死体を隠さなければ。
床に転がったままの土井先生の足首を持って引き摺る。
重い。
けれど、どこかに隠さなければ。
土井先生を殺してしまった。
まだ生きている可能性もあるけど、床に横たわる先生は息をしていないしぴくりとも動かない。
どうして、どうしてこんなことになってしまったのだろう。
せっかく土井先生と両想いになったのに。秘密のラブラブ学園生活を送って数年後には結婚するはずだったのに。
数年後って何年後だろう。
突然のノックが三回。
「土井先生」
返事を待たずにドアが開いて、私は終わった。
ああ、私どこで間違えたんだろう。
次は土井先生の授業だ。
授業内容はともかく、土井先生を眺めていられるのは楽しみだ。
トイレに行った帰り、廊下をぼんやり歩いていると後ろから声をかけられた。
「苗字」
振り返る前に分かっていたけれど、声の主は土井先生だった。今日もチョークで薄汚れた上着を着ている。
脱その他大勢! を狙った下克上に失敗したのか成功したのかそこそこ謎な状況で、先生と両想いだと判明したのはつい先日で、それ以来特に何も起きないのだけれど、今日も能面顔な私のテンションだけはフルスロットル。
「授業で使うプリント、取りに来てくれないか」
「……はい」
「休み時間に悪いな」
「いえ。職員室ですか?」
「準備室」
のそのそと先生の後を着いていくけれど、心の中ではスキップ中だ。
んもー土井先生ってば! そんなに私と一緒にいたいんですか。
「前回の小テスト、見直ししたか?」
「いえ……満点だったし見てないです」
「そうだったな……って、全く見てないのか?」
「はい」
土井先生が眉根を寄せる。
うーん、見直しするような内容だったかな。いつものつまらない小テストだったような気がするんだけど。
「あ……もしかして今日の授業で使うんですか?」
「いや、使う予定はない」
「よかった。焦った」
「ひょっとして……捨てたのか?」
「捨てるつもりはなかったんですけど、母に頼まれたレシートをシュレッダーにかけてるとき、うっかり一緒に。うちのは電動なんですけど、手動のやつって面倒ですよね」
土井先生は頭に手をやりながら項垂れた。
あれ、キュン死にしそうなこと言ったっけ? もしかしてシュレッダーには何か私の知らない使い道があるの?
世の中まだまだ知らないことばかりだ。
「メールアドレス……」
「はい?」
「……書いたんだ」
「はい?」
「だから、苗字の小テストに」土井先生は強めの小声になる。「私のアドレスを、書いたんだ」
なんということでしょう。
そんな大事なことは蛍光ペンででかでかと書いておいてよぉおおおおおおお。匠もびっくりだよぉおおお。
今日は徹夜でパズルをしなくちゃいけないのか。
「いや、まあ……丁度よかった」
1ミリもよくないでしょう。
「見なかったことにしてくれ、と言おうと思っていたんだ」
「どうしてですか?」
「まずいだろう、色々と」
この人、保身に走る気か! いやでも私も保身に走ったんだった。いやいや、それはすでに数日前の過去の話。
しかし私たち似たもの同士ですね。これは式場選びも新婚旅行の行き先も、新居選びも育児方針も喧嘩しないはず。賃貸と持ち家どっちがいいんだろう。子供を何人産むかにもよるかなぁ。ああ、ライフプラン作成しなきゃ。
「苗字?」
「はっ」
うっかりトリップしていた。そんなことよりメアド!
「『はっ』って、どうした?」
どうしたもこうしたも、秘密の恋を育むには当然ながらこっそりと連絡を取らなくてはいけないんですよ。そのスリルが恋を育むんですよ先生!もしかしたら、勉強に少女漫画とか貸してあげた方がいいのかもしれない。
そうだ、ブックオフ寄ろう。
「いえ……アドレスの最初の文字とアットマークまでの文字数を教えてください。あと、生年月日と好きな数字を是非」
「まさか、割り出す気か?」
「いいえ、まさか。さくっとメアド教えてください」
「教えたくない」
はい? どういうこと?
「書いたんですよね?」
メアドを私に教えたくて、わざわざ危険を冒して気付きにくい方法で小テストに書いたんですよね? 教えたくないとか、今更矛盾もいいところなんですけど。
「一時の気の迷いだ。両想いになって……舞い上がっていた」
頬を染める土井先生はめちゃくちゃ可愛い。からかわれているときとはまた違う可愛さ。罪ですよ!
「やっぱり卒業まで何もなし! 今まで通り、何もなかったように振る舞うように! というか、私たちの間には再来年の4月までは何もない! いいな!」
「……嫌です」
「私がクビになってもいいのか」
脅しが通用するとお思いか。
「まぁ、結婚してるわけじゃないから私の生活にはそこまで響かないし、いいんじゃないでしょうか」
先生のことは好きだけど、最悪の場合は切り捨てさせてもらうしかない。人生長いから。学生時代の恋で全部ぱあになるなんてちょっとね。
土井先生が石油王ならまだしもただの教師だし、ばれたらクビになるかもしれないし、そうなると不安しかないわけで。
「苗字は口を開けば開くほど、教室にいるときと性格が違うな」
えええっ、失恋フラグですか。頑張って今までのイメージを死守しなくちゃ。つまりは能面顔で黙っていればいいのかな。なるほど。
土井先生が溜息を吐く。
「まぁ、そのうち慣れるか」
プ、プロポーズきたぁあああああああああああああ。
卒業まで何もないとかどの口が!
一生一緒にいるうちに慣れるってことですね!永遠を誓うのね!エターナルラブ!
ああ、脳内ホイットニーが高らかに歌っている。
帰ったら指輪のカタログ取り寄せよう。店に行かなきゃいけないのかな。土井先生のお給料幾らなんだろう。預金残高を聞いておくべきかな。
「苗字、プリント持ってくるからここで待ってて」
「え? 口実じゃなかったんですか」
「口実って……」
土井先生はお腹を押さえながら準備室に入っていくと、正直不要な紙束を持って出てきた。
「これ配っておいてくれ。そうだ、ノートも返すからそれも頼む。全部は重いか?」
「廊下にぶちまけそうです」
「じゃあ半分は私が持って行く」
「はい」
これってまさかの使い走りになってるんじゃないかな。と、ふと思った。二人の距離が急接近した結果、私は特別な存在になったはずなのに、貰えるのはヴェルタースオリジナルではなくクラスメイトのノートとプリント。雑用係は上なのか下なのか。その他大勢の雑兵ではないんだろうけど。うーん。
これは、ふたりきりの状況を餌に騙されているのかもしれない。もしくはビンタの報復か。
報復、ダメ。ゼッタイ。
悶々としながらも教室に戻って、言われたとおりにプリントを配る。今まで目立たない並女子を貫いてきたのだから、急にふてぶてしくなるわけにもいかない。男女共に派手グループは怖いし私は天然チキン。
結局、土井先生も逆らわなさそうな生徒に用事を頼むという事実に愕然とする。私は一応中身はこんなだけど。
黒い、黒いぞ土井半助。チョークで袖が白くなってるくせに。
「あーあ、がっかり」
黒古毛屋のパンと財布を片手に渡り廊下を歩いていると、ぼそっと呼ばれたような気がした。
「苗字」
辺りをよーく見渡してみると、校舎の陰から土井先生が手招きしているた。お化けみたいだなぁ、なんて思いながらとぼとぼ歩いていくと苦笑される。私が可愛らしく駆け寄るタイプじゃないってことは、去年副担任だったんだからご存じでしょうが。
「どうした?」
「……先生こそ」
何もないとかバレたくないとか散々言っておいて声をかけるとか、先生ってばどんだけ私のこと好きなんだ!
「いや、なんだか元気がないようだから」
「まっとうな3色パンの気分だったのに、売り切れてたんです」
今日は中身がいつものゲテモノでなく、ちゃんとクリームとチョコと餡の3色パンだったみたいなのに。だから早々に売り切れちゃったんだけど。
「交換しようか?」
と言って、先生が桃太郎っぽく持ち上げたのは袋に入った3色パンだった。
「珍しいですね、先生がパンなんて」
何故知っているかというと毎日ストークしていた! わけではなくて、3年の怖いお姉さま方がよく話しているわけです。
「土井先生今日も学食でうどん食べてたね。毎日学食じゃん」
「A子お弁当作ってあげたら~?」
「え~どうせ受け取ってくれないよぉ」
「そんなことないって! A子料理上手じゃん♪」
「そうだよぉ」
「でも3組のBさんが冗談っぽく『お弁当作ってあげよっか』とか言って断られてるの見ちゃったもん。Bさんまあまあ可愛いのに」
「A子のが肌綺麗だよー勝ってるって。Bさん性格悪いし微妙じゃん?」
性格悪いのは、お・ま・え・だ・ろっ! 可愛いに対して肌綺麗って対抗できてんの? ってかあなた美容部員か!
という感じで情報が流れてくるのであります。てへぺろ。
「今日はもう、食券売り切れてたんだ」
「さっきまでダフ屋が食券売ってました」
「またきり丸か。懲りない奴だな」
ダフ屋の呼び名が教師にまで浸透している。
「3色パン、いいんですか?」
「もちろん」
先生、まさか私と交換したくて3食パン買ったんじゃないでしょうね。先回りして私の3色パンを奪って待ち伏せして、交換で好感を持たせる作戦だったりするんじゃないでしょうね。
土井半助、おそろしい子!
「せめてものお詫びに、というわけではないが」
「お詫び?」
「アドレス。がっかりさせたかな、と」
何言ってるんだろう、この人。自分のメールアドレスにそれほどの価値があると思っているのか。あるんですけどねー。パンよりそっちが欲しいんですけどねー。
「こういうのはこれっきりだぞ。今日だけだからな」
Why?
3年女子にも2年1組女子にも、飴もらったりしてたじゃないですか。この間は沖縄旅行帰りの女子にちんすこう貰ってた場所に居合わせて、私しっかり立ち聞きしてたんですよ。そのときも「今日だけだぞ☆」って言ってましたよね。まあ、☆はついてなかったけど。
嫉妬ではらわた煮えくりかえって、ついでにおでんも煮れると思ったわ。先生は私のこともっと特別扱いしてもいいんじゃないですかねっっ!
ふと視線を感じて我に返る。
あ、土井先生が無表情で静止した私にびびっているのが分かる。
まあいいや。あなたの罪を許します。私は心が広いし3色パン食べたいし。両想いだし。
でも、一応聞いておこうかな。
「本当にいいんですか?」
「ああ。もちろん」
「ありがとうございます!」
さっと交換してその場を立ち去る。
後ろから変な声が聞こえたけれど、何も聞こえなかったふりをして急いで校舎に入る。先生との関係がバレてはまずい。
そして私は3色パンが食べたい。
「苗字っ」
わお。悲痛な声が追ってきた。
そう、何を隠そう私が買ったのはちくわパンだったのだ。私は黒古毛屋のパンなら、ちくわパンがそこそこ好きなのです、先生。ごめんね。
でも、私、一昨日も見た! 家政婦じゃないのに。
土井先生が力士みたいな3年女子と取組……じゃなくて、腕組んでるのを。正確には腕を捕まれていたということくらいは分かっているんだけども。
正直、力士だろうがモデルだろうが、どっちも違うベクトルで腹立つからそこはいいんだけど、私というものがありながら女子と腕を組んでいたのが絶対に許せない。男子と腕組まれても心底困るけど。
優しい顔して困ってないで、野村先生を見習って腕くらいばっと振り解いて適当にキザな台詞でも吐いて取り繕っておけばいいじゃないですか。土井先生はそうしないって皆知ってるから、べたべた触られるんですよ。
とにもかくにも「どうしてくれよう土井半助!」と思っていたところ、こんなに早くお返しができるとは予想外です。名無しさん感激!
階段を一気に駆け上がる。人目に付く場所に出ればパンも奪われまい、と思ったのも束の間、すぐ後ろで声が聞こえた。
「待てっ、苗字っ」
土井先生ってば足速いっ! 素敵っ!
捕まるのもいいかと半ば諦めかけながら角を曲がったとき、ちょうどいいタイミングでテカテカした人が通りかかった。
「あ、安藤先生」
「おや、苗字さん。どうしましたか? 廊下を走ってはいけませんよ。あなたは相変わらず無表情ですね」
最後の一言は何でしょう。土井先生の前でしか能面になってないと思ってたんだけど。ま、安藤先生に愛想振りまく理由もないからそういうことかな。
「すみません。実は安藤先生に確認したいことがありまして」
「何ですか?」
うん、何だろう?
よく考えると、自分から安藤先生に話しかけたのは初めてかもしれない。用事がありそうでないんだよね、安藤先生。一部でギッシュと呼ばれているのを知っているのだろうか。油ギッシュのギッシュでスタイリッシュ。
何かそれらしい用件を、オリーブオイルも作れそうなくらい無理矢理絞り出す。黒板に書いてあったけど、これでいいや。
「……今日の午後の授業って、図書室ですよね?」
「そうですよ。鐘が鳴る前に移動しておいてくださいね。まぁ、真面目な苗字さんには、わざわざ言わなくてもあたり前田のクラッカーですね」
ある意味レベルが高すぎてついていけない。うまく愛想笑いができずに口の端が無様に歪む。
「苗字、ここにいたのか……うっ、安藤先生」
「土井先生。息を切らしてどうしたんです。まさか生徒と一緒になって廊下を走っていたわけじゃあないでしょうね」
「ははは、まさか」
土井先生が苦笑する。説得力が微塵もない。
「あっ、先生たちもこれからお昼ですよね。私もこれからなので、失礼します」
そう言うと、土井先生がものすごい顔でこっちを見ていたけれど、安藤先生の嫌味を聞きながら私はその場を立ち去った。
踏んだり蹴ったりだ、と土井先生は思っていそう。
ドンマイドンマイ!
死ぬほど眠いというか、何度か寝てしまった午後の授業を終えて、教科書を持って準備室へ向かう。質問があると見せかけてメールアドレスを入手する作戦だ。
「質問にきたの、初めてだな」
「そういえばそうですね」
相変わらずの汚準備室で微笑む土井先生を見ていると、女子に人気があるのが信じられない。皆、若い男なら誰でもいいのか。
「で、どこ?」
教科書をめくる土井先生の頭に向かって口を開く。
「土井先生のメアドが分かりません」
「教えてないからな」
あまりにきっぱりはっきり言うので、私もついムキになる。
「教えてくれたんですよね!?」
「大声で言うなっ!!!」
「先生の声のがでかいです」
「苗字が余計なことを言うからだろう」
余計なことしたの、先生じゃないですか。シュレッダーにかけたのは私ですけど。
「私……卒業まで我慢しようと思ってたんですよ。それなのに先生が……」
「そ、それは悪かったと思うが、あと一年半くらいだから。我慢してくれ」
それってつまり、一年半の我慢=卒業したら一緒に住もう! ってことだよね! そうなると大学は市内がいいか。遠距離恋愛もちょっと憧れるけど、敵が多いからなぁ。魔性の女が入学してこないとも限らない。
まずキッチンツールを揃えて、キッチンウェアも可愛いやつを。なぜなら新婚だから! 料理しないけど。寝室はどうしようかなーその前に両親に会ってもらわなきゃ! でも受験が終わってからだよね。卒業式の後になるのかな。そうなるともう大学生だよね。新生活と新婚生活は同時スタートが理想なんだけどな。忙しそうだな。「お嬢さんを私にください」とか言ってくれたりするのかな? 荷物まとめておかなきゃ。
「でも先生アパート暮らしですよね? 1DK? 1K?」
「は?」
はっっっ!!!
「何でもないです」
思考が口から漏れてしまった。危ない危ない。
かなり怪訝な顔をされている。
「質問がないなら帰りなさい……先生忙しいんだ」
質問はしたけど先生が答えてくれないんじゃないですか。と考えながら視線を逸らすと、机の上にちくわパンがあった。
「まだ食べてないんですか? もう放課後ですよ」
「食べられるかっ!」
「たかがちくわじゃないですか」
されどちくわ。
ひょいと手にとって袋を開ける。
「ふんっ」
少々可愛くない声がしたけれど、先生が幻聴だと思うよう念を送る。幻聴です幻聴、幻聴幻聴幻聴。完了。
「はい、あーん」
「こら」
嫌そうな顔がまた可愛いようでかっこよくて、内心にやけまくりなのだけれど、私の顔面は能面というかほぼ無表情でちくわパンを持ってじりじりと土井先生に近づく。
「苗字、やめなさい」
ちょっと低い声も今日は全然怖くない。だって先生の方が怖がってるように見えるから。
「美味しいですよ、黒古毛屋にしては。どうぞー」
そこまで心底嫌そうな、怯えも入ったような面白い顔をされると、なんかもうやめるタイミングが分からない。これが嗜虐心てやつ? 困った。
「この辺の端っこなら、ちくわ入ってないですよ。ね、一口だけ」
「やめなさい。苗字! 苗字!」
「そんなに練り物嫌いですか?」
「嫌いだっ! やめなさい!」
あ、これあれだ。絶対に押すなよ的な誘い受け的な。
OK!
先生の口に勢いよく、ちくわパンを押しつける。
「うわぁあああああああああああああ」
何が起きているんだというような、断末魔。
あまりに勢いよく逃げようとするものだから、とっ散らかった床の何かが邪魔したようで、土井先生が椅子ごとひっくり返った。
土井先生の腕が当たったのか、机の上のノートとプリントの山が雪崩を起こして先生に降り注ぐ。
頭が完全に埋まっている。
大事故だ。
「せ、先生……」
あまりの出来事に動画を撮っておけばよかったんじゃないかと思いつつ、笑っていいものかと悩んでぐっと堪える。
そんなことよりなにより、先生が動かない。痛いとも言わない。怒りもしないし唸りもしない。
や、やっばぁあぁぁあああああああああああああああっ!
パンを机に放って慌ててノートとプリントをかき分ける。静かすぎる。雪山かここは!
退学にでもなったら大変だ。なんというトラジェディー。
「……先生!」
掘り起こしたが土井先生は目を開けない。
頬をぺちぺちと叩いてみても反応がない。
「土井先生っ」
こ、これはもっとショックを与えてみた方がいいのかもしれない。そうだ、目には目を! 歯には歯を! ショックにはショックを!
強めに平手打ちしてみる。
部屋が汚いせいか意外と音が響かなかったけれど手がじんじんする。考えていたより強く叩いてしまった。プロじゃないから力の加減って難しい。
仕方がないのでもう一回、反対側を叩いてみる。念のためにもう一回ずつ。
ここまでしても目を開けない。鼻をつまんでも苦しがらないから息もしていないみたいだし、もしや死んでいるのだろうか。というか私が殺してしまったことになるのかな。
これって過失致死というやつか。
でも先生の練り物嫌いと、私がちくわパンをいろんな意味で無理矢理押しつけたことが明らかになったら、殺人になってしまうかもしれない。正直何がどうなると殺人罪になるのかよく分からないけどヤバそう。
そうだ、とりあえず証拠隠滅だ。
こういうときのために、某科学捜査班のドラマをノート取りながら見ておけばよかった。ちくわパンで死ぬ人なんて滅多にいないだろうから、何が参考になるのか見当もつかないけれど。
机の上のパンに手を伸ばす。
噛み応えのある黒古毛屋のパンを食べるには最悪のタイミングだ。そして、めちゃくちゃのどに詰まる。でも輝かしい未来のため!
そうだ、お茶をもらおう。待って。この汚準備室に置いてあるお茶が新しい可能性はすこぶる低い。それこそ命に関わるからやめておこう。
「うぐっ」
私も死にそう。ロミオとジュリエットみたい。
そういえば、婚約中だから保険金殺人とか遺産狙いだと思われる可能性もあるのかな。でも口約束だからばれないのかな。私と土井先生の関係を誰も知らないはずだもんね。家に帰ったらシュレッダーにかけた小テストを焼かなきゃ。レシートと混ざったからすごい量なんだけど大丈夫かな。
ところで弁護士ってどうやって雇うんだろう。ネットで見つかるの? 今週見たいドラマもあったのに、そんな余裕ないな。
土井先生と結婚するはずだったのに。
どうして、どうしてこんなことになってしまったのだろう。
先生の机の上が汚いのが9割悪いんだけど。あとの1割は土井先生が練り物嫌いだということだ。つまり全部土井先生が悪いんじゃないか!
パンを全部食べ終えて、ようやく仕事に取りかかることにした。指紋がべったりとついた袋は、とりあえず土井先生の机の引き出しに突っ込んだ。
汚い靴の少し上、土井先生の足首を持つ。
案外重い。
散乱したノート類が邪魔をする。
けれど、どこかに隠さなければ。
とりあえず、ドアから一番遠いところに置くとして、あとはどうしようか。
突然、ノックが3回響いた。
「土井先生」
返事を待たずにドアが勢いよく開いた。
終わった。
と思った瞬間に、山田先生とばっちり目が合う。
「ん? ……苗字じゃないか。土井せんせ、い……は……」
山田先生は仰天顔で私と土井先生を交互に見る。
「あっ、わっ、ち、違うんです」
何が違うのか自分でも分からないまま、土井先生の足をぶん投げる。
これは……山田先生に遺体を隠すのを手伝ってもらったせいで後々強請られるか、今ここで山田先生も始末しなきゃいけないかのパターンだ。どっちもあまり得しない。
そして適当な鈍器がない。でっかい三角定規はどこいった。
そうだ! 山田先生に罪を擦り付けて高飛びすればいいんだ。それしかない。
私の思考を読んだわけではなさそうだけど、山田先生の眉間のしわが深くなった。
「土井先生、あんた何やってんですか……」
山田先生が呆れかえった様子で溜息を吐くと、あんなに叩いても動かなかった土井先生の目が開いた。
「いえ、その……ちょっとからかうつもりで」
ものすごく気まずそうな声が響く。
これって、もしかして。
「い、生き返ったっ!」
「死んどらんわ!」
言いながら、土井先生は起きあがる。
私を見た山田先生は、さっきとはまた違う吃驚顔だ。
「えらく元気だな、苗字。そんな大声出したの初めて見たぞ」
「……さっきカフェオレ飲んだんです」
「カフェオレ?」
カフェインですカフェイン。
「よくわからんが、まあいい。土井先生、職員会議の時間ですよ」
「ああっ、しまった。そうでした」
山田先生は溜息混じりに首を横に振りながら準備室を出ていく。完全に呆れられている。
「もたもたしてると始まるぞー、半助」
「すぐ行きますっ!」
と言った土井先生の横顔が赤いのは、私が平手打ちしたせいだ。怖いから見たくないけど両面赤いに違いない。
「苗字」
「はい」
「悪いが、ここ、片付けておいてくれないか?」
プリントとノートとテキスト類と、文房具が散乱しまくっている。後ろめたいので素直に応じたいところだけど、このまま土井先生専属の雑用係になるのは嫌だ。何事も最初が肝心!
「メアド教えてくれたらやります。約束します」
「苗字……頼む。急いでるんだ。拾うだけでいいから」
「一文字だけでいいから教えてください」
そこから推測できるはず。すぐには無理だけど少しずつ情報を集めていけばいい。メアド完成前に卒業してるかもしれないけど。
「仕方ない、一文字だけだぞ」
「はい!」
「約束だからな」
「はいっ!」
右手を出すと土井先生は顔をしかめる。
「なんだその手は」
「書いてください」
うわ面倒くさい。というような顔をされつつも、右手の位置をキープする。
「分かった。目を閉じて」
も、もしかして書いてくれると見せかけてのキスかな。先生ってば大胆!
ぎゅっと目を瞑る。
ん? さっきの報復往復ビンタってことはないよね。ないないないない。生徒殴ったらヤバいもん。先生殴るのもヤバいけど。土井先生がまさかのDV野郎じゃなければ、未来の妻を殴ったりはしないはず。大丈夫、大丈夫。大丈夫?
でも怒った土井先生めちゃくちゃ怖そうなんだよね。平気で踏んできそうだもん。
ってか沈黙が長すぎ!
あぁああああああああああああ、どうしよう。やっぱ怒ってるのかも。
「ご、ごめんなさい」
「何が?」
しれっと言うのが聞こえて、同時にマジックペンのインクのような匂いがふわりと漂った。大きな手が私の手の甲を支えて、冷たい感触が手のひらをぐるっと這う。
「よし」
こ、これは!
ドキドキしながら目を開くと、そこには待望の一文字。
@
なんじゃこりゃぁあ!!!
「そういうわけで、拾うのよろしくな」
さわやかな笑顔を浮かべた土井先生は教師のくせに廊下を走っていって、私は散らかりまくった汚準備室に残される。
「謀ったな、土井半助」
ぶつぶつ言いながら片づけをする。パンの袋はそのままにしてやる。
拾うだけでいいとは言われたけど、まさか本当にそれだけで帰るわけにもいかないので、ノートやプリントをきちんとクラスごとにまとめていく。安藤先生じゃないから嫌味を言ったりはしないだろうけど、気が利かないと思われても癪だし、何より、自分、チキンですから。というか、まあ、要領悪いんだよね。
べたつく机にノートを揃えて終えた瞬間、重大な事実に気付いた。
あのとき、私は確かに土井先生の口にちくわパンを押しつけたわけで、それを証拠隠滅のために私が食べたわけで、つまり、つまり、つまりこれって、記念すべき、あれだ。
「初……か、間接キス……」
能面顔が真っ赤になっていくのが分かった。
これはもうやっぱり、土井先生には責任とって結婚してもらうしかない。