土井は見覚えのある後ろ姿を見つけた。
「もしかして……名無しさんか?」
振り向いたのは少女ではなく、女性だった。
「土井先生」
ほんの少し動揺しつつも、土井はそれを彼女に気取られないよう平静を装う。
「元気そうだね。卒業してもう2年になるか」
「ええ。先生……1年は組の担任なんでしょ?」
「ああ。意外か?」
くすり、と名無しさんは笑った。
「この学園に来たばかりの頃は、見るからに頼りなかったもん。すぐ辞めちゃうかと思ってた」
土井は苦笑する。新任の頃は生徒たちに、特にくの一教室の生徒たちに「頼りない」とよく言われたものだ。
「今日は仕事か?」
「ええ、学園長先生に手紙を……返事を書く間、待つように言われたんだけど、落ち着かなくてうろうろしてたの」
「そうか……しかし、名無しさんも立派になったなぁ」
土井とはさほど関わりのある生徒ではなかったが、叱られて泣いていた姿や自主練習をしていた姿が思い浮かぶ。あの頃に比べると、本当に一人前といった感じだ。
「先生はあまり変わらないね」
意味ありげな表情で近付いてくる名無しさんに、土井は戸惑った。
「ね、先生。今度、わたしとデートしない?」
言いながら、土井の腕に絡みつく。
「こらこら。妙な冗談はよしなさい」
「本気なんだけど」
名無しさんは土井を射るように見る。
生徒だった頃の少女の面影を残してはいるが、その表情は見知らぬ女のものである。
元々、綺麗な子ではあったが、野に咲いていた可憐な花が、丹精をこめて育てられた大輪の花に変わってしまったかのようだ。様変わりした、という表現が合う。
不思議な寂しさを感じながら、土井は名無しさんの腕から逃れた。
その瞬間、名無しさんの瞳が傷ついたように揺れた。
まさか。土井は慌てて弁解しようとしたが、それを遮るように名無しさんは微笑んだ。
「いいわ」体の前で腕を組む。「今日は見逃してあげる」#stamp_改行2#
「名無しさん、どこじゃー?」
学園長の声が響く。
名無しさんは柔らかな笑顔を土井に向けた。
「じゃあね、先生」
「ああ……気をつけて」#stamp_改行2#
土井は学園長の部屋へと消えていく華奢な背中を見送ると、ふう、と溜息を吐いた。
胸の奥がひりひりと痛む。爪痕を刻み込まれたような気分がする。
この気持ちは何だろう。
いや、自覚しない方が身のためではないだろうか。そうだ。少なくとも今はまだ、これが何なのか追及しなくてもいいだろう。一時のものであれば消えてしまうし、そうでなければいずれ分かることだ。
土井は始まってしまった何かを打ち消すように、小さく頭を振った。