年賀状

 コーヒーの香りとお喋りが満ちる店内を目だけで見回して、私は溜息混じりに口を開いた。
「あっという間に年末ですね」
「そうだな」
 言いながら、土井先生は文庫本を鞄にしまう。
「先生は、もう年賀状書きましたか?」
 あぁあああ、と土井先生は呻いた。この様子だとすっかり忘れていたみたいだ。
「まだだ……名無しさんは?」
「私もまだです。とはいえ印刷も終わって、一言書くだけなんですけどね……毎年ギリギリか、明けてからの投函になっちゃって。土井先生は、毎年出してるんですか? 生徒にも?」
 疲れ果てたように頷きながら、土井先生はソファーに身を沈めた。
「クラス受け持ってるときは、一応出してる」
 いいなぁ、なんて思ってしまう。私は選択授業を受けていただけなので、高校時代に土井先生から年賀状を貰ったことはない。
 何か一言書くのかな。当たり前だけど、クラスには女の子もいるよね。きっと土井先生のことを好きな子だっているはずだ。その子はどんな年賀状を先生に送るんだろう。卒業生からも来るのかな。
 そんなことを考えていると、もやもやした気持ちになってくる。実在するかどうかも分からない相手に嫉妬するなんて馬鹿らしい。
 でも、気になってしまう。
「名無しさん?」
「私も年賀状欲しいです」
 土井先生は、一瞬だけ驚いたような顔をした。
「いいよ。後で住所を……」
「あっ、でも……やっぱり」
 家族に見られるかもしれないなんて、中学生みたいな心配をしてしまう。当時はそんな心配とは無縁だったけれども。
 土井先生はコーヒーを一口飲むと、わざとらしく眉尻を下げた。
「いらない?」
「えっと……」
 どうしようかと悩んでいる私を土井先生は呆れ顔で見て、カップをテーブルに置いた。
「名無しさんが一番にポストを開ければいいだろう。ただの年賀状だぞ」
 やっぱり全部お見通しのようだ。
「それは、そうなんですけど……」
 土井先生と付き合っていることは、未だに家族には秘密にしている。休日に出かけることが増えたり、帰りが遅かったりするので、彼氏ができたことはとっくにばれているけれど。
「それより、名無しさんもくれるんだろう?」
 肘掛けに寄りかかって頬杖をついた土井先生は、ちらりとこちらを見て、すぐに視線を他にやった。
 居心地悪そうな横顔が可愛らしくて、私はそっと笑いを噛み殺す。
「考えておきます」
 本当はもう書いてある。他の人とは違う絵柄にした年賀状には、メッセージもしっかり書いた。
 でも郵便番号と住所だけはまだ空白のままだ。後で住所を交換しなくちゃいけない。なんだか少し緊張する。
「まあ、楽しみにしてるよ」
 そう言って、土井先生は静かに笑った。

 ドアを開けると、冷たい空気が肌を刺した。首を竦めながらポストに駆け寄る。
 土井先生のおかげで、元旦からポストを開けてばかりいる。出すのが遅くなったと元旦にもらったメールに書かれていたけれど、そろそろ届いてもいいはずだ。
「今日こそ……」
 勢いをつけてポストを開けると、期待通り郵便物が入っていた。
 年賀葉書はほんの数枚だ。
 選り分けていくと、ようやく目当ての年賀状が見つかった。

 苗字名無しさん様

 土井半助

 手書きの文字にドキドキしながらひっくり返してみると、地味というか無難な絵柄が印刷されていた。紙の白をインクの黒が縁取った、シンプルな羊と梅の花。

 名無しさん、あけましておめでとう。
 昨年は大変お世話になりました。今年もよろしく。
 きり丸のアルバイトの手伝いは少しだけしたよ、本当はバイトより宿題をしてほしいんだけどなぁ……
 今年は去年より沢山遊びに行こう。まずは初詣かな?

 土井先生の字、こんな風だったかな。
 黒板に書かれていた文字を思い出そうとしてみるけれど、靄がかかったようにはっきりしない。
 また一年、あの頃から遠ざかったんだな。なんて思いながら、家へと入り家族宛の年賀状をダイニングテーブルに置いた。
 高校時代からは遠ざかりながらも、土井先生との新しい一年が始まる期待に胸を躍らせて、私は自室へ向かう。
 もう一度葉書を見直してから、ローテーブルの上に置く。すると、タイミング良く携帯が鳴った。
 土井先生からの電話だったので、急いで通話ボタンを押す。
「名無しさん?」
「は、はい」
 上擦った声で返事をすると、土井先生が小さく笑う声がした。
「あけましておめでとう」
「あけましておめでとうございます。今、年賀状を見ていたところです」
「届いたか?」
「はい。私のは……」
 土井先生からの年賀状に書かれているのは、私が葉書に書いた内容への返事だったので、届いたのは分かっている。
「名無しさんの年賀状は、一番に見たよ」
 多分嘘だけど、嬉しい嘘だ。
 ひとりでにやけながら、ベッドに座った。
「明日の初詣、大丈夫そうか?」
「行けますよ。10時に待ち合わせでいいんですよね」
「うん。車借りられたから、迎えに行くよ」
「えっ……山田先生、お正月なのに寮にいるんですか?」「いや、車を置いて利吉くんと帰ったよ」
「なんだ、びっくりしました」
 あーっ、と甲高い声が受話器の向こうで聞こえた。
「あれ、きりちゃんも部屋にいるんですか?」
「実は今、寮にいるんだ。宿直の先生ときり丸に呼び出されて雑煮を……ん? すまん、名無しさん……きり丸に換わる」
「はい」
 すぐに、きりちゃんの声が聞こえてきた。
「もしもーし、名無しさんさん? きり丸でーす。あけましておめでとうございまーす!」
「きりちゃん! あけましておめでとう」
 大晦日と冬休みの宿題と年越し蕎麦とすっかり煮詰まったお雑煮と、土井先生がこっそりお年玉をくれたけど金額が少なすぎる、という話をした後にきりちゃんは拳骨を食らって、携帯は土井先生の手に戻ったみたいだった。
「きり丸のやつ、挨拶をしたいと言うから換わってやったのに、余計なことばかり喋って……名無しさんも来るか?」
「楽しそうだけど部外者ですよ、私」
「そうか、それもそうだな」言って、土井先生が小さく笑った。「じゃあ明日、いつもの場所まで迎えに行くから」
「はい。あの、土井先生……」
「ん? どうした」
「今年も、よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくな。その……年賀状の……」
「え?」
「返事を全部書こうと思ったんだが、なんだか気恥ずかしくて……名無しさんはゆっくり過ごせてる?」
「はい、それなりに」
「そうか。私もそれなりに……仕事と休みが半々かな。まぁ、今は寮にもきり丸くらいしかいないから、まだいいけれど。やっぱり高等部の方が楽だなぁ」
 土井先生の疲れたような口調に、くすくすと笑う。きりちゃんのアルバイトの手伝いに疲れているのかもしれない。
「名無しさん?」
「あっ、はい。ごめんなさい。聞いてます」
「名無しさんにとって、素敵な一年になるように祈ってる。それに、去年よりいい彼氏でいられるように努力するよ。大好きだよ、名無しさん」
 土井先生の声が、甘く響いた。
 今年はどんな一年になるだろう。土井先生との新しい年。
 そう考えながら、私はベッドに寝ころんで天井を見上げたのだった。