名無しさんの仕事が終わらぬうちに、午後の日差しはゆっくりと傾き始めていた。
「疲れちゃった……」
ほうっ、と息を吐くと、後ろから声がした。
「おや、名無しさんさんじゃないですか」
「安藤先生。こんにちは」
言いながら、名無しさんは安藤に笑顔を向ける。
「名無しさんさんは、まだお仕事ですか?」
「はい。でも、もう少しで終わりです」
こうして始まった世間話の延長で、一年い組の自慢話を聞く羽目になった名無しさんがふと顔を上げると、よく知った人物と目が合った。
「土井先生」
名無しさんの明るい声に、安藤も後ろを振り返る。
「安藤先生、名無しさんさん、お疲れさまです」
会釈した土井に、安藤はわざとらしく労るような声で言った。
「土井先生、補習は終わったのですか?」
「はい、おかげさまで」
「アホのは組の担任は大変ですねぇ。しかし、私には補習の大変さは全く分からないのですよ、わが一年い組は優秀なので、補習など一度もしたことがないものですからね」
と言って、安藤がせせら笑う。
土井の顔が引き攣るのを見て、名無しさんは慌てて声を上げた。
「そうだ!」
土井と安藤の視線が名無しさんに集まった。
実のところ、名無しさんは次の言葉など用意していなかった。時間稼ぎに、安藤と土井を勿体ぶった様子で交互に見やって、とびきりの作り笑顔を浮かべる。
大きく息を吸い、吐き出す代わりに、ようやく見つけた話題を言葉にした。
「とーっても美味しいお団子屋さんが、あるらしいんですよ」
土井は眉根を寄せ、安藤はきょとんとした顔で名無しさんを見つめている。
「明日か明後日にでも……みんなで、お団子を食べに行きませんか?」
くの一教室の生徒に教えてもらったのだ、と名無しさんは努めて明るく言ったが、内心ではがっかりしていた。本当は土井だけを誘いたかったのだ。
だが、皆で行くのも悪くはないだろう。
ちらり、と土井の表情を伺うと、彼は困った様子で名無しさんを見た。
「私はまた次の機会に」
「そうですか……」
きっぱりと普段通りの笑顔で断られ、名無しさんは益々落ち込んだ。
安藤がいない場で誘えば、違う結果だっただろうか。険悪な雰囲気を避けるために団子屋に誘ったのは、失敗だったかもしれない。
そう考えて気落ちする名無しさんに、安藤は声を掛けた。
「名無しさんさん、土井先生は補習でお忙しいのですよ」
ほっほっほっ、と安藤の高笑いが響く中、土井はむっとした表情で言い返す。
「いえいえ、間食は控えようかと思いまして」
「おや、また胃炎ですか?」
「えっ、大丈夫ですか?」
名無しさんは慌てて土井の顔を見上げた。
「大丈夫ですよ」
と、土井は名無しさんをちらりとも見ずに答えた。
「胃炎になったとは言えん、ということですかねぇ」
「……安藤先生」
安藤が得意げに放ったおやじギャグに、名無しさんは苦笑いする。話を変えようとしたのに、どうしてこうなってしまうのだろうか。
安藤は小馬鹿にした目つきで土井を見た。
「どうせ、一年は組のせいでしょう。出来の悪い生徒を持つと苦労が絶えませんね」
名無しさんは思わず口を開いた。
「安藤先生っ! そんな風に仰らないでください」
名無しさんの剣幕に、安藤は目を見開く。
「そんな風にと言われても、私は本当のことを言ったまでですよ。なにもそんなにムキにならなくとも……ひょっとして、名無しさんさんは土井先生のことが好きなんですか?」
「えっ」
真っ赤になってたじろぐ名無しさんをよそに、安藤は土井をちらりと見やった。
「名無しさんさんはともかく、土井先生は恋愛よりまず一年は組をなんとかするべきではないでしょうかね? それとも、先生がこれだから生徒も生徒なのでしょうかねえ」
若い人はこれだから、と続ける安藤の言葉に被せるように、土井が口を開いた。
「またまた、ご冗談を。好きなわけないでしょう……名無しさんさんのことは、何とも思っていませんよ」
そう言って、土井は名無しさんに顔を向けた。
「では、私は忙しいので、これで」
名無しさんは何も答えられなかった。
土井の後ろ姿が遠ざかり、安藤は再び嫌味たっぷりに笑う。
「きっと、これからまた遅くまで補習や追試の準備ですよ。一年い組の生徒は優秀ですから、私はちゃあんと家に帰れますけどね」
名無しさんは困惑気味に相槌を打つ。
「そうですね……い組は頑張りやさんですもんね。でも、は組の生徒もいい子たちですよ」
「名無しさんさん、よい子なだけじゃあ、ダメなんですよ」
呆れたような安藤の言葉に、名無しさんは曖昧に頷いた。言い返す気力は、もうどこにも残っていない。
「さて、私はそろそろ家に帰るとしましょう。可愛い娘が待っていますからね。名無しさんさんも、暗くなる前に仕事を終わらせたほうがいいですよ」
「はい」
安藤の姿が見えなくなってから、名無しさんは大きな溜息を吐いた。
残りの仕事を片づけてしまおうと、名無しさんは荷物に手をかけた。これを運べば、今日の仕事は終わりだ。
だが、一日動き回った疲労も手伝ってか、荷物は先ほどまでよりも、ずしりと重く感じられた。
「重い……」
誰かに、手を貸してくれるよう頼めばよかったかもしれない。
とはいえ、ここまで自力で運んできたのだから、残りの距離もなんとかなるはずだ。日は暮れてしまうかもしれないが、休み休み運べばいいだろう。
そう考えて、名無しさんは深呼吸を一つした。
いざ荷物を持ち上げようとした途端、すぐ後ろで声がした。
「まだここにいたんですか?」
この声は、と思うと同時に、土井の手が荷物を軽々と持ち上げた。
「あ……自分で」
「いいから」
「でも……」
本当に持てるのか、と問うような表情を土井に向けられて、名無しさんは口を噤んだ。
「どこまで運ぶんですか」
赤く染まり始めた空に目をやりながら、土井はそう問う。名無しさんが目的地を告げると、彼は静かに頷いた。
「分かりました」
歩き出した土井の後を、名無しさんは慌てて追う。
「あの、土井先生」
「たまたま、通りかかっただけですから」
ぴしゃり、と土井は言った。「はい」
それきり黙って歩く土井の背中を見ながら、名無しさんも口を閉ざす。
目の前で「何とも思っていない」と言われてしまっては、そうそう気軽に声を掛けることもできない。いつもは優しい土井が、ああまで言ったのだ。きっと、自分は嫌われるようなことをしてしまったに違いない。
名無しさんは土井の背中から目を逸らした。
足下では、夕日の作る長い影がふたつ重なっている。名無しさんが自分の影を羨ましく眺めていると、ふいに名を呼ばれた。
顔を上げると、土井はやはり名無しさんに背を向けたままだった。
「安藤先生の前で、一年は組や私のことを庇わないでください。お気持ちだけで、結構ですから」
「もしかして、迷惑……でしたか?」
暫く返事を待ったが、土井からは何も返ってこず、足音だけが小さく響く。
土井や一年は組を庇ったことが、嫌われる原因だったのだろうか。よかれと思ってわざわざしたことではないが、迷惑になるとも考えはしなかった。安藤のあまりの言いぐさに、ただ口をついて出てしまっただけだ。
しかし、それが土井の迷惑になるならば、今後は慎まねばならない。
名無しさんが唇を噛むのと同時に、土井が振り向いた。
「名無しさんさんまで、嫌味を言われてしまいますから」
逆光で彼の表情は殆ど分からないが、声音は優しい。
「そんなの、平気なのに」
ふい、と土井は顔を戻した。
「名無しさんさんがよくても、私は嫌ですから」
土井にしてはつっけんどんな口調だったが、名無しさんは安心した。
嫌われたわけではないのだと、名無しさんは口の両端を上げる。
途端に、もう目的の場所に着いてしまうことが、残念でたまらなくなった。
「ここでいいですね」
扉を見ながら淡々と言って、土井は荷物を下ろした。
「ありがとうございました」
深々と頭を下げる名無しさんの上に、躊躇うような声が降ってきた。
「明後日……空けておいてくださいね」
名無しさんはゆっくりと顔を上げ、土井を見つめた。
「どうしてですか?」
小首を傾げると、土井は眉根を寄せて僅かに視線を彷徨わせた。
「行かないんですか、団子屋」
「行きたいです!」
間髪入れずに答えると、土井は照れくさそうに頷いた。
胃炎は大丈夫なのだろうか、ということが名無しさんの頭をよぎったが、それは今は訊かないことにした。
行くのはやめよう、と言われてしまっては困る。
「それじゃあ、また」
「はい。ここまで、ありがとうございました」
名無しさんが土井に笑顔を向けると、少しぎこちない笑みが返ってきた。
来た道を戻っていく土井の背中を暫し眺めてから、名無しさんは目の前の扉に手をかけた。
すると、小さな風が彼女の髪を揺らした。
「名無しさんさん」
驚いて、呼ばれた方へと顔を向けると、藍色に染まりかけた空を背に土井が立っていた。
どこか怒っているような、普段とは幾分か違う空気をまとった彼の瞳には、茜色の光が映り込んでいる。沈みかけた夕日がそれとは気付かずに、名無しさんはぼんやりと見入っていた。
「名無しさんさん」
「は、はい?」
どぎまぎと、返事をする。
「安藤先生の前では、言えませんけど」
言って、土井は一旦口を閉じた。
そして視線を落としたと思うと、すぐに名無しさんの目を真っ直ぐに見た。
「……ちゃんと……好き、ですから」
尻窄まりに言い終えて、土井は名無しさんに背を向けると、駆けだした。
声を掛ける間もなく取り残された名無しさんは、今度は土井の後ろ姿をしっかりと見送っていた。
それを知ってか知らずにか、土井は曲がり角の手前で一度だけ振り向いたのだった。