風が、家を小さく揺らした。
 名無しさんは雑炊をかき混ぜる手を止め、戸口へと顔を向けた。
「きりちゃん遅いですね……半助さん」
 妻に呼ばれ、半助は読んでいた本から顔を上げた。
「そうだな。暗いが、まだそれほど遅い時間でもないだろう。すぐ帰ってくるよ」
 そう言って再び本へと顔を戻した半助に、名無しさんは納得できないといった表情を向ける。
「私、ちょっと見てきます」
 すっくと立ち上がった名無しさんが前掛けを外すと、半助は小さく溜息を吐いて本を閉じた。
「私が行こう。名無しさんは夕飯の支度を……」
 名無しさんは半助を手で制し、跳ねるように土間へと降りる。
「すぐそこまでだから。半助さんはお鍋を見張っててください」
 そう言って、名無しさんは急いで表へ出た。
 冷たい風に撫でられて、名無しさんは身を竦ませた。よく見れば、吐く息も僅かに白いようだった。
 10月も今日で終わり、もうじき冬になる。

 きり丸は一体どこに行ったのだろう。
 名無しさんは辺りに目を配りながら、通り慣れた道を小走りに進んでいたが、不意に視界の端で黒い影が動き、どきりとして歩みを止めた。
 恐る恐る目を凝らしてみると、それは近所で時たま見かける黒猫であった。
「なんだ、猫……」
 名無しさんは驚いた恥ずかしさを隠すのと安堵とで、小さく笑いながら顔を上げた。すると、誰もいなかったはずの通りには、まばらではあるが人が行き交っている。
 こんな時間に珍しいことだ。はて、今日は秋祭りでもあるのだろうか、と名無しさんは首を傾げた。
 不思議に思ったが、夜道を一人歩く心細さが消えたのは嬉しい。名無しさんの足取りは幾分か軽くなった。
 秋祭りならば、きり丸の帰りが遅いのも合点がいく。臨時のアルバイトを何かしら見つけたのかもしれない。
 彼が少しでも多く稼ぎたい気持ちは分かるが、無断で遅くまで出歩くことなど許してはいない。
「もう、何遍言ってもきかないんだから」
 溜息混じりにそう呟いた名無しさんの足下が、突然左から照らされた。
 飛び上がらんばかりに驚いた名無しさんが明かりの方へ顔を向けると、提灯を持った男が彼女のすぐ隣に立っていた。
「どちらへ?」
 男の静かな声音は、闇にすうっと溶けていく。
「ええと……暗いので……その、家人がまだ帰らなくて……私は、探しに」
 しどろもどろになんとかそう言いながら、名無しさんは一歩退いた。
「ならば、そこまで御一緒しましょう」
 男は言いながら提灯を軽く持ち上げ、名無しさんが離れたのと同じ分だけ、彼女に歩み寄った。
 名無しさんはたじろいだ。提案を断ろうにも、ここは一本道だ。
 結局、上手い文句は思い浮かばず、名無しさんは内心では動揺しながらも男の後をついていく羽目になった。
 見知らぬ男と連れだって歩くのは危険だということは十分に承知しているが、今夜は普段より人通りもある。それに、あと少し進めば開けた場所に出る。
 そこで家に戻ると言えばいい。名無しさんは、ひとり頷いた。
 今すぐに逃げるのは、到底無理だ。実のところ、名無しさんは幾度か歩みを遅くして男との距離を取ろうと試みていたのだが、その度に男は巧みに彼女との距離を保つのだった。
 男の顔はよく見えなかったが、年の頃は半助と同じか、少し上。身なりからすると、侍のようだ。背はそれほど高くはない。
 男の背中を見ているうちに、名無しさんは不意に幼い頃を思い出し、口元で微笑んだ。
 足下に届く提灯の灯、先を行く男の背中。霞がかった記憶の中にも、このような夜があったように思えた。それは秋なのか春なのかさえ朧気だったが、優しい気持ちが胸に満ちる。
 前を行く、この男は何者だろうか。
 そう考えながら名無しさんが視線を上げると、橋が見えた。それと同時に、どこぞで猫が短く鳴いた。
 彼女は鳴き声の主を探して、辺りを見渡した。立ち止まった名無しさんに気が付かぬのか、男は黙って橋へと進んでいく。
 先程までどうやっても男との距離を取れなかったことを考えると、それは些か不思議に思えた。
 あれは単なる偶然か、親切だったのだろうか。
 名無しさんは悩んだが、どのみち、これ以上進んでもきり丸には会えないだろう。それに、知らぬ者と夜道を歩くのはやはり恐ろしい。
 このまま立ち去ろうか、とも名無しさんは考えたが、小走りに橋へと向かった。
 それに感付いた男は、橋上で足を止めると彼女へと向き直った。
「どうされた?」
「ここで戻ります」
 瞬き一つするような間の後、男はそっと頷いたようだった。
「それがいい」
 男は静かに名無しさんに歩み寄ると提灯を差し出す。
「持って行きなさい」
 名無しさんは驚きながら、首を振る。
「いいえ。すぐ、そこですから……灯りをありがとうございました」
 下げた頭を上げようとすると、男が歩き出す気配がした。
「お待ちください」
 名無しさんは急いで小さな包みを取り出し、男に差し出した。
「南蛮菓子です。ほんの少しですが、お礼に……といって良いのかわかりませんが」
「ありがたく頂戴しよう」
 男は朗らかに言った。そして包みを受け取ると、ゆっくりと会釈した。
「では」
「道中、お気をつけて」
 名無しさんは橋を渡っていく男の背に、届くか届かないかの小さな声でそう言った。
 男の手にしている、柔らかくも眩しい灯。それを暫し見つめてから、彼女は来た道を戻ろうと橋に背を向けた。
 目の奥には未だ、仄かな明かりが残る。
「達者でな、名無しさん」
 不意に聞こえた声は、ゆっくりと闇に溶けた。
 はっと息を飲んで、名無しさんは振り返ろうとしたが、前方から駆けてくる半助の姿を見つけ、それをやめた。
「名無しさん!」
「……半助さん」
 半助に少し遅れて、小さな影が現れる。
「名無しさんさーん」
「きりちゃん!」
 名無しさんはふたりに駆け寄った。
「遅いから心配したのよ」
 怒気を含んだ声で名無しさんに言われ、きり丸は申し訳なさそうに眉尻を下げた。
「すいません、犬の散歩に手間取っちゃって。ってか、名無しさんさんどこに行ってたんすか?」
「どこって……」
 いつも通る道を歩いてきただけだ、と名無しさんは言おうとしたが、よくよく考えてみるとそこは、普段ならばきり丸も名無しさん自身も殆ど使わない道であった。
 どうしてこの道を来たのだろう。
 首を傾げる名無しさんに、半助が問う。
「名無しさんが出てすぐにきり丸が帰ってきたんだが、会わなかったのか? 私もすぐにお前を追って出たんだが……」
「会ってたら探しに行かないでしょ。すれ違っちゃったのかな?」
 名無しさんがきり丸の顔を覗き込むようにして言うと、きり丸は顔を顰めた。
「多分、そうっすね」
「……まあいい、帰ろう」
 半助の声に、名無しさんは首を縦に振った。 暗い道に、家々から細い光が漏れる。
 前を行く半助の影を見つめながら、きり丸と並んで歩く名無しさんの歩調には元気がなかった。
「まったく、心配したのはこっちだぞ。暗くなってから灯りも持たずに、女一人で出歩くんじゃない」
 やはり半助に叱られてしまった。名無しさんは小さく溜息を吐いた。
「ごめんなさい。でも、提灯を持った親切な方と一緒だったの……多分、お侍さまで……」
 ぎょっとした表情で半助は振り向いた。
「こんな時間に男と一緒だったのか? 何かあったらどうするんだ」
 半助の声音は、怒鳴るぎりぎり一歩手前といったところだ。しまった、と名無しさんは思ったが、とうに手遅れのようだった。
「ごめんなさい。でも人通りも多かったし……」
「それが何だと言うんだ。危ないことに変わりはないんだぞ。だから私が行くと言っただろう!」
 はい、と消え入りそうな声で返事をして、名無しさんは俯いた。
 きり丸が半助と名無しさんの間に割って入った。
「まあまあ、土井先生。そんなに怒らなくても……何事もなかったんですし……ねぇ? 名無しさんさん」
 きり丸はちらりと名無しさんを振り返って目配せをしたが、次の瞬間には彼の頭に半助の拳骨が落ちていた。
「元はと言えば、きり丸! お前の帰りが遅いせいだろうが!」
 涙目になって頭を押さえるきり丸の手に、名無しさんは心配そうに手を添える。
「半助さん、ぶたなくても……きりちゃんだって、寄り道してたわけじゃないんだから」
「名無しさんさん、それは……」
 言わない方が、ときり丸が言い終える前に、半助は再び名無しさんへの説教を始めた。

「余程のことがない限り、夜道を一人で歩くんじゃない。分かったな、名無しさん」
「はぁい」
 名無しさんは不満そうに返事をし、唇を軽く尖らせた。
 夜の往来で怒られる羽目になろうとは、思いもしなかった。自分が悪いのだとはいえ、そろそろ説教から解放されたい。
 話題を逸らそうと、名無しさんは明るい声を出した。
「今日はどこかで秋祭りがあるのかな? いつもより通りに人が多かったね」
 隣を歩くきり丸へ笑顔を向けたのだが、返ってきたのは困惑しきった表情のみだった。
「名無しさん……何を言ってるんだ?」
 と、半助も怪訝そうに言った。
「え?」
「……秋祭りなんてないっすよ。人だって、全然いないし」
 今度は怯えたような声できり丸が言った。
 でも、と名無しさんは言いかけて、それを飲み込んだ。
 言われてみれば、この道に自分たちの他に人影はない。
「そんな」
 来た道を確かめようと、名無しさんは後ろへ顔を向けた。
「あ……」
 小さく呟いて、名無しさんは半助の袖を強く引き寄せる。
「名無しさん?」
 引かれた方の腕で名無しさんの肩を抱きながら、半助は妻の視線の先に目をやった。きり丸も、つられるようにそちらを見る。
 暗闇に、青白い炎がゆらゆらと揺れていた。そして、それは歩くような早さで移動している。
「お、鬼火?」
 震えた声でそう言うきり丸は、半助にしがみつく名無しさんの袖にしがみついている。
 半助は小さく笑った。
「いや……松明だろう。帰るぞ」
「で、でも、先生」
「松明だよ、きり丸」
 半助は優しく言い聞かせるように言って、きり丸の背を軽く叩いた。
「……半助さんが言う通り、ただの松明よ」
 今見たものは明らかに松明の灯ではなかったが、半助の言葉通りに考えた方が恐ろしさは和らぎそうだった。
「そ、そうっすね」
「うん。そうだよ、きりちゃん……うん」
 泣きそうな顔で大きく頷いている名無しさんの背を、半助がそっと押した。
「ほら、帰ろう」

「名無しさんさん。今日の夕飯、何っすか?」
「えっとね、南瓜の煮物と雑炊」
 きり丸と名無しさんは努めて明るく、しかし強ばった表情で早口に言葉を交わしている。さらに、歩く速度は競歩さながらだ。
 その後ろを、半助が微苦笑しながらついていく。
 突然、きり丸と名無しさんの前に、横道から黒い影が飛び出してきた。きり丸と名無しさんは悲鳴を上げて飛び上がり、半助にしがみついた。
 半助は呆れて溜息を吐く。
「ただの犬だぞ」
「へっ?」
 きり丸は慌てて半助から離れると、居心地悪そうに「なんだ犬か」と独り言のように呟いた。
 半助にしがみついたままの名無しさんは、遠ざかっていく影をまじまじと見る。
「……犬」
 尻尾を揺らしながら歩いていくそれは、確かに犬だった。
「やだ、もう……びっくりしたぁ」
 名無しさんは安心したように言うと、半助の着物から手を離した。呆れ顔の夫とは視線を合わせずに、彼女は何事もなかった風を装う。
「さ、早く帰りましょ」
 名無しさんの言葉にきり丸は頷いて、先程よりも早い歩調でふたりは歩きだした。
「これでは、家に着く頃には駆け足だな」
 家路を急ぐふたりの後を、半助は笑いながらついていくのだった。

 暗い家の中は、夜の冷えた空気に満たされつつあった。
 名無しさんは布団の中でもぞもぞと動くと、遠慮がちに口を開く。
「きりちゃん……半助さん……寝ちゃった?」
「起きてますよ」
 名無しさんの右から届いたきり丸の眠そうな声に続いて、左からは半助の苦笑混じりの声がする。
「名無しさん、そろそろ寝かせてくれないか」
 普段ならば、きり丸は半助と名無しさんから少し離れたところに布団を敷くのだが、今夜は名無しさんの希望で彼女を中心にして3人並んで寝ている。
 名無しさんは困ったように小さく唸った。
「だって、怖いんだもの」
 と名無しさんが言うと、きり丸がのそりと体を起こす。
「大丈夫ですよ、名無しさんさん。土井先生もぼくもいるんだし」
「……うん」
「全然……怖いことなんて、ないっすよ」
 眠そうに何度も目を擦るきり丸に、半助が静かに言う。
「きり丸、おまえは明日も新聞配達のアルバイトがあるだろう。もう寝なさい」
「はーい……」
 布団に潜ったきり丸は、すぐに寝息をたて始める。
「名無しさんも、今のうちに寝てしまえ」
「……うん。おやすみなさい」
 言って、名無しさんは布団で顔を半分隠した。それを見た半助は小さく笑う。
「おやすみ」

 早く眠ろう。
 そう考えれば考えるほどに、名無しさんの目は冴えてくる。
 夜も更けて、冷え込みは酷くなる一方だ。
 名無しさんは幾度も寝返りを打つ。うっかり足を布団から出しては冷えた空気に驚いて引っ込める、というようなことを繰り返しているうちに足が冷えてしまい、これでは到底寝付けそうにない。
 家の中も外も、しんと静まり返っている。
 名無しさんは半助の方を向きながら、布団の中で体を曲げた。
 考えまいとしていたはずの光景が脳裏に浮かんでしまい、名無しさんは思わず寝間着の帯を強く握る。
「……半助さん」
 小声で夫を呼ぶ名無しさんの頭には、青白い鬼火が漂う様が浮かぶ。
「ねぇ、半助さん……」
 どうして起きないのだろう。大抵、呼びかければすぐに目を覚ますのに。今夜に限って眠りが深いのだろうか。
「半助さん」
 暗闇に響く自分の声音に、心細さが増してくる。
「半助さんっ……ねぇ、起き……」
 コンコン、と音がして、名無しさんは飛び上がった。慌てて頭まで布団を被り、じっと息を潜める。
 何の音だろう。いや、きっと聞き違いだ。気のせいだ。そうだ、何も聞こえなかった。聞こえるはずがない。
 名無しさんが布団の中でぎゅっと小さくなっていると、眠っていたはずの半助が、くっ、と笑った。
 名無しさんが恐る恐る顔を出すと、半助は布団越しにも分かるほどに震えている。彼は笑いを堪えているのだろう。
 がばと名無しさんは体を起こした。
「今の、半助さんだったの? 酷い!」
 名無しさんが声を抑えながらも怒って言うと、半助は声を立てて笑い出す。
「すまん。お前があまりに不安そうな声を出すから、ついからかいたくなって」
「どうしてそういうことをするんですかっ」
 名無しさんは布団の上から半助を軽く叩いた。
「ごめん」
 体を起こす半助をわざとらしく睨んで、名無しさんは溜息を一つ落とす。
「半助さん……」
「ん?」
「あれって、やっぱり鬼火ですよね?」
 どうかな、と半助は曖昧に言うが、それが名無しさんにとっては何よりの答えだった。
 やはり今晩見たものは全て、魑魅魍魎の類だったのかもしれない。あの提灯を持った男も。
 黙り込んだ名無しさんの考えを察したのか、半助は苦笑した。
「大丈夫だ。ここには、幽霊は来……」
 名無しさんの両手が半助の口を覆い、そのまま彼を押し倒す。
「怖いこと言わないで」
 口を塞がれたままだったが、半助の目は笑っている。
 半助は泣き出しそうな表情の名無しさんの髪を耳に掛け、彼女の頬をそっと撫でた。
 どぎまぎした名無しさんが半助から手をどけた次の瞬間、彼女は夫に組み敷かれていた。
 半助の顔が見えていたはずが、視界は暗闇に変わった。
 何が起きたのか分からずに、名無しさんは二、三度瞬きする。
「名無しさん……布団から出ると冷えるぞ」
 耳元でからかうように囁かれ、名無しさんは慌ててきり丸の方へ目をやる。
「眠っているよ」
 半助はそっと指先で名無しさんの顎を捕らえた。自分の方を向かせると、そっと口付けを落とす。
 半助は名無しさんに何度も啄むように口付けて、最後にとびきり優しく額に唇を押しつけた。
「もう怖くなくなったか?」
 名無しさんは頷いて、火照った頬を押さえた。
 半助は小さく笑って名無しさんの髪を一撫ですると、彼女の布団を側に寄せた。
 きり丸より早く起きなくては。名無しさんはぴったり並んだ布団を見てそう思った。大概は名無しさんが一番早く起きるが、明日もそうだとは限らない。
 きり丸が寝る前には離れていた夫婦の布団が、いつの間にかくっついていたらどう思うだろうか。きり丸は何も言わないだろうが、恥ずかしいことに変わりはない。
 絶対に、きり丸より早く起きよう。
 名無しさんはそう決心して布団に入った。
「寝るぞ」
 名無しさんの手を半助が握る。掛け布団の端を重ね合わせたので、手を伸ばしていても寒くはない。
「お前が眠るまで、ちゃんと起きているから。もう、おやすみ」
「うん」
 名無しさんは目を閉じた。

 ようやく眠れそうだと思った途端、提灯を持つ男の後ろ姿が瞼に浮かび、名無しさんはぱっと目を開けた。
「半助さん」
「どうした」
 半助の面倒くさそうな声音は気にせずに、名無しさんは続ける。
「あの人……」
 提灯の明かりを貸してくれた人、と名無しさんは静かに言い直した。
「私の知っている人だった気がするの」
「……顔を覚えているのか?」
「ううん。不思議だけど、顔を覚えていないんじゃなくて、見えたかどうかも覚えていないの。でも、知ってる気がして」
 名無しさんの言葉に、半助は考え込むように唸った。「それなら、名無しさんは誰だと思うんだ?」
 名無しさんの頭の中には、ひとりだけそれと思う人物がいた。だが、名無しさんはゆっくりと首を横に振った。
「分かりません」
「……そうか」
「はい」
 隠すつもりはないし、半助はその人物について知っている。それは名無しさんの身内であり、恐らくはもうこの世にはいない。
 名無しさんは、ほんの一寸前までは彼の話をするつもりだったが、その名を口に出せなかった。
 分かってもらえないかもしれない、と思ったのだった。それは名無しさんのせいでも、半助のせいでもない。
 思い出を伝えることはできても、記憶を共有はできない。伝えようと言葉を選んでも、一番伝わってほしいことは言葉の隙間から静かにこぼれ落ちていく。
 半助との間に、それが起こるのが嫌だった。それだけのことだったが、名無しさんは口を噤んだ。
 不意に、名無しさんは半助と自分が別々の人間なのだということが無性に切なくなった。縋るように、繋いだ手に力を込めると、半助も名無しさんの手を握り返す。
「どこの誰でもいいが、今日のようについていくんじゃないぞ」
 静かな、怒っているような声だった。
「はい」
「どれだけ心配したか、分かっているのか?」
「ご、ごめんなさい」
 藪蛇だ。余計な話をせずに、さっさと寝てしまうべきだった。これからまた説教が始まってしまうのだろうか。何から何まで自業自得とはいえ、どうにか切り抜けられないだろうか。
「名無しさん」
「……はい」
 名無しさんは思案するのをやめ、覚悟を決めた。そして、小さく息を吐く。
 止められたのに夜道を出歩いて、見知らぬ男についていき、散々心配を掛け、挙げ句の果てに安眠妨害までしたのだ。半助に怒られるのも仕方がない。
 だが、名無しさんの耳に届いたのは思いがけない言葉だった。
「あんな風に、私を置いていかないでくれ」
 半助のいつにない声の響きに、名無しさんは慌てて言葉を返す。
「ふ、普段は、置いていくのは半助さんの方でしょ」
 どうにも的外れな返答になってしまったが、名無しさんは取り繕うことができずに半助の返事を待つ。
「そうだが……いや、だから……いつも見送ってほしいんだ」
 最期も、という半助の呟きに、名無しさんは眉間にしわを寄せた。
「……何の話をしてるんですか」
 険のある名無しさんの声に、半助は笑った。
「ただの話だ」
 半助の仕事のこと、互いのこれまでの人生と、これからのこと。名無しさんは一通り考えて、暗闇を見つめた。
「いいですよ、たまに帰ってきてくれるなら。今日みたいに、ちゃんと見つけてくれるなら……迎えに来てくれるなら」
「灯もいるか?」
 どこかほっとしたように言って、半助は静かに笑う。
 名無しさんより少し高い半助の体温が馴染んで、繋いだ手の温もりがひとつになる。
「いらないです。忍者なんだし暗くても平気でしょ……でも、できれば一緒がいいなぁ。きりちゃん、寂しがるかな?」
「その頃には、きり丸も独り立ちして、いい人がいるだろう」
「そっか」名無しさんの声音が急に明るくなる。「どんな子だと思う?」
「うーん……あいつのどケチに、耐えられる人でないとなぁ」
「そうですよねぇ。きりちゃんのどケチっぷりは、もう少しどうにかしないと……きりちゃんが卒業する頃に、いい勤め先があるといいんだけど。フリーで仕事するつもりなのかな? 半助さん、きりちゃんは忍術学園に勤める気はないの? でも生活するには十分だけど、きりちゃんが望む程のお給料は貰えないですよね。それにあそこじゃ殆ど出会いもないし、忙しいし、とにかく結婚が遅れそう。でも、きりちゃんは半助さんより要領がいいから、大丈夫かな?」
「……名無しさん……いいかげんに、寝ないか?」
 心底呆れかえったような半助の声に、名無しさんは口を閉じた。

 先程までとは打って変わって、名無しさんは幸せな気分で暗闇を見つめていた。
 きり丸の規則正しい寝息に、口元を綻ばせる。
「半助さん」
「今度は何だ」
 溜息混じりに返事が返ってくる。
「一緒に寝ちゃだめ?」
 うーん、と半助は悩むように唸ると、からかうように口を開いた。
「……生殺しだな」
 僅かな間があってから、真っ赤になった名無しさんが半助を枕で叩く。
「いてっ、名無しさん、叩くな! 冗談じゃないか。しぃーっ、きり丸が起きる」
「もう知らないっ」
 枕を半助に向かって投げ捨てると、名無しさんは彼に背を向けて布団に潜った。
 小さく笑う半助の腕が、名無しさんを掛け布団ごと掴まえる。
「ちょっと!」
 抵抗する間もなく引き寄せられたが、元より名無しさんは抵抗するつもりはない。
「名無しさんには勝てないな」
「そんなこと、思ってないくせに」
 言いながら名無しさんは半助の布団に潜り込み、彼の胸に頬を寄せた。
「半助さん」
「ん?」
「今度のお休みに、ゆっくり話したいことがあるの。聞いてくれる?」
「ああ、勿論。今でもかまわないが」
 名無しさんは静かに首を振る。
「いいの、ただの昔話だから。でもね……少し長くなりそう」
「いくらでも聞くよ。春休みでもいいなら」
 名無しさんはくすくすと笑う。
「冬休みにも帰ってきてください」
 努力はする、と半助は力無く言う。
「ありがとう」名無しさんは半助の背に回した腕に力を込める。「ここが、私の一番安心で幸せな場所」
 そうか、と素っ気ないながらも照れくさそうに、半助は呟いた。
「……おやすみなさい」
「おやすみ、名無しさん」
 半助は困ったように小さく笑いながら、腕の中の温もりをそっと抱き締めた。
 暫くして、妻の寝息が静かに聞こえてくると、半助はようやく安堵して瞼を閉じたのだった。