時折、夕日を眺めながらそう考える。そう考えることが情けなくて恥ずかしくて、でもどうして自分ばかりが、とも思う。
「半助……さん」
嗚咽混じりにそう呟くと、布団が勢いよく捲られた。
「名無しさん、どうしたんだ? 大丈夫か?」
自分を酷く気遣わしげに見下ろしているのが半助だということに、名無しさんは心底驚いた。一方で、潜んでいた木の葉を持ち上げられた団子虫はこんな気分だろうか、とも頭の片隅で考えた。
「……な、何で……半助さん?」
「具合が悪いのか? また、悪い夢でも見たのか? どうしたんだ」
「半助さんっ」
名無しさんは慌てふためく半助に、勢いよく抱きついた。
「半助さん……半助さん、半助さん半助さん半助さん、半助さん……半助さんっ……」
「名無しさん……」
半助は呆気にとられた風だったが、泣きじゃくる名無しさんの背をさすっていた。
暗くなった部屋の中。半助に抱きしめられたまま、名無しさんは手の甲で涙を拭った。鼻水を啜ると、半助の着物からは埃っぽく乾いた冬の匂いがした。
「こら、鼻をかめ」
と言って笑いながら、半助は妻から体を離すと、彼女の濡れた頬を指の腹で拭う。名無しさんの頬に両手を添えて、穏やかな眼差しを向けると、静かにひとつ溜息を吐いた。
涙と鼻水でぐちゃぐちゃのみっともない顔を見られているにも関わらず、名無しさんは嬉しさと安堵で満たされていた。
どうにかもう1日だけ一緒に過ごせることになったと半助に聞かされて、名無しさんは上機嫌だった。苦い薬を飲まなければいけなかったことと、横になっているように言われたこと以外は申し分ない。
ようやく寝支度を整えた半助に、名無しさんは布団の中から声を掛けた。
「どうして、私が悪い夢を見たって知ってたんですか?」
「少し、うなされていたからなぁ……どんな夢だったんだ?」
「内緒」
苦笑して、半助は布団にごろりと寝ころんだ。
名無しさんは僅かに上体を起こして頬杖をつくと、半助の顔を覗き込んだ。
前髪を指先で摘んで落とす。それを幾度も繰り返す彼女の手を半助が引いて、胸に引き寄せた。
「風邪、うつりますよ」
「名無しさんの具合がよくなるなら、それでもいいさ」
「それじゃあ、春休みが無くなっちゃうじゃない」
怒ったような名無しさんの声に、半助はくつくつと笑った。
暫くの間、半助の鼓動を黙って聞いていた名無しさんが、不意に顔を上げた。
「半助さん、ありがとう」
薬を買ってきてくれたことや、看病してくれたことに名無しさんが礼を言うと、夫婦なのだから当然だと半助は返した。
「でも、半助さんは優しいですよ。お仕事、大変なのに」
「どうかな」
言って、半助は複雑な笑みを浮かべる。
「優しさ、ではないなぁ」
どこかしみじみとした口調で言うと、首を傾げた名無しさんの頬をそっと撫でた。そのまま、半助は名無しさんを真っ直ぐに見据え、僅かに躊躇ってから再び口を開いた。
「私はただ……名無しさんの傍にいたかっただけだ」
そう言い終えると、半助は名無しさんの額に、いつもより一寸だけ荒っぽく口付けた。
照れているんだなぁ。名無しさんはくすぐったく思いながら、熱くなった頬を隠すように半助の胸元に押しつけた。
百の寂しい夕暮れがあっても、この満ち足りた一瞬があることを知っている。だから半助と一緒になった。この人でなければ、他の誰といてもひとりぼっちだ。
明日も、いつも通りに笑顔で忍術学園に送り出そう。名無しさんは幸福な夢に落ちていく途中でそう誓った。