想像以上に尊奈門はふっ飛んだ。
確かに渾身の力を込めた蹴りではあったのだけれども、まさかの勢いに唖然とした。私を一つ年下の女だと思って油断していたのか、要らぬ手加減をされていたせいかは分からないが、どちらにしろ、私は彼にとって対等な存在ではないということだけは確かだった。
尊奈門が起きあがる前に、私はぱっと背を向けてその場から駆けだした。
「名無しさん!」
近くで私たちの鍛練を見ていた山本さんが呼ぶ声が聞こえて、後で叱られるのだろうと分かってはいたが、どうしてもそこで足を止められずに家まで一気に逃げた。
いつも私に手加減する尊奈門に腹が立っていたし、皆の前で蹴り飛ばしたのだから嫌われただろうと思った。だからもう、これまでのようには顔を合わせられない。
後悔しながらも妙にすっきりした気持ちで家に入り、瓶からすくって飲んだ水は不思議と苦かった。
九つのこの日を境に、尊奈門とはろくに口を利いていない。
鬱憤がたまっているときだけは薪割りも楽しく捗る。
人の気配に顔を上げると丸い目と視線が合った。
「名無しさん、久しぶり。」
「お久しぶりです。」
と他人行儀に答えて、忍者のくせにどこか暢気な風貌の幼なじみに構わず薪割りを続ける。
「親父さん、いる?」
父に、か。当然だ。
訪問の意図が分かって、知らずに強ばっていた体の力が緩んだ。
「中にいるよ。勝手に入って。」
「用事が済んだら、手伝おうか?」
「何故? いらない。いつもやってるもの。」
拒絶するように勢いよく手斧を振り下ろして薪を割ると、尊奈門は黙って家の中へ入っていった。
父に一体何の用だろうか。任務絡みか、その辺の年寄りにでも使い走りにされたのか。どちらにしろ私には関係のないことなのだろうけれども。
今は隠居の身だが、私の父もタソガレドキの忍だった。しかしそれは大分昔の話で、腰をかなり悪くした父は一時は起きあがることもままならず、一線を退かざるを得なかった。
私は一応、タソガレドキの黒鷲隊のくノ一だが、それほど仕事は回ってこない。私がくノ一になるのを快く思っていなかった父が裏で手を回しているのも一因だろうが、私の腕が悪いのが一番の理由だろう。
尊奈門が羨ましい。
十年前なら、私の方が背が高かった。私の方が速く走れたし、高く跳べた。手裏剣だって上手かった。それなのに尊奈門はいつしか私の背丈を追い越して、私より速く走り高く跳び、手裏剣だって私よりずっと正確に力強く打つ。
尊奈門はタソガレドキの忍者としてはまだまだだが、そんな彼にすら私は勝てない。
私が尊奈門に勝るところもあるにはあるのだろうが、私はくノ一で、尊奈門はそうではない。比べるのがそもそもの間違いで、その必要も意味もない。
比べることには何の意味もないのだけれど、いつか彼の隣に並べたらと夢想していた幼い自分がいたせいで、何年経っても気になってしまうのだ。
せめて一歩先にいるのなら追いつく努力を続けたのだろうけれど。
忌々しい!
手斧を振り下ろすと二つに割れた薪の片方が勢いよく飛んだ。すぐに拾おうとしたが、それを持ち上げたのは私の手ではなかった。
「はい。」
「……用事は終わったの?」
「終わったよ。」
尊奈門は気まずそうな顔をしながら続ける。
「名無しさんはどうして、ずっと怒ってるんだ?嫌われるようなこと、何かしたかな?」
したけど、していない。
私のことなんて仕事以外で視界に入れなくていいのに。
「考えたけど、分からないままで……何人かに相談してみたこともあるんだけど放っておけって言われた。」
いつ誰に相談したのか知らないけれど、皆さぞかしくだらない内容だと思ったことだろう。私の態度が悪い理由なんて周囲の人間は皆分かりきっていて、あえて知らん振りしてくれているだけだ。
気付かないのは尊奈門本人だけ。
「どうして今聞くの?」
「えっ……うーん、なんでだろう?」尊奈門はぱちくりと瞬きする。「ここに来たら思い出したから、かな。」
こいつ、馬鹿なんじゃないかな。
「――ったら。」
「え?」
「私に勝ったら教える。」
手斧を振り上げると尊奈門は首を振った。
「無理だ。名無しさんとは勝負できない。」
「女だから相手にならないってこと?」
「ち、違うって。」
焦る顔は昔のままだ。
可能な限り避け続けてきたので、尊奈門の顔をこんな風にじっくり見るのは久しぶりだ。
「じゃあどうして?」
「それは……」
「そもそも、どうして手加減してたの?」
「え?」
「九年前。」
「えっ?」
尊奈門が優しいことは知っている。甘いことも。でも真剣勝負を挑んだのに、私はいつだってそのつもりで鍛練を重ねていたのに、手加減するなんて却って優しくないんだよ。
「私のことなんて蹴り飛ばせばよかったのに。」
「嫌だよ。」
「女だから?年下だから?両方?」
「す……」
「す?」
「す」
尊奈門は顔を赤くしながら大きく息を吸った。
「好きな女の子を蹴り飛ばしたりできるわけないだろっ!」
何言ってんだ、こいつ。
好きな男の子を蹴り飛ばしてしまった私はどうしたらいいんだ。
あの日、私が負けていたならずっと隣にいられたのかなって考えてたのに。恥をかかせて傷つけてしまったから、嫌われたんだろうと思っていた。
そんなことはないから声を掛けてごらんと周りに促されても、どうやって謝ればいいのか分からなくて、尊奈門から話しかけてくれるのも申し訳なくて、でも手加減されていたことに腹も立てていて、心の中で白黒つけられないまま私は尊奈門を避けるしかなくなった。
相手が見ず知らずの男相手なら媚びるような誤魔化しも有効だろうけれど、ずっと一緒に育ってきた尊奈門相手には照れくささもあってそうはできなかったし、したくもなかった。
尊奈門が組頭――当時はまだ小頭だった――の看病に明け暮れている間も、遠くから見ているしかなくて、そうこうしているうちにすっかり距離ができて本当に遠い二人になってしまった。ずっとずっと今日まで後悔してきた。
逃げずに勇気を出していたら、こんな九年間など無かったのに。
「昔の話だよね。」自分を納得させるためにわざわざ言葉にする。「今は……今は私のこと、嫌いだよね?」
「どうして? 名無しさんが私を嫌いになったんだろ?」
「嫌いには、なってないよ。」
逃げたい気持ちをぐっと押し込めるのは、ここで間違えたら本当に終わってしまうだろうから。
「――ずっと好きだよ。」
ちゃんと声になって尊奈門に聞こえただろうかと不安になったのはほんの束の間で、みるみる赤みを増す彼の顔は私の言葉が届いた証だろう。
「それ、本当?」
「嘘。」
頬の熱を逃したい一心でそう答えた。
「えっ。」
「知りたい?」
「し、知りたいっ……」
そういえば尊奈門は昔からちょっと騙されやすい。
「土井半助に勝ったら教える。」
「ど、土井半助のこと、名無しさんも知って――」
「知ってるよそりゃ。」
タソガレドキ忍軍の者なら誰だって知っているだろう。
尊奈門が懲りずに何度も勝負を挑みに行くのだと聞いて、私は見たこともない土井半助とやらに焼き餅を焼いているくらいだ。
なんなら私が土井半助だったらいいのにとさえ思う。
黙り込んでいた尊奈門が「勝ったら」と呟いた。
「名無しさん。」
尊奈門はまじめくさった顔で私を見た。
「私は名無しさんのこと、好きだから。その……一応、伝えたから。」
言うだけ言って走り去る後ろ姿を見ながら、後悔に見舞われる。調子に乗って余計なことを言うんじゃなかった。
当分の間、薪割りが捗りそうだ。
聞いた話によれば、今のところ尊奈門が土井半助に勝つ見込みはないだろうから、私のところへもしばらくはやってこないはずだ。
さて、何年かかるだろうか。
ほんの少し素直になればいいだけなのに、そうしたい気持ちはあるはずなのに、それが一番難しいのはどうしてなのだろう。逃げるための嘘なら幾らでもつけそうな気がするのに。
でも、背中を向けて逃げるのはもうやめる。九年分の距離がそう簡単に縮まるとは思えないけれど、タソガレドキ忍軍一の忍びになるよりは容易なはずだ。
とりあえず傷薬と湿布薬でも作っておいて、尊奈門が負けて帰ってきたら届けに行こう。
そして、新たな勝負を挑もう。