ミス

 それだけを見れば、ほんの些細なミスなのかもしれない。それでも私は周りの人の手を煩わせ、時間を奪ってしまった。頭を下げて、頭を下げて、頭を下げて、落ち込んだ。
 職場を出てすぐに、溜息を一つ吐いた。
 普段より遅い退社時間は、日中にやらかしたミスのせいではないはずだが、湿気を帯びたぬるい空気は私の重い足取りと心を更に重くした。
 のろのろと歩道橋の階段を上がりつつ携帯を手に取り、躊躇いながらも呼び出し音を聞く。
 やっぱり切ろうかな。そう思うのとほぼ同時に、土井先生の声が耳に届いた。
「名無しさん、どうした?」
 いつもと同じ優しい声にほっとして、強ばっていた体の力が抜けた。
 私がぼんやりと目をやった正面の景色は、幾つものビルと少しぼやけた夜空。そこでようやく、今夜は晴れているのだと気が付いた。
「名無しさん?」
 土井先生の心配そうな声に焦って口を開く。
「ごめんなさい。なんでもないの……声、聞きたくなって」
「そうか。残業?」
 ううん、と答えながら歩道橋の上を進む。車は私の下を通り過ぎては、遠ざかって小さくなる。
「今、帰るところです。なんか……疲れちゃった」自分の声の響きが思いがけず深刻そうなものになったので、慌てて明るく取り繕った。「って言っても、週末までもう少し頑張らなきゃですよね! 先生はもう家ですか?」
 返事はなかった。
 変なことを言ってしまったと後悔して、次の言葉を考える。もっと声を聞いていたいけれど、これといって話すことはない。おやすみなさい、と言って電話を切るべきだろうか。
 足を止めて眼下に目をやる。赤信号と赤いテールランプは、何故か私を寂しい気持ちにさせた。
「今から会おうか」
 柔らかいのに、有無を言わせない土井先生の声音。
「駅まで行くよ」

 どちらが先に着くだろう。
 電車の座席で、私は土井先生のことを考えていた。週末に会ったときの先生は、疲れた顔をしていた。今日もきっと疲れているに違いない。それなのに会いに来てくれるなんて、嬉しいけれど申し訳なくもある。
 でも、私の唇は弧を描く。土井先生に会う前はいつもそう。
 駅の外に出てすぐに、土井先生の姿を見つけた。駆け寄る私に気付くと、彼は軽く手を挙げる。
「お疲れさま」
「先生も、お疲れさまです。バイクですか?」
 右手にライダースジャケットを抱えている。
「そうなんだ、送れなくてごめん」
「バスで帰るから大丈夫。送ってもらうつもり、なかったし」
 そうか、と言って土井先生は柔らかく笑う。
「夕飯は? そこのファミレスにでも行こうか?」
「会社で軽く食べたから、あんまりお腹空いてない」
 嘘を吐いた。本当はあまり食欲が無いだけだ。
「じゃあ、アイスでも食べよう」
 
 コンビニで買ったアイスキャンディーの袋を持って、ベンチに座った。
「何かあったのか?」
 と、土井先生はさりげない口調で言いながら、アイスキャンディーの袋を開ける。
「言いたくなければ、言わなくてもいいけど」
 どうしようか戸惑いながら、私もアイスの袋を開けた。取り出したソーダ味のアイスキャンディーの角を一口齧ると、冷たさが広がって、少し体温が下がった気がした。
「仕事で、ちょっと……ミスしちゃって」
 ただそれだけだという風にそう言って、またアイスを食べた。
「そうか」
 沈黙の中、アイスキャンディーを食べる音が静かに響く。
 膝に落ちた小さな氷の粒を手で払うと、地面に小さな染みができた。それを見つめながら、私は口を開いた。
「すごく怒られたとかじゃないんですよ、今後は気を付けるようにって言われたくらいで。でも、迷惑かけて申し訳ないし、自分が情けないっていうか、自信なくなるし、落ち込むし……こんなことで落ち込んでたらやっていけないじゃん、と思うんだけどへこんじゃって」
 ふっ、と自嘲する。
「……それに、こんな風に愚痴るつもりじゃなかったのに」
 アイスキャンディーの残りを一気に食べた。冷たさで、口の中と頭が痛くなる。
 大袈裟なくらいに眉間に皺を寄せて、体を折った。本当は冷たさのせいではなく、情けなさで涙が出そうだった。
 ぽん、ぽん、と土井先生の手が私の背中を優しく叩いた。先生がそっと笑う気配がして、彼の手はそのまま私の背中を労るようにさする。
 ほんの何粒かの涙が乾く頃には、土井先生もアイスキャンディーを食べ終えていた。

「もっと甘えてくれればいいのに」
 独り言のような土井先生の声に、顔を上げた。
「迎えに来いとか、会いたいとか」宙を見ていた彼の視線が、私に注がれる。「愚痴だっていくらでも言っていいんだぞ」
 たまには、と付け足して、先生はいつもと同じ笑みを浮かべる。
「そんなの……先生だって忙しいのに」
「忙しくても、名無しさんのためならなんとかするから」
 土井先生は私の手を取って、指を絡めた。
 時々チョークの粉が付いたままの長い指。私の手より熱くて、ごつごつして骨っぽい、土井先生の手。
 彼の手を握り返しながら、空を見上げる。星が見えるけれど、名前は分からない。
「先生、『頑張れ』って言って」
「名無しさんは、もう十分頑張ってるだろ」
「今週の残り、頑張れるように」
 声が僅かに掠れた。
「じゃあ、頑張れ。頑張って頑張って頑張り疲れたら、休みにおいで。いつでも、絶対に、私は名無しさんの味方だから」
 そう言って、土井先生は私の唇に優しくキスを落とした。
 そのキスに泣きそうになりながら、彼に抱きついて、隠れるように胸元に顔を埋める。
「ほんとは、頑張りたくない」
 土井先生の匂いと、ゆっくりと上下する胸が私を安心させる。
「……分かってるよ」
 宥めるように、励ますように、先生の手が私の背中をそっと叩く。そのままそっと抱き締められて、心地よさを感じながら私は目を閉じた。
 家に帰りたくない、仕事にも行きたくない。ずっとこのままでいたい。土井先生とふたりで。
 現実はそうはいかない。先生と別れて帰宅して、明日の用意をして、寝なくちゃいけない。そして、目が覚めればまた、憂鬱な一日が始まる。
 名無しさん、と呼ばれて顔を上げた。
「再来週にでも、どこかに行かないか? 週末に、日帰りだけど」
「温泉?」
「温泉でもテーマパークでも、名無しさんの行きたいところに」
 言い終えると、土井先生は少し照れくさそうな、困ったような顔で微笑んだ。
 私から甘えなくても十分に甘やかされているってことに、先生は気付いていないのかな。居心地が良すぎて、私は土井先生がいないと生きていけなくなっちゃうんじゃないかな。ううん、もう、そうなっている気がする。いいのかな。先生はそれで困らないかな。
 でもそれは、先生のミス。
 そんな風に考えながら、伸び上がって土井先生にキスをすると、一瞬の驚いたような気配の後でキスが返ってくる。
 ふわり、とソーダの爽やかな香りがした。
 甘くない一日が、ようやく終わる。