名無しさんにとって久々の休みに、なんとも予想外な客人が彼女の家を訪れた。
「土井半助……」
名無しさんより先に、部屋の中にいた諸泉尊奈門が不愉快そうに口を開いた。
「名無しさん、土井半助と知り合いなのか?」
「うん。当然。私が忍術学園出身だって知ってるでしょ」
名無しさんは諸泉の視線を遮るようにしながら、戸口で立ち尽くす土井を中へ招き入れる。
「土井先生、どうぞ。上がってください」
「ああ……いや、すぐに帰るから」
そう言いながら、今にも帰りそうな素振りを見せる土井の腕を引くと、名無しさんは半ば強引に彼を上がり口に座らせた。
「じゃあ、ここで。お茶くらい飲んでいってください。それより、どうしたんですか突然」
「たまたま用事で近くを通って……名無しさんの家はこの辺だと思い出したので、元気にしているのだろうかと、寄ってみたんだ。仕事はどうだい?」
土井の話を聞きながら、名無しさんはしかめっ面の尊奈門の隣で茶を淹れる。
「元気ですよ、仕事はそれなりに。今日は丁度お休みだったんです」
名無しさんが忍術学園を卒業して3年になる。売れっ子とまではいかないが、そこそこ仕事は貰えるフリーの忍者だ。
「どうぞ」
茶を出すと、土井は居心地悪そうにしながらもそれに口を付けた。そんな土井の様子に小さく笑いながら、名無しさんは饅頭の乗った皿を差し出した。
「尊くんが買ってきてくれたこのお饅頭、とっても美味しいですよ」
「おい、それは名無しさんに買ってきたんだぞ」
諸泉は不満げに声を上げた。
「まあまあ、いっぱいあるからいいじゃない。っていうか、尊くんの負けた相手って土井先生だったんだ?」
「は?」
諸泉は土井を無視する体で自身の湯呑みに茶を注いでいたが、名無しさんの言葉に、丸く大きな目を更に見開いた。
それを見た名無しさんは、からかうように言葉を投げる。
「出席簿とチョークケースでボコボコにされたって話。まだ、チョーくんとか、簿っちゃんって呼ばれてるの?」
「な、なんで名無しさんが知ってるんだ!」
勢いよく立ち上がった諸泉を、名無しさんが笑いながら宥める。
はっ、と何かに気付いたように、諸泉は土井を見た。土井は睨まれながらも、さして気にとめない様子で饅頭を食う。
「違うよ。私が話したなら、最初から相手が誰か分かっているだろう」
「そうだよ。やだなぁ、尊くんってば。忍者のくせに」
名無しさんはころころと笑う。
「分度器でも、こてんぱんにやられたんだっけ? 忍術学園の先生ってことは知ってたんだけど、誰かなーと思ってたんだよね」
「や、やめろよっ」
諸泉は顔を真っ赤にするが、名無しさんはそんなことにはお構いなしに続ける。
「いいじゃん。本当のことでしょ? 誰にでも負けることくらいあるんだし。あ、土井先生、お饅頭のお代わりどうぞ」
「私が買ってきた饅頭だぞ」
言って、諸泉はどかりと座り込む。
「二個ずつ食べたし、私に買ってきてくれたんでしょ?」
「それはそうだけど」
「ということは、受け取った時点で私の物でしょ?」
名無しさんが首を傾げ、あからさまにしなを作った。それまで彼女を睨むようにしていた諸泉は、ほんのりと頬を赤らめて彼女から目を逸らす。
「まあ……確かに」
「じゃあ、土井先生にお出ししてもいいじゃない」
「う、うん」
餅つきのように調子よく交わされる名無しさんと諸泉のやりとりを眺めながら、土井は黙って饅頭を食べ続ける。
「文房具で負けたくらいで、そんなに怒んないでよね」
「だ、だから、それは誰から聞いたんだよ!」
諸泉の怒鳴り声に、名無しさんはしたり顔になった。
「聞きたい?」
にっこり微笑む名無しさんに不可解そうな目を向けながら、諸泉は頷いた。
それを受け、名無しさんは勿体ぶりながら口を開いた。
「雑渡さん」
諸泉は口を閉じた。
彼はわなわなと震えながら、やり場のない怒りを持て余しているように見えたが、それはすぐに笑みに変わった。
名無しさんは思わず眉間に皺を寄せた。
「何、その不気味な笑い」
「名無しさんの恥ずかしい話を、土井半助にばらしてやる」
不敵に笑う諸泉に、ぎょっとして固まる名無しさんだったが、かろうじて言い返す。
「そんな話、ないし……」
名無しさんが、ちらり、と土井を盗み見ると、彼は未だ黙って饅頭を食べていた。
ふふん、と諸泉は鼻で笑うと、勝ち誇ったように腕組みをした。
「知ってるんだぞ……ある城に女中として潜入していたときに、そこの女中頭に……」
続く言葉を遮ったのは、名無しさんの叫び声だった。
「ぎゃー! ちょっとっ! その話はなしで!」
名無しさんが焦りながら諸泉の口を手で塞ぐと、その勢いでふたりは後ろに倒れた。そのまま床で組ず解れつ暴れながらも、言い争いは続く。
「な、何でもないですから。やだなー尊くんってば! 土井先生の前で!」
「おいっ……く、首を……絞めるなっ」
「手っとり早く静かにしてもらうにはこれでしょー」
ぎゃーぎゃーと騒ぐふたりを尻目に、土井は茶を飲み干すと茶碗を置いた。
「随分と仲がいいんだな。仕事が縁で?」
名無しさんはもがく諸泉を押さえつけながら、土井の声に顔を上げた。
「ええ、まぁ。年も近いから、話しやすいし」
にこり、と土井が微笑む。
「そろそろお暇するよ」
「え、もうですか? 夕飯、召し上がっていかれませんか?」
「いや、遠慮するよ」
土井は立ち上がり、床に押さえつけられている諸泉にちらりと目をやったが、すぐに名無しさんに笑みを向ける。
「邪魔をしてすまなかったね。ごちそうさま」
どこか冷たい声でそう言うと、土井は名無しさんの家を足早に出ていった。
苛立たしげな足取りで大通りへと向かう土井の前に、人影が立ちはだかった。
「別の道を来る方が、早く通りに出るんですよ」
「名無しさん……」
「怒ったんですか?」
すまし顔でそう問われ、土井は一層苛立った。だが当然顔には出さず、努めて静かに返した。
「怒ってなんかいないよ。学園へ帰らなきゃいけないから……仕事が山のようにあるからね」
「土井先生は、相変わらずお忙しいんですね」
言いながら、名無しさんは土井に近付く。あと二歩で触れ合う距離になった時、耐えかねたように土井が口を開いた。
「彼を、放っておいていいのか?」
名無しさんは足を止め、空を仰いだ。
「尊くんなら、仕事に行ったからいいんです」
「恋人なのか?」
感情のこもらない土井の声に、名無しさんは真逆の物を感じてくすくすと笑った。
「付き合ってないよ、誰とも。先生は?」
土井は睨むように名無しさんを見た。
「……私も、そんな相手はいない」
「じゃあ、私と付き合いませんか?」
土井は軽く目を見開いたかと思うと、素早く後ろを向いて、そのまま歩きだした。
名無しさんは土井の後を追う。
「大人をからかうな」
「先生、まだ私を子供だと思ってるの?」
何も答えない土井の背中を眺め、名無しさんは諦めたように溜息を吐いた。
「先生は3年前と一緒だね」
その言葉に土井は足を止めたが、名無しさんを振り返ろうとはしない。
「それなら、尊くんと付き合おうかな」
「好きにすればいい」
突き放すような言葉に、名無しさんは眉尻を下げた。
在学中の名無しさんが土井に思いを告げた際にも、幾度かはこうして突き放された。それ故に彼女はこういった事態に今更傷つきはせず、寧ろすっかり慣れてしまっていた。そして、目の前にいる彼の背中に、優しさと、在学中の自分に対する態度とは違うものが潜んでいることを、とうに見抜いていた。
「ふーん……尊くんと結婚しちゃお。子供は何人産もうかなー。でも仕事もしたいしなぁ……あ、土井先生、きりちゃんと子守してくれます? 私と尊くんの、こ・ど・も」
名無しさんは茶化すような口調で言って、指先で土井の肩をつついた。
次の瞬間、名無しさんの手首を土井が掴んだ。痛い程きつく力の込められた土井の手を、名無しさんは驚きもせずに黙って見つめる。
名無しさんが土井の視線を感じながらも顔色一つ変えずに口を閉ざしていると、低い声が聞こえた。
「偶然に、単なる思いつきで……きみの家に寄ったと思っているのか?」
忍術学園では決して耳にすることのなかった、焦燥した土井の声。心の底からにじみ出るような嬉しさを悟られまいと、名無しさんはゆっくりと顔を上げた。
「思っていたら、どうします?」
土井は追いつめられたような表情で、重々しく口を開いた。
「好きなのか?」
「何を? それとも、誰を?」
口ずさむような問いを返すと「諸泉尊奈門を」と、土井は低く小さな声で言った。
名無しさんの手首を握る力は僅かに緩められ、それはあたかも彼が名無しさんから逃げ出す準備をしているかのようだった。
「ただの友達ですよ。尊くんを好きだったら、普通はこんな風に先生のこと追いかけてこないでしょ……そんなことも分かんないんですか?」
くすり、と名無しさんは笑った。
「先生のこと好きじゃなかったら、追いかけてないです」
そう言い終えるのと同時に、名無しさんは自由な方の手で土井の頬を一撫でした。それに驚いた土井の手を彼女は振り解き、距離を取る。
「明日からまた仕事で、次の休みは2週間後なんです。仕事を無事に終えたら、学園に寄ります。待っててくれますか?」
「待てない」
間髪を入れずに響いた独り言ちるような土井の声に、名無しさんは目を閉じた。次いで踵を返そうとした彼女を、土井の手が捕らえた。
「待てないから、来たんだ」
土井の声が名無しさんの体に直接響く。
「卒業してから……一度も訪ねてきてくれなかったじゃないか。ずっと、会いたかった」
待ちくたびれたのは自分も同じだ。そう言い返しながら、名無しさんは土井の背に手を回した。
家に入ると、退屈しきった様子の諸泉が名無しさんを待っていた。
「遅かったじゃないか。こんなことなら、私が買いに行けばよかった」
「帰ってもよかったのに」
不満顔の諸泉に、名無しさんは野菜を放った。泥だらけのそれを受け取りながら、諸泉は溜息を吐いた。
「この間助けた礼に、夕飯をご馳走してくれるっていうからわざわざ来たのに……って、名無しさん、手首どうかしたのか?」
「ん? 何でもないよ」
名無しさんは慌てて、手首を擦っていた手を下ろす。そこにはもう、土井の掌の熱は微塵も残っていなかった。
「あいつ、饅頭を全部食べていったぞ」
言われて、饅頭が乗っていた皿に目をやると、確かにすっかり空になっている。
土井が饅頭を食べ尽くしていった本当の理由を名無しさんは知っていたが、敢えて気付かぬ振りをした。
「きっと、お腹空いてたんじゃない?」
「どこがいいんだ、あんな奴」
うーん、と名無しさんは悩む振りをした。
「そうだなぁ、とりあえず……文房具捌きと、尊くんより強いところかな」
からかわれた諸泉は悔しそうに声を上げ、次こそ土井に勝つのだと言った。
名無しさんは苦笑する。
「やめといた方がいいんじゃないかなぁ……今まで以上にボコボコにされるかも」
「なんで?」
「さあ、なんででしょう」
利用したせめてもの罪滅ぼしに、薬草でも集めておこう。名無しさんは心の中でそう呟きながら、諸泉の惨敗を予想したのだった。