「名無しさんさん、待っていてくださったんですか」
息を切らせた半助さんが茶店に現れたのは、もう夕刻だった。
約束は昼過ぎだったけれど、一向に姿を現さない彼を私はずっと待っていた。お茶を何杯飲んだか分からない。
「すみません……補習授業が思いのほか長引いてしまって。あの、怒ってます?」
当然だ。紅葉狩りに行こうと言いだしたのは半助さんなのだから。授業は大丈夫なのか、と私は何度も確かめたのに。
「もう……帰ります」
茶店の主人にお茶代を支払おうとすると、半助さんが慌てて財布を取り出した。
「私が払います」
「結構です」
ぴしゃりと断り、代金を支払って店を出た。
「名無しさんさん」
何も答えずに家路を歩く。
半助さんの歩幅は私より広くて歩調も早いのだから、すぐに追いつくか越していけるはずなのに、ゆっくりと私の後ろを歩いている。
このまま黙っていたら、家まで付いてくる気だろうか。もう一度名前を呼ばないかな。そう彼の様子を窺ったのが分かったのかもしれない。
「名無しさんさん」
「私、本当に楽しみにしてたんですよ」
歩調を早めながら、不満を口にした。
「……すみません」
「どれだけ待ったと思ってるんですか」
「本当に申し訳ない……でも、帰ってもよかったんですよ」
ああ、もう、何にも分かってないんだから。
この人は、どうして私がお茶でお腹をたぷたぷにしてまで待っていたのか、想像もしないんだろうか。
もしかしたら、私が半助さんに会いたいと思っていたなんて考えつきもしないのかもしれない。
「忙しいなら、もっと早く断ってくれればよかったのに」
苛立って、責めるようにそう言った。
きっと今では誘ったことを後悔してるんだろうな。沈黙の中でそう考えていると、半助さんが足を止めた。
振り向くと彼は困り顔で、でもまっすぐに私を見ていた。
「会いたかったものですから」
橙色の夕日に照らされながら、半助さんは優しく微笑んだ。
悔しくて、嬉しくて、何も言えないまま、彼に向かって手を出した。大きな手が私の手を包む。温かくて、何故か少しだけ粉っぽい。
半助さんが夕日を受ける山々を指さした。
「ほら、綺麗ですよ」 景色全体がぼんやりとした茜色に見える。
でもそれよりも、半助さんの横顔がとても綺麗だ。
やっぱり、待っていてよかった。そう思って俯くと、小さく笑うのが聞こえた。
私の考えは全部、見透かされているのかもしれない。
「名無しさんさん、沈んじゃいますよ。夕日……」
その声に顔を上げると、半助さんの顔がすぐ近くにあった。沈む夕日が、彼の肩越しに見える。
私たちの唇が離れた頃にはもう、辺りは暗くなっていた。