新月は窓の向こう

 夕方からのバイトを終えて店舗の外に出ると、思ったほど寒くはなかった。三月に入ったせいか夜の空気は少しだけ柔らかく、時折春の気配を感じる。
 携帯で時間を確認すると、まだ22時前。いつもより少しだけ早く終わった。
 バスが来るまで20分あるから、コンビニに寄ろうかな。そう考えながら携帯から顔を上げて、私は息を呑んだ。
 通用口から続く小道の先。広い歩道に、土井先生の姿が見えたからだ。
 歩道に向かう一本道を歩きながら、私は困惑していた。
 バレンタインに土井先生に告白をして以来、メールのやりとりを何度かしていただけで、会うのは初めてだった。
 返事はまだ貰っていない。年度末で忙しいけど3月中旬にはなんとか時間を作る、とメールには書かれていた。だから、次に会うのはホワイトデーか、それを過ぎた頃だろうと思っていた。それなのに、どうして今、ここにいるのだろう。
 メールは来ていなかったはずだ。
 コートのポケットにしまった携帯の重みを意識しながら、縮まる先生との距離をそれ以上に意識する。
 土井先生はいつになく厳しい表情を浮かべているように見えた。けれど、私のスニーカーが歩道のタイルを踏むと、見慣れた笑顔に変わった。
「お疲れさま」
「……お疲れさまです。あの、どうしたんですか?」
「苗字を待ってたんだ」
 と土井先生は言って、すぐに何かに気付いたような表情を浮かべた。
「ごめん、ストーカーみたいだな」
「いえ……」
 嬉しいと素直に言うのは、どうしても躊躇われた。まるで好きだと言っているようなものだ。でも私が土井先生に好意を抱いているということを知っているのだから、言わなくても分かることだろう。
 もしかして、振られるのだろうか。
 たまたま、今日のこの時間が空いたから来たのかもしれない。返事を待たせて、私が期待したら困るから。
 俯いて、足元のタイルの目を視線でなぞった。迷路のように曲がりくねっている。
 沈黙を破ったのは先生だった。
「苗字に会いたくて」
 土井先生の声は、通りを行き交う車にかき消されてしまうほど静かだった。
 どういう意味なのか訊ねることは適わず、私は下を向いたまま、できるだけ当たり障りのない言葉を選んだ。
「帰ったら、先生にメールしようかなって……思ってたところなんです」
 精一杯の作り笑顔だけれど、言ったのは本当のことだ。バイトのシフトが出たので連絡しようと思っていた。そういう切っ掛けがあったうえでの、半ば事務的なメールしか送ることができない。
「そうか」
「はい」
 こんなにぎこちなくて気まずい会話は初めてだ。先生と会って話ができるだけ幸せなような、宙ぶらりんな関係が辛くてたまらないような、それこそ酷く中途半端な気分だ。
 どうして何も言ってくれないんだろう。
「家まで、送ろうか?」
「え?」
 思わず、視線を上げた。
 土井先生が着ているのはダウンジャケットだから、バイクのはずだ。
「でも……二人乗りはしないって」
「車なんだ。山田先生に借りた」
 縋るような目、とでもいうのだろうか。私の言葉を待つ土井先生の表情はどこか不安げに見えた。
 でも、先生が不安になる理由は思いつかない。
「今日は、バスで帰ります」
「……そうか」
 そう言って、先生は力なく笑った。
 どうしてそんなに、がっかりしたような顔をするのだろう。一瞬、慰めたいような気持ちに駆られた私に、先生はいつも通りのにこやかな顔を向けた。
「じゃあ、気をつけて」
「はい。先生も……えっと、おやすみなさい」
「おやすみ」
 先生に軽く頭を下げて、早足で歩き出す。一緒にいたい気持ちよりも、逃げ出したい気持ちが勝った。
 横断歩道の手前の点字ブロックに、スニーカーの爪先が触れた。早く、青になって。
「苗字」
 呼ばれて、心臓が早鐘を打った。
 ゆっくりと振り返ったけれど、土井先生の顔を見ることができない。
「14日、会えるかな? 7時に……書店で」
「はい」
 掠れる声でそう答えた。声が届いたかどうか分からないまま、もう一度おじぎをして青信号の横断歩道を駆けた。
 コンビニに寄る気力はもう残っておらず、バス停の列に並んで、バスが来るのをぼんやりと待っていた。
 少し遅れてやってきたバスに乗り込んで、一番後ろの席に座ると安堵の溜息が出た。窓の外、流れていく景色を眺める。
 土井先生はもう帰っただろうか。
 もしも、車で送ってもらっていたら、告白の返事を貰えていたのかな。14日まで待たなくてもよかったのだろうか。会いに来てくれたのは、どうしてだろう。返事に迷うくらいには、先生は私のことを好きなのだろうか。それとも、逆なのかな。
 正解は?
 土井先生の出す問題は私には難しすぎる。
 早く解答が欲しい。でも本当に欲しいのは、嬉しい答えだけ。
 涙が滲みそうになって、慌てて目を擦った。
 誰も見ていないのに。そう思って苦笑しながら横を向くと、窓ガラスに自分の姿が映っているのに気が付いた。
 大人に見える。先生からはどう見えるのだろう。制服を着て教室にいたあの頃と、今の私は違うのだろうか。それとも、同じなのだろうか。
「どっちかな」
 暗い、窓越しの景色に問いかけた。

 苗字と、恋人になってもいいのだろうか。
 何度繰り返したか分からない問いを自分に投げかける。
 苗字に告白をされてから二週間が過ぎようとしているが、明確な答えは出せずにいた。

 苗字と初めて言葉を交わしたのは、彼女が3年生の時。2度目の授業の終わりだった。集めたプリントを揃えていると、彼女はおずおずと教卓へ近づいてきた。
「土井先生……」
「どうした?」
「あの……プリント、家に忘れてきてしまったので……明日でもいいですか?」
「ああ、構わないよ。私が職員室にいなかったら、机に置いてくれればいいから」
「はい」
 苗字はぺこりと頭を下げて、教室を出ていった。
 私が在学中の苗字と交わした会話はほんの数回。どれも同じ程度のものだった。
 彼女は決して目立つ生徒ではなかった。人懐っこく話しかけてくるようなタイプでもなかったし、選択科目を受け持っている他には、私たちには何の接点もなかった。
 それでも印象的だったのは、窓際の一番後ろの席で彼女は時折外を眺めていたからだ。
 勿論、授業中によそ見をしている生徒がいることなど、珍しくはない。しかし、日の当たる窓辺にいる彼女は他とは違って見えた。
 授業中だぞ。
 出かかった言葉を何度も飲み込んで、私はテキストに目を落とした。どうしてそうしたのか分からない。
 いや、少しだけ分かっている。窓の外を眺めている彼女は、特別だった。
 初めのうちは、苗字は見た目に反して不真面目な生徒なのだと思った。そして次には、私の授業がつまらないのかと悩んだりもした。
 けれども私は段々と、苗字が何を見ているのか気になり始めた。景色だろうか。何か特別なものでもあるのだろうか。本当は窓の外を見ているわけではなく、思い悩んでいるのだろうか。
 答えは出ず、本人に訊ねることもできないまま、季節は移り変わっていった。そうして彼女は卒業していった。

 放課後。生徒が残っていない時間帯に、こっそり教室に行ってみたことがある。こそこそするようなことでもないが、教室の明かりを点けないまま、苗字の座っている席に腰を下ろした。
 何が見えるのだろうと期待したが、教壇から見るそれと大して変わりはしなかった。
 窓の向こうは暗く、河原も水の流れも黒々として、その境目は無いに等しい。橋を通る車のライトや建物からの明かりが、景色の暗さをより強調していた。
 そして、窓ガラスには自分の姿がうっすらと映っていた。
 ああ、彼女が見ているものとは違う。
 それは落胆ではなく愁嘆だった。
 とてつもなく無駄で、馬鹿げたことをした。自分に呆れ、もどかしい気持ちを抱えたまま教室を出た。
 二度と同じことをしようとは思わなかった。

「あの……土井先生ですか?」
 書店で本を選んでいると、声を掛けられた。
 振り向くと、初めて会う苗字がいた。申し訳程度に着崩した制服でもなく、あの頃と同じ髪型でもなかったが、すぐに彼女だと分かった。
 記憶の中の彼女より、ずっと大人っぽくなっていたけれど、雰囲気はあの頃のままだった。
 できるだけ確率の低そうな場所を選んではいるが、校外で生徒や卒業生に遭遇することはよくある。驚いたり懐かしかったり、ばつが悪い思いをするのはしょっちゅうだが、心底嬉しいと思ったのは初めてだった。
 彼女が手にしているのがブライダル情報誌だと気が付いたときは、ショックだった。すぐに付録目当てで買うのだと聞かされて、自分にもチャンスがあると思った。
 そして、そう思った自分に驚いた。
 苗字とのメールも待ち合わせも、楽しくて仕方がない。コーヒーを飲みながら本の話をする時、出勤前や昼休みにメールを送る時、眠る前に苗字のことを考える時も、いつも喜びで一杯になる。
 けれども同時に、罪悪感がまとわりついていた。
 苗字はもう生徒ではなく、成人したひとりの女性であるし、私は在学中の彼女を異性として見たことはなかった。
 だが、自覚の無いまま惹かれていたのは確かだろう。
 だからこそ、好意を持ちながらも、どうしていいのか分からないでいる。
 友人以上、恋人未満。
 都合のいい距離は気が楽で、彼女が私に寄せてくれている好意を知りながら、それに甘えていた。甘えていいような気がしていた。
 どちらかといえば内気な苗字は絶対に告白などしないだろう、と見くびっていたのかもしれない。どこかで、彼女はまだ子供だと考えてもいた。
 手綱を取っているのは自分。私たちの関係の一進一退は自分の匙加減で決まる。と、今となっては酷い思い上がりを、私は心のどこかでしていたのだろう。
 彼女にだって、駒を進めることはできたのだ。それも、私よりずっと強い意志を持って。

「好きです」
 彼女の瞳はあまりに真っ直ぐだった。
 恐らく、彼女が私に向ける想いも、同じように真っ直ぐなものなのだろう。そのひたむきさが愛おしいと同時に、私を立ち止まらせた。
 嬉しさよりも、苦しさが僅かに勝った。
 いつからそうなったのか、覚えていない。ただ、いつからか、恋をするのにも正当な理由が必要なように思えていた。清廉潔白で、誰にも引け目を感じないような理由。
 それがなければ、踏み出せなくなっていた。
 苗字に恋をしてもいい理由が、見あたらなかった。そのうえ躊躇いや罪悪感のあるまま、彼女の気持ちに応えてはいけない気がして、返事ができなかった。
 正直な気持ちだが、ずるい言い訳でもある。

 苗字がくれたチョコレートは可愛らしく、ごくシンプルなものだった。
 出勤前と帰宅時につまんでいたら、バレンタインの一週間後には食べきってしまった。箱は捨てられずに部屋に置いてあり、そのせいで苗字が部屋にいるような気がしてしまう。
 空き箱を見る度に彼女を思い出す。そうでなくても、彼女のことばかりを考えているのに。
 だから、ここ数日は職員室に遅くまで残るか、高校の近くにある寮の山田先生の部屋にお邪魔して仕事をしていた。年度末で忙しいこともあるが、仕事に追われていると煩わしいことを考える暇がなく、幾分か気持ちが楽になる。
 勿論、煩わしいのは苗字ではなく、答えを出すのを拒否して御託を並べる自分自身だ。簡単な答えに辿り着くはずなのに、そこへの道は雑然としている。

 ファイルを閉じて、大きく息を吐いた。
 今日も山田先生のところに厄介になろう。寮生に仕事の邪魔をされないといいが。などと、ぼんやりと考えながら凝り固まった肩を回す。
「あの~」
 突然、斜堂先生に後ろから声を掛けらた。
「うわあ」
 ついうっかり、悲鳴にも似た声を上げてしまい、声慌てて取り繕う。
「す、すみません。急に後ろからいらっしゃったので驚きました……どうかしましたか?」
「そろそろ切り上げましょう。ちょっと校内の見回りをしてきます」
 時計に目をやると21時過ぎ。いつの間にか、職員室には私と斜堂先生しか残っていなかった。
「上の階の見回り、してきますよ」
 日直の斜堂先生に遅くまで付き合わせてしまった気がして買って出た。
「ではお願いします。私は下と、向こうの校舎も見てきますので」
 そう言って、暗い廊下に出ていく斜堂先生はさながら幽霊のようで、思わず苦笑した。
 廊下の空気は冷たく、春はまだ遠いと言っているようだった。
 階段の明かりを点け、上階を目指しながら考えるのは、仕事のことではなく苗字のことだった。高校生だった苗字と、今の苗字。思い出と現在、そしてこれから。どれも、まとわりついて離れない。
 とにかくできるだけ早く、彼女に返事をしなければ。
「……ごめん」
 ぽつり、と小さな謝罪をこぼして、暗い教室に入った。
 苗字が私の授業を受けていた教室。
 その窓際の一番後ろの席は、当然ながら今は違う生徒のものだ。
 それでも、この教室のこの席は、苗字の席だ。
 真面目に授業を受けていた彼女の姿も知っているのに、思い出すのはいつも、視線を遠くにやっている彼女だ。控えめにボタンを外した襟元や、上着の袖口からのぞくセーター。夏服の白いシャツと強い日差し。開いた窓の風が揺らす髪と、その影。
 どの苗字も黒板など見ておらず、私はそれが不満だった。
 カフェやレストランで、向かいに座った苗字は真っ直ぐに私を見る。高校時代の彼女とは別人のようで、私は不安だった。
 面影を残したまま大人になっていく彼女に、自分が惹かれているのは隠しようのない事実だ。彼女も私に好意を寄せてくれている。
 恋人になってしまえばいいだけなのに、そうできずにいるのは何故だろう。

 椅子の背に手を置いて窓に目をやると、廊下の明かりが窓ガラスに私の姿を映していた。
 その先に見える景色はどうしてか、いつも以上に暗い。
「好き……か」
 何故、苗字は私を好きになってくれたのだろう。
 冷たい窓ガラスに触れると、彼女のベージュのコートを思い出した。
 2月14日の5限目。あの時、河原にいる女性は間違いなく苗字だと確信していた。あれが彼女でなければ、目を離せなくなるはずがない。
 彼女は私の前に現れて、私は彼女を見つけた。
 小さく息を吐いて、誰もいない真っ暗な冬の景色に再び目を凝らす。
「ああ……そういうことか」
 思わずそう独り言ちた。
 私はこの景色の先に、ずっと苗字を探していた。
 彼女の見ているものではなく、彼女と共有できるものを見つけたかった。けれどもこの教室に彼女がいた頃、それは決して叶わぬ願いだった。
 叶えてはいけなかった。
 だが、今は違う。彼女はすぐ目の前にいる。並んで歩くこともできる。
 だからもう、川向こうの景色に苗字を探さなくてもいい。彼女を待たせる必要など、ないのだ。
 教室から外を眺める苗字の真っ直ぐな瞳に、私はずっと憧れていた。あの瞳に、見つめられたかった。
 それはとうに叶っていたのに。
「理由なんて、それでいいじゃないか」

 教室を出た。
 走るな、と生徒には注意をする廊下を走った。消灯し、階段を駆け降りる。そのまま職員室に駆け込んで、斜堂先生に異常が無かったことを告げると、荷物を引っ掴んだ。
「お先に失礼します。お疲れさまでした!」
 ひたすらに、寮へと向かって走る。今日に限ってバイクを寮に置いてきたのは失敗だった。
 普段ならのんびり歩いても5分程度の距離が、やたらと長く感じられる。だが、心を淀ませていたものが消え去って、気持ちは晴れ晴れとしていた。
 胸の中は苗字への想いだけ。
 自分自身を雁字搦めにしていたのが馬鹿らしい。何を悩んでいたのだろう。
 寮の玄関で靴を脱ぎながら、就寝時間を過ぎてもうろうろしていた3人組を叱りとばした。部屋に戻ったのを見届けてからようやく、山田先生の部屋に飛び込んだ。
「山田先生!」
「おお、土井先生」
「車、貸していただけませんか?」
 山田先生は、息急き切って部屋に入ってきた私に少し驚いた風だったが、何も訊かずに車を貸してくれた。ただし、帰りにガソリンを入れてくる、という条件付きで。

 苗字のバイトしている店は複合商業施設に入っているので、その駐車場に車を停めた。苗字に割引券をもらったので、何度か行ったことがある。
 どうするか暫く車内で迷った挙げ句、店舗には行かずに通用口の傍の歩道で待つことにした。
 もうすぐバイトが終わる頃だろう。まさかシフトの変更があって、苗字は休みだったりしないよな。
 怪しまれない程度にうろうろしながら、考えを巡らせていたが、不意に我に返った。
 一体、何をしているのだろう。
 バイト先に押し掛けるなんて。いや、押し掛けるというよりは待ち伏せか。どちらにしろ、彼女はどう思うだろうか。せめてメールを送ればよかった。
 見つからないうちに、帰ろう。
 そう考えた矢先、苗字が通用口から姿を見せた。ざあっと、血が下がる。
 勢いだけで来てしまったが、私は彼女に何を言う気なのだろうか。好きだ、と一言言えばいいだけだろうか。そもそも、何をしに来たのだろう。
 思案しているうちに苗字との距離が縮まって、私は彼女に精一杯の笑顔を向けた。

「あれじゃあ、まるで……不審者だ」
 駐車場に停めた車の中で、溜息を吐きながらハンドルに凭れ掛かる。
 情けなさで一杯だった。
 一言でいいはずなのに、その一言が口から出ず、どうしても伝えられなかった。素直な気持ちを相手に伝えるのは難しく、怖い。とても勇気の要ることだ。
 改めて、告白してくれた苗字に敬意を払う。
 だからこそ、彼女に返事をすべきだった。と思うのは簡単だ。
 喉に貼り付いた言葉の代わりに、家まで送ると申し出たが苗字には断られた。まあ、当然の態度だろう。告白の返事を保留にされたまま、狭い車内で一緒にいたいと思うはずはない。
 それでも、もう少し一緒にいたかった。
 長大息をして、首を小さく横に振る。
「……車を借りる前に、頭を冷やせばよかった」
 呟きが、虚しく響く。
 悔やんでも後の祭りだが、次の約束を取り付けられただけましだ。と思うことにしよう。苗字はメールをくれるだろうか。
 女々しく考えながら、フロントガラス越しに空を見上げた。
 月のない空に、星がよく見える。
 いつもより明るくはっきりと、澄み切った想いが私の胸を満たしていた。