半助君の帰りが遅いのはいつものことだ。
テーブルの上で待ちぼうけをくらっている深皿にかけられたラップを指先で弾くと、水滴がシチューに落ちた。
そんなことをしたら水っぽくなるとか細かいことを以前はよく気にしていたのに、今はそうでもない。半助君が気にしないということもあるが、単純に私の中でどうでもよくなってしまったのだ。
録画していたドラマをソファーに座って見ているとアパートの薄い壁の外から足音が聞こえ、そのリズムで半助君が帰ってきたのだと分かった。
予想通りに玄関の鍵が開いて、半助君の声が響いた。
「ただいま。」
テレビを消して、廊下に顔を出す。
「おかえり。おつかれ。」
「まだ起きてたのか。」
寝ててよかったのに、と半助君は言うけれど、誤解しないでほしい。今日はたまたまドラマを見ようと起きていただけで、半助君を待っていたわけではない。
それでもわざわざ事実を言うほど意地悪な気持ちにもならなかった。
「残業?」
「うん。来月の行事の準備で……」
「ご飯あるよ。シチューだけど。」
「ごめん、夕飯食べた。名無しさん、今日は飲み会じゃなかったか?」
「それ来週……カレンダーに書いたよね。」
「そうか。見間違えたかな、ごめん。疲れた……風呂入って寝るよ。」
「追い焚きしてね。」
生返事が返ってきてムカついた。私だって仕事で疲れてるけどご飯作ったのに。でもこの時間だから夕飯を食べてきたって構わないし、カレンダーに書いた予定をろくに見ていないのも構わない。
でも半助君、なにか話したいことあるでしょう?私に話さなきゃいけないことあるんじゃないの?
ここ数日、彼と顔を合わせるたびに詰りたくなる。そろそろ耐えられない。
用意していた食事を冷蔵庫にしまって脱衣所に向かうと、いつもと同じようにドアは半開きだった。
いつまでも続いていくのか突然終わりがくるのか一人では判断しきれない日常生活に頻繁に出現する小さな不満が積み重なって、そろそろ倒壊してしまいそうだ。
「半助君。」
シャワーの音が止む。
「……どうした?何?」
開いた扉から湯気と半助君の上半身が出てきて、私は新鮮味がない裸をぼんやりと見つめる。
「入る?」
分かりきったことを聞きながら半助君が首を傾げると、びしょ濡れの髪から滴る水がぼたぼたと彼の肩に落ちた。
「名無しさん?」
「……耳にシャンプーの泡残ってるよ。私……もう寝るね。」
「分かった。おやすみ。」
おやすみ、と返さずに廊下に出た。
こんなことは初めてで、いつどうやって彼に切り出せばいいのかわからない。どうしたいのかはっきり自分でも決められないから友達にも相談できずにいる。
二週間前に、半助君の浮気を知ってしまった。
洗濯物を取り込んでソファーの後ろを通った時、ソファーに座っていた半助君のスマホの画面が見えた。彼はその時ちょうどSNSでメッセージのやりとりをしていて、その相手が女性だと分かったのは送られてきていた写真が綺麗な長い黒髪の後ろ姿だったからだ。
半助君は「お綺麗ですよ」と返していた。
私の予想では相手は少し年上で私よりずっと女子力が高くて、2人はまだ深い関係ではないけれど全く会っていないわけでもなさそうだ。今のところ半助君の残業は本当なのだろうけど、それもいつまでもつだろう。そのうち残業だと嘘をついて彼女と会うようになるのではないかと踏んでいる。
半助君と付き合って5年目。一緒に暮らし始めてからは3年目になるけれど、結婚の話はかなり前に一度したきりで、それ以降は話題に上らない。
そろそろ終わりかな。
寝室の電気を消してダブルベッドに潜り込む。
同棲を機にお金を出し合って買った。それまで私はシングルベッド、半助君は布団だった。今は、二人で寝ているのに一人きりみたいで余計に寂しくなる。昔のシングルベッドが恋しい。
でもシングルに戻りたいのはベッドだけで、私自身じゃない。狭いベッドや半助君の匂いのする布団で彼とくっついて眠る方が、二人で一人みたいでずっと良かった。
会いたくて苦しくなって夜中に電話をかけたり、真夜中に会いに行けるような恋の始まりも、追いかけたり追いかけられたりの駆け引きももういらない。ただ静かな、恋なのか情なのかわからないものでいいから私は半助君といたいと思っていた。
きっと彼は同じようには思っていないだろう。
「名無しさんごめん、電気つけるよ。」
部屋がぱっと明るくなったのにつられて起き上がると、バスタオルを腰に巻いた半助君がクローゼットへ向かうのが見えた。
「どうしたの?」
「着替え持ってくの忘れた。」
「もう、風邪ひくよ。」
水が滴る肩甲骨も背骨も、憎たらしい。
「ちょっと、水浸しじゃない。」
またろくに体を拭かないまま出てきたらしく、床がびしょ濡れだった。
「ごめん……着替えたら拭くから。」
下着を履きながらそう言う半助君に溜息を吐きながら部屋を出て、洗面台下の収納に入れてある雑巾を取りにいく。
バスマットの手前から点々と続く水滴を拭き取っていると、馬鹿馬鹿しくなってくる。
なんで夜中にこんなことをしなきゃいけないんだろう。そして、あの彼女は小言なんて言わないんだろうな。
もし今が私たちの恋の始まりなら、水浸しの廊下と脱衣所も微笑ましくて、「半助君ってば子供みたいで可愛いな」と思えて、一緒に過ごす時間の全てが楽しくて、優しい声が聞けたら幸せで、一日中半助君への好きがいっぱいで、どこで誰といても半助君しかいない世界なんだろう。
でもそんなのいつまでも続かない。
もう終わりが見えてる。
「名無しさん、自分でやるからいいよ。」
半助君のスウェットの裾が視界に入ったけれど、返事をせずに手だけ動かす。
「名無しさん。やるから。」
強めに名前を呼ばれて雑巾を奪い取られたところで、ついかっとなって立ち上がった。
「いいってば!」
「……なにも、そんなに怒らなくてもいいだろう。」
そうだね。自分でもそう思うよ。
でも怒らずにいられない。
「怒るよ。半助君っていつもこうじゃん。後でやればいいって思ってるのかもしれないけど、最初からしないでほしい。私ずっとそう言ってるよね。」
浮気はしないで。ちゃんと別れてからにして。好きな人ができたならその時は半助君を諦めるから、追い縋ったりしないから。
一度だけそんな話をしたのは、付き合い始めた頃。
半助君は浮気なんかしないって言ったけど、昔の言葉なんてあてにならないと思うのは、私もあの頃とは違って半助君の言葉を信じきれないからだ。
「ごめん。あとは私がやるから。名無しさんは寝てくれ……それとも他にも何かあるのか?何か、したか?」
あなたがどこかの誰かと何かしたかどうかの事実なんて、本当はこれっぽっちも知りたくない。
でも、半助君は聞いてほしいの?
今ここで訊ねるのは大きな間違いのような気がしながら、ゆっくりと口を開いた。
「……好きな人、できたの?」
「え?」
半助君は雑巾を持った手を動かしながら、眉間にしわを寄せて私を見上げる。
「好きな人?誰に……わ、私に?う、浮気してるかってことか?」
「……うん。」
半助君の手が止まる。ものすごく狼狽えているようだ。
黒、かな。
「いるんだよね?」
「ま、待て、どういうことだ? どうしてそんなことを? 疑われるようなことしたか?」
「……女の人と連絡とってた。」
「女の人?」聞き返しながら、半助君はぱちくりと不思議そうに瞬きする。
「し、シナ先生か?」
「違う。」
「食堂のおばちゃん?」
「違う。」
「……事務のおばちゃん?」
「違う。」
「ええっ……女性……女性……うーん……実習生の北石照代くん?」困り顔の半助君が首を傾げる。「連絡先知らないけど。」
「じゃあ、違う。」
「そもそも近頃女性とやりとりなんてしたかな……名無しさん以外に、いないと思うんだが……」
「でも、写真をちらっと見たもの。SNSで。綺麗な黒髪の人だった。」
「綺麗……? 綺麗なのは、髪? 顔?」
「髪。後ろ姿のやつしか見えなかった。」
半助君ははっとした様子で立ち上がり、リビングに駆け込んだと思うとすぐにスマホを手に戻ってきた。
「黒髪の後ろ姿にSNSって……まさか、これか?」
突き出されたスマホの画面には例の写真が表示されていた。
「そう!その人!やっぱりあるじゃない!」
声は大きいものの、怒りよりもずっと静かな感情が私の胸の中を支配している。
「半助君、その人のこと好きなんでしょ?」
終わりを覚悟してそう言うと、少しの間の後、半助君が爆笑した。そのまま笑いは止まらなくて、彼はとうとう床に突っ伏した。
状況が把握できない。
「何がおかしいの!」
「だって……お、女の人って……誰かと……っは、はははははははっ!」
「あったじゃない、写真。」
「確かにあるけど……あー苦しい。」
半助君は笑いすぎたせいか涙を浮かべている。
「これ、山田先生だよ。」
今度は私が不思議そうに瞬きする番だった。
山田先生には何度かお会いしているけれどーー
「う、嘘! 苦し紛れの言い訳はやめてよ! 山田先生のわけないじゃない。奥様ならともかく、山田先生ご本人なわけないでしょ!」
「そう言われても……山田先生なんだってば。」
「証拠は? 山田先生なら正面向いてる写真くらいあるでしょ。」
「いやそれが……」
「やっぱり嘘なんでしょ。もういい。」
「待て待て待て、分かった、観念する!」
観念?やっぱり浮気なんじゃないの。嘘までついて、半助君らしくないけどそれほど好きなの?その人のこと。
「ほら。」
半助君は溜息を吐きながら、泣きそうになった私の前にスマホを差し出した。
それを見て心底驚いた。
「……え……何、これ……」
長い髪の、恥ずかしそうな表情をしたーー
「これ、は、半助君?」
ものすごい女装姿の山田先生の隣には、可愛いような逆に男らしさが強調されるような非常に微妙で残念な女装姿の半助君が映っていた。
「行事で教師も出し物をすることになって、それで……言っておくけど、私は女装なんて反対したんだぞ!反対したんだが山田先生がノリノリで……」
半助君は心底嫌そうに首を横に振る。
「しばらく伝子さんになりきるって仰られて、SNSでまでなりきってるから弱ってるんだ。」
私は床にへたりこんだ。
そんなことだったんだ。こんなバカみたいなことで私は悩んでいたのか。
涙がぼたぼたと半助君のスマホの画面に落ちる。
「ごめ……」
最後まで謝る前に嗚咽が漏れた。泣くまいとしたけれど半助君の手が許すようにそっと背中に触れたら、もうだめだった。
子供みたいに泣きじゃくる私の背中を半助君は黙ったまま、怒りもせず責めもせず、大きな手でそっと撫で続ける。
嗚咽が酷くなってえずいてしまう。
苦しかった。
半助君が私じゃない別の誰かを好きなんだと思うと苦しくてたまらなかった。あの瞳をあの声を笑顔を他の人に向けないでほしいと思ってた。初めて自覚した独占欲と執着心の強さに驚いて、想像もしなかった別れる日が来ることに慄いて、いつの間にかなんとなくただ一緒にいる二人になっていたことを悔いて終わるんだと思った。
本当に終わってしまうんだと思って怖かった。どうしてこんな思いをさせるんだろうって思って、少し呪った。
でも今、半助君の手がどろどろしたものを全部綺麗に拭ってくれた。
「――大丈夫か?」
泣きたいだけ泣いた後、半助君にそう尋ねられて、鼻水をすすりながらどうにか頷いた。
「ごめん……スマホ、濡らしちゃった。」
「いいよ。もし壊れたら名無しさんのボーナスで買ってもらうから。」
「怒らないの?」
「壊れてないだろう?」
「そうじゃなくて……」
半助君はただ静かに笑う。
「正直、少し嬉しかった。名無しさんはもう、私にそこまで関心はないんだと思ってたから。最近何してもというか、しなくても怒らないし。」
「……夜の話?」
「ち、違う違う。残業ばかりで家事を名無しさんに任せてばかりだったし記念日も忘れるし、誕生日も……」
「誕生日は怒ったよ。それも覚えてないの?」
「そ、そうだったか?」
半助君の焦る顔を見ていると怒るよりも情けなくなってくる。
「無関心なわけじゃないよ……いちいち怒ったり泣いたり面倒くさくなっただけだよ。だって長いこと一緒にいるじゃない。もういいや、半助君はこういう人だから~って、諦めなきゃやってられない部分も増えてくるよ。そういうのは、きっとお互い様だよね?」
「そうだな……泣かせてしまったけど、泣いてくれて嬉しかったよ。まだ名無しさんに好かれてるんだって分かった。」
「ずっと好きだよ。」
ムードもへったくれもない鼻声で言ったにもかかわらず、半助君は予想外に照れたような表情を浮かべて頷いた。
ふいに、もうどうやったって全部は思い出せないような付き合う前や恋人になってすぐの頃の、切なくて甘くて楽しくて夢中だった恋する気持ちが鮮やかに蘇って、何故か瓶底に残った青い金平糖のイメージが頭をよぎった。
もう甘いだけの恋ではないけれど、大切に残しておきたいもの。思い出の中と今ここにある、半助君への気持ち。
「名無しさん、冷えるから立って。ほら。」
半助君に腕を引かれて、立ち上がるよう促されるままそれに従う。
「床……」
「ちゃんと拭くから、顔を洗って部屋に戻りなさい。」
時々こうやって、急に先生口調になっちゃうところも好きだ。全部好きで、時々全部嫌いになる。
顔を洗って廊下に戻ると、半助君は水滴の拭き取りを終えたようだった。
「ねぇ、どうして上は裸なの?」
立ち上がろうとしている背中に訊ねてみると、ばつの悪そうな声が返ってくる。
「名無しさんが怒ってると思って、急いで来たから……ははは。」
「風邪ひいたらどうするの!」
呆れながら洗面所に戻り、ドライヤーを持って寝室へ戻った。
雑巾を片付けてきた半助君にTシャツを着せてベッドに座らせると、私は彼の髪をわしゃわしゃとタオルで拭いた。
されるがままで、おとなしい犬みたいだ。
半助君の傷んだ髪をもっと丁寧に扱うべきだったかなと後悔しつつ、湿ったタオルを彼の肩にかけてトリートメントオイルをなじませてから、ドライヤーの温風を向ける。形のいい後頭部、硬い髪、仄かなシャンプーの香り、額の生え際、襟足。
目を閉じて気持ちよさそうに温風に当たる無防備な顔を見ていると、この人を失わずに済んで良かったと心底思った。
でもまた危機は訪れるのだろう。この人と一緒にいる間ずっと、いつになってもその可能性はあるのだろう。それこそ、死が二人を分かつまで。
「終わり。」
「ありがとう。」
乾きたてで普段よりボリュームのある髪を撫でつけながら半助君が微笑む。
こんな些細な幸せがいつまでも続けばいいのに。そう考えたときだった。
「結婚しようか。」
「え? なに……急に。」
「いや、なんだか……幸せだなって思って……それで……」
もごもごと言い訳のようなことを口にしている半助君の首からタオルを奪うようにし、ぱっと背を向けてドライヤーを置きに洗面所へ行く。
突然のプロポーズのようなものを無視してしまった私の心臓はバクバクで、せめて「そうだね。」って言えばよかったなんて今更思っても遅い。いつの間にかすっかり上手くなった何もなかった体で寝室に戻ると、半助君は掛け布団をめくって寝る支度を整えているようだった。でもひとつ不可解なところがある。
「ほら、早く寝よう、名無しさん。」
「何で脱いでるの?」
さっきようやく着せたTシャツを脱いでいる意味が全く分からない。
「名無しさんも脱いで。」
「え、す……するの?」
パジャマの裾に手をかけられると途端にどきどきしてしまう。脱がされて、脱いで、脱がせて、裸になって。散々繰り返してきたことなのに、時々ふと初な自分に戻れてしまうのはどうしてなんだろう。相手がこの人だからなのかな。
「今日はもう遅いから……くっついて寝よう。」
そう言って、半助君は照れ臭そうに笑う。
何それ。欲求不満にさせるつもりかな。
「最近、名無しさん不足だったから。」半助君の手に抗うことなくパジャマを脱ぐ。「なんだ、素直に脱ぐと思ったらもう一枚着てたのか。」
キャミソールを見てがっかりしたように言うと、彼はベッドに寝転んだ。
「スケベ。」
パジャマを放って膝立ちのまま近づいていくと、半助君がにっこりと笑う。
「近いうちに、ちゃんとするから。」
「何を?」
「プロポーズ。」
別にいいのにと思うけれど、無かったことにならないのはやっぱり嬉しい。半助君の「ちゃんと」が本当にちゃんとしているのかどうかは怪しいものだけれど。彼なりにきちんとしてくれるつもりだと分かっただけでも嬉しい。私も彼に応えられるように、次は逃げないように覚悟を決めておかなくちゃ。
これからの人生を共にする覚悟。
ダブルベッドの真ん中に寝転んで、早くここにおいでと肩を叩く恋人のそこに当たり前のように収まって、彼にぴったりとくっついた。薄い体臭はそこはかとなく甘く漂って、体温と肌が馴染む。
ぎゅっと抱きしめられながら目を閉じると、金平糖が転がる音がした。