諸泉君

 放り出していた仕事に戻ろうと、パソコンに向かう。
 文章をまとめる途中だったのだけれど、うまく書けそうにない。とりあえず保存して、別の仕事でもしよう。
 誰か戻ってこないかな。
 少し喋れば気分が変わりそうなのに、ホワイトボードに書かれた行き先を見るに、暫くは一人で過ごすほかなさそうだ。と思った途端にドアが開いて、暢気な声がした。

「戻りましたー」
 
 そうだ、諸泉君の存在を忘れていた。
 振り向くと、諸泉君がにこにこしながら部屋に入ってくるのが見えた。

「どこ行ってたの?」
「通販の支払いしに、コンビニ行ってました。出掛ける前に言いましたよ?」
「そうだっけ?」

 支払いだけじゃなかったようで、妙に可愛いエコバッグを提げている。
 私がエコバッグを見ているのに気が付いたのか、諸泉君はバッグの中に手を突っ込んだ。そして、取り出したのは彼がいつも食べている煎餅だった。

「煎餅食べますか?」
「……いい」
「なんか名無しさんさん元気無いですね。あっ、彼氏と喧嘩でもしたんですか?」

 失礼なことを訊いてくるその顔は、どうして嬉しそうなんだろう。
 当たらずとも遠からず。喧嘩ではないけれど、落ち込んでいる原因は確かに彼氏だ。
 愚痴を言いたい気分ではあるけれど、諸泉君から高坂君に私の話したことは筒抜けなのかもしれない。そう考えると、クリスマスのことでイライラしているなんて絶対に言えない。
 ぱりぱり、と小気味いいようなうるさいような、微妙な音を立てながら、諸泉君は煎餅を食べている。

「諸泉君」
「はい」
「これ拡大コピーして。その後は葉書の整理と、あっちの机の古いファイルに番号振っておいて」
「はーい」

 その後も、適当な雑用を山ほど頼んだ。諸泉君はそれなりに仕事のできる子なので、次々と片付けていく。

「名無しさんさん、終わりました。これFAXの返信です」
「ん、ありがとう」
 
 私がやるより早いかもしれない。
 苦々しく思いながら、FAXを受け取る。

「名無しさんさん、クリスマスイブって予定あるんですか?」
「……何で?」

 今のところ予定はないけれど、面倒な用事を頼まれたりイベントに誘われるのは嫌なので、牽制してみる。
 雑渡さんや山本さん、高坂君ならともかく、大学生の諸泉君ならちょろいもんだ。
 
「え……えーっと……24日に飲み会があるらしいんですけど、名無しさんさんは参加されますか? 私は参加する予定なんですけど、よかったら一緒に……」
「多分、彼氏と会うから。ごめんね、誘ってくれてありがとう」
「そ、そうですよね……彼氏いるなら、そうですよね」
「うん」

 実はそうでもない。諸泉君、学生ならともかく社会人はそうでもないのよ。
 なんて心の中で言いながら、実際は微苦笑している。

「名無しさんさんの彼氏って、どんな人なんですか」

 また情報漏洩する気なんだろうか。

「内緒」
「諸泉君は、彼女いないの?」
「いないです。というか、募集中です」

 ふーん、と何気なく言ったつもりが、思った以上に素っ気なく冷たい響きになってしまった。慌てて質問を投げかける。

「どんな女の子が好みなの?」

 事細かに説明されても聞きたくないので、社内の女の子の名前を適当に挙げていく。ところが、諸泉君は一向に頷かない。

「えー……諸泉君って、理想高いんだね」
「そういうわけじゃないです」
「じゃあ、ここにはいないタイプ?」
「いや……名無しさんさんみたいな人が……いいかな、なんて」

 頬を染めて照れくさそうにするのが、いかにも学生らしい。なんて思う余裕もなく、社交辞令なのか冗談なのか、他の何かなのか全く判断できずに、私はひたすら戸惑う。
 どうしよう。
 ありがとう、って軽く言ってしまえばよかった。沈黙が気まずい。誰か帰ってこないかな。せめて、電話でも掛かってこないかな。
 そう思ったとき、助けが来た。

「戻りましたー」
「ただいま。そこで一緒になっちゃった」
「お、お帰りなさい!」

 私は大きな声で応えながら、急いでドアの方へ振り向いた。隣で諸泉君が小さく溜息を吐いたけれど、何も聞こえなかったことにした。

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