ぱらぱらと小石が降ってきたのだと思った。
落ち葉の上で横になっていた半助が驚いて顔を起こすと、胸の上に金平糖が散らばっていた。
「……名無しさん」
半助の顔に影を落としているのは彼の恋人だった。
「何してるの?」
「休憩。さっきまでテストの採点をしてたんだ」
「また、自分の教え方が悪いのか……って落ち込んでたわけ?」
半助は力なく笑って、空を覆う鱗雲に目をやった。
採点を終えたばかりの時は確かにそうだったが、今は全く別のことを考えていた。
名無しさんから文もこないが、次はいつ会えるのだろうか、と。
だがそれを本人を前に言えるわけがない。
「会いたいなぁ」
「え?」
「は組のよい子たちに会ってみたいな」
考えを見透かされたわけではないことに安堵しながら体を起こすと、胸や着物に乗っていた金平糖が落ち葉の上に転がっていく。
「勿体無い」
半助は金平糖をひとつ拾った。着物の中にも幾つか入り込んでいる。
「食べられるよ、このくらい」
名無しさんは、ふうっと金平糖に息を吹きかけると口に放った。
「おいおい」
名無しさんは苦笑いする半助など気にせずに、巾着袋を掲げて振った。かしゃかしゃと小さな音がする。金平糖が入っているのだろう。
「食べる?」
「いらないよ」
「そう」
からから、と楽しそうに口の中で金平糖を鳴らす。
「こんなところで寝転んでるなんて信じられない。寒いのに」
そう言って、半助の隣に腰を下ろす。
「こっちの台詞だ。何しに来たんだ?」
「半助に会いに来る以外の用事はないんだけど」
名無しさんは呆れたように笑いながら笠を外した。
「半助こそ、どうしてここにいたの」
「だから、休憩だと言っただろう」
「学園で休めばいいでしょ。こんな遠い森まで来ちゃってさ」
「一人になりたいときもあるんだ」
運良く補習も他の用事もない日には、仕事から離れて思案をめぐらせたいことだってある。特にそれが恋人についてなら、物理的にも仕事とは距離を置きたかった。女々しい姿を教職員や生徒、ましてやは組の子どもたちに見られてはたまったものではない。
「そう。……邪魔しちゃったね」
「そんなことはない」
「じゃあ、嬉しい?」
「そりゃ嬉しいさ」
「よかった」
訊かなくても知っているくせに。
だが、名無しさんが少女のように顔を綻ばせるのを見て、言葉にしてよかったと思った。
淡い色の小袖が近づいて、半助にぴったりと寄り添う。
「名無しさん……」 溜息混じりに名を呼んで肩を抱き、太股に置かれた手を握ると、夢の中にいる心地がした。
こうしていつも隣にいられれば、せめて彼女がどこにいるのか分かれば、どれほどいいだろう。
私になら。ひょっとしたら、私にだけは教えてくれるのではないだろうか。
「この後、どこへ向かうんだ」
「マナー違反な質問ね」
名無しさんが冗談っぽく、だが咎めるように目を細めた。
「すまない」
と言って、半助は名無しさんから手を離すと俯いた。
酷く浅はかな考えであったと悔やむ。
名無しさんはフリーで仕事をするくノ一だ。本人は並だと言うが、噂では優秀だと聞いている。
半助が彼女と知り合ったのは3年前。それ以前のことは互いにあまりよく知らない。
「仕事、辞めて欲しい?」
ああ、と半助は心の中で答えた。
危険だし、第一いつどこで何をしているのか分からないのは不安だった。実際、この件については何度かそれとなく話したことはある。
だが、他に稼ぐ宛もないと言う彼女に忍の仕事を辞めてくれとは言えない。
今の自分は教師の仕事で手一杯、結婚どころではない。というのは言い訳になるだろうか。
「私は……」
別にかまわない、と半助が続けようとするのを名無しさんは遮った。
「勝てたら、辞めてあげる」
そう言い終えた瞬間、半助の眉間で金平糖が砕けた。
半助が反射的に目を閉じた隙に、名無しさんは姿を隠す。当然、そのままおとなしく潜んでいるわけはなく、矢継ぎ早に金平糖がはじき玉として飛んでくる。
金平糖で怪我と呼べるような傷を負うことはないだろうが、わざわざ顔を狙ってくる点は質が悪い。
半助は左腕で金平糖を防ぎながら、右手を懐に入れる。
「そこかっ」
投げたチョークは名無しさんの居たであろう場所を通り過ぎ、木に当たって砕けた。
くすり、と耳元で笑うのが聞こえたと思った途端、半助は肘鉄砲を食らって茂みに突っ込んだ。
彼女の気配は既に離れた場所にある。
手を着いて体を起こす寸前、茂みに手裏剣が打ち込まれた。
口に入った木の葉を吐き出しながら、これは遊ばれているな、と半助は思った。
彼女ならもっと早く、それも的確に打ち込めるはずだが、避けさせるための間がある。
まあ、本気でないのはお互い様だろう。
半助は飛んできた四方手裏剣を受け、そのまま打ち返す。当てる気は毛頭ない。
ちっ、と舌打ちするのが聞こえて苦笑する。
「女の子が舌打ちなんかするもんじゃない」
「女の”子”、ならね」
彼女の悔しそうな声に胸をくすぐられる。
こういう負けず嫌いなところが可愛らしいと思う。
しかしこの勝負、勝っても負けてもやっかいだ。雌雄を争ったところで、互いの気持ちは変わらない。
望むことと、叶うことは違う。
だから、嫌なのだ。
半助はチョークケースを取り出すと、手の中で数回、軽く放った。
「やれやれ」
手に戻ったチョークケースを木の上に打ち込む。今度は当たるように、しっかりと狙いを定めた。
白い粉と共に降りてきた名無しさんは、殺気とも呼べそうな怒気を放っている。
「辞めさせるつもり、ないんでしょ」名無しさんは半助を睨む。「私が何をしていようと興味ないんでしょ」
彼女は苦無を取り出し、構えた。
「そうじゃない……名無しさん……」
「本気、出さないじゃない」
言いながら、かなりの早さで半助に向かってくる。
半助も咄嗟に苦無を出した。
鋭い音が幾度も響く。
時折、火花を散らしてふたつの苦無がぶつかり合う。
「名無しさんっ、やめろ。怪我をするぞ」
「加減できない腕じゃないくせに」
名無しさんが力強く振り降ろした苦無を半助が受けると、一際大きな音が鳴った。
「それでも、万が一、ということもあるだろう」
「ほら、手加減してるって認めた」 うっかり本音を引き出され、半助は二の句が継げずに黙りこむ。
「半助の、そういうところが、嫌いっ」
名無しさんの苦無が半助の前髪を掠った。
嫌い。
容赦ない言葉に気を取られ、文字通り名無しさんに足下を掬われた。
後ろが緩やかな坂になっていたせいもあり、体勢を立て直せずにそのまま倒れ込む。強かに背を打ったが、落ち葉のおかげで痛みはそれほどでもなかった。
のし掛かる名無しさんの膝が半助の胸を圧迫する。
これが彼女の仕事であれば、自分はとうに事切れているのだろう、と半助はどこか遠くで思う。
喉元に苦無を押し当てられ、緊張とも興奮ともつかない感覚に、ぞくり、とした。
「半助」
名を呼ばれて、ふと我に返る。
自分を見下ろす名無しさんの瞳を、夕日の色が浸食していた。
「怪我させてもいいから……何をしてでも自分の手元に置いておきたいって思われたいの。側にいろって、どこにも行かずに帰りを待てって言われたいの……分からない?」
茜色の滴が落ちた。
「分からないな」
冷たい声だった。
半助は名無しさんの手を勢いよく払った。同時に苦無を取り上げ、近場の木に打ち込む。
慌てる彼女を次の動きに移させまいと手首を捕らえ、あっという間に組み敷くと、細い首に手をかけた。
「私には分からない」
本当に細い首。
片手で絞め殺してしまえる。
僅かに力を込めると、ひゅうっと息の漏れる音がした。
「お前をどこへもやらず、誰にも会わせず……私以外の者を目に映すな、思い浮かべもするな。そう言えと? そうやって、みすみす不幸にしようなどとは思わない」
名無しさんの瞳の中に切羽詰まった男の顔が見えた。暗い目をした、ただただ哀れな男。
半助はよもやそれが自分であるとは考えもしなかった。
「そんな……叶わぬ願いを口にするより、お前をここで殺す方が随分と容易い」
血が煮える音がする。
いつもこうだ。
この娘だけが自分をおかしくさせる。幾重にも重ねた仮面を取り払い、己のありとあらゆる欲望を、身の内にこれほど恐ろしく凶暴なものを飼っているのだと思い知らされる。
彼女の何気ない言葉で、眼差しで、吐息で、狂いそうになる。
これならいっそ、狂った方が楽だろう。
他の誰にもこんな感情を抱いたことはない。
束縛などしたくはないが、どこへもやりたくない。誰にも触れさせたくない。
本当に、この娘を自分のためだけに閉じこめておけたらどんなにいいか。
それができぬのなら、ここで終わらせてしまいたい。そんな衝動に駆られる。
じっと、深く見つめた名無しさんの瞳に、泣き顔の自分を見つけて半助は驚いた。
哀れな男。
その正体に気付いて、彼女の首にかけていた手を緩める。
名無しさんは半助の頬を愛おしそうに撫でると、優しく笑んだ。
「いいよ、殺して」
ゆっくりと瞳を閉じた名無しさんに、半助は噛みつくように口付けた。
*
気付くと、辺りは闇に包まれていた。
名無しさんが身支度を整えるのがぼんやりと見える程度には、星明かりに照らされている。
「大丈夫か?」
「何が?」
「いや……随分と乱暴にしてしまったから」
名無しさんはくすくすと笑った。
どこか嬉しそうな彼女の笑い声にほっとしながら、半助も着物を整える。
「どうしたの?」
名無しさんはきょろきょろと辺りを見回す半助に、不思議そうに声を掛けた。
「いや……帯がないんだ」
「そこ」
名無しさんが指さした先に手を伸ばし、帯を締め終えると、半助はばつが悪そうに頭を掻いた。
名無しさんは、身支度の仕上げをするように半助の肩から落ち葉を払った。
笠で口元を隠し、半助に向けたその目はからかうように笑っている。
「これで、先生だとはねぇ」 うるさい、と返しながら名無しさんの手を取って森を出る道へ進む。
柔らかく、少し冷えた手を握りながら後悔していた。
こんなはずではなかった。 次に会った時には何を話そうか、何をしてやろうか、とずっと考えていた。名無しさんの気が晴れるような、楽しいことを用意しておこう、と。
ところが実際はどうだ。
どれもこれも、忌々しい金平糖のせいだ。
「時々ね」
突然、名無しさんが歌うように言った。
「もう、半助は待っててくれないんじゃないかって不安になるの」
半助は足を止めぬまま名無しさんを振り返った。彼女は怯えたような表情で、暗い道のずっと先を見ていた。「どこで何をしてるか言えないでしょ……だから愛想を尽かされるんじゃないかって」
半助は足元を見た。
「私だって忍者だぞ。忍の仕事は分かっているつもりだ」
「だから余計に、だよ」
それ以上は言わずとも分かった。
知らなければ、騙し騙され、何も知らぬまま。それでいいのかもしれない。知っているからこそ、互いに要らぬ想像をしてしまう。
「名無しさんと同じように、私だって不安になる……これが最後で、次などないのではないかと……もう会いに来てくれないのかもしれない、と思うこともある」
「同じだね」
半助は足を止め、名無しさんを抱き締めた。そのまま天を仰ぐと澄んだ星空が見える。
この星空に比べて、自分はなんと小さな存在だろうか。己の想いも、彼女も抱えきれない。
それでも手放せない。
「二度と会えないかもしれない、と不安になる」
「でも、まだ辞めないよ」
「……ああ」
名無しさんの口調は強い意志を表すものだったが、突き放すわけではなく、包み込むような声だった。
許してもらっているのだ。弱さも卑怯さも、他の醜い何もかもを。
自分の手を引いて歩き出す名無しさんの後ろ姿を見ながら、半助はそう思った。
「半助も、仕事しっかりね」
「ああ」
あと何度、これと似たような会話ができるだろうか。先にあるのは別れか、共に歩む道か。
分かれ道に差し掛かると、名無しさんは笠を持った方の手で行く先を示した。
「じゃあ、私こっちに行くから」
離れていこうとする名無しさんの手を、思わずきつく握る。
「半助」
宥めるように呼ばれて、そっと手を離す。「すまん……気をつけて」
名無しさんは半助を見つめると、おもむろに巾着袋を取り出した。
また金平糖か、と半助は顔をしかめる。
「金平糖、食べる?」
「いらん」
あれほど打ち込まれたら食べる気になどならない。
「そう?」
名無しさんは金平糖を3つ口に放り込むと、強引に半助の顔を引き寄せる。
柔らかく温かい唇が、半助の少しがさつく唇を覆った。
行かせたくない。
無意識に名無しさんを捕らえようとした半助の腕から彼女は逃れた。
「待ってるね、は組のよい子たちが卒業するまで」
その後は知らない、と言いながら名無しさんは半助の胸を軽く押し、そのまま勢いをつけて歩いていく。
一度も振り向かない彼女の姿は、すぐに見えなくなった。
半助も学園への道を歩き出す。
「随分と遅くなってしまったな」
そう独り言ち、口の中の金平糖を3つ、転がした。
とても甘い。
だが、学園に着く頃には跡形もなく消えてしまうだろう。