喧嘩4

 暗い部屋の中で半助君の腕から逃れて、私は大きく息を吐いた。
 空になったコーヒーの容器が目に入る。

「名無しさん? どうかしたのか?」
「……何か飲む?」
「いや、いらない」
「そう」

 短く答えて起きあがろうとした私の手を、半助くんが掴んだ。

「名無しさん、何か話があるんじゃないのか?」
「何かって?」

 分かっていたら訊かない。そう言いながら、半助君は眉間に皺を寄せた。

 私は黙ったままTシャツを着て、電気ポットを手にキッチンへ向かう。
 床は氷のように冷たい。つま先立ちで跳ねるように、キッチンマットに乗った。
 半助君の溜息と布団を押し退ける音が、半開きの戸の向こうからするのを聞きながら、ポットに水を汲む。
 帰り支度をしているのかもしれない。
 ポットとスポーツドリンクのペットボトルを持って寝室に戻ると、半助君は下着姿のままベッドに座って俯いていた。

 どうしたの? 帰る? クリスマスプレゼントは何がいい? クリスマスが終わっても恋人だよね? 来年も一緒にいるよね? 半助君は、あの男とは違うよね?
 訊きたいことは沢山ある。でも、どれも怖くて口にできない。
 不安にさせているのを知りながら、私も不安でたまらない。
 なんだか、少しもうまくいっていない気がする。思い当たる理由は幾つもあって、同時に、そのどれもが理由ではないような気もする。
 分かるのは、私が悪いのだということだけ。

「寒くないの?」

 電気ポットの電源を入れながら、半助君に声を掛けたけれど、彼は返事をしない。

「着替え、こっちにしまってあるよ」

 努めて明るく、クローゼットに向かって喋りながら、半助君のTシャツとスウェットを出した。
 少し躊躇ってから振り向いて、何も言わずにベッドに置いた。
 半助君も何も言わない。
 怒っているわけではなさそうだけれど、機嫌がいいわけでもないだろう。
 どうすればいいのか分からなくなって、炬燵の上に置いていたスポーツドリンクを開けて口に含んだ。
 氷が落ちていくような冷たさが、喉を通って胃に落ちる。思わず首を竦めた私に、半助君が静かに手を差し出した。
 私はペットボトルを渡し、彼の隣に座った。
 スポーツドリンクに口を付けた半助君は、僅かに顔をしかめた。
 きっと、思ったより冷たかったのだろう。
 暗い部屋で、お湯の沸く音を聞きながら、半助君の喉仏が上下するのを見ていた私の手から、彼はキャップを取り上げた。
 ペットボトルに蓋をして、炬燵の天板に置く。

「……怒ってる?」
「いいや」
 
 私の剥き出しの膝に、半助君の手が乗った。温かな手で膝を引き寄せながら、彼は私に寄りかかる。
 私は半助君を抱き締めた。

「名無しさん」

 夜空から舞い落ちてくる雪のような声は、私の胸元で融ける。
 ぼさぼさの髪に顔を埋めながら、ベッドに倒れた。
 ぐらぐらと、お湯の沸き立つ音がする。

「考えてた」

 ぽつりと半助君は言った。

「何を?」
「クリスマスのこと」

 声色で、初めて会った日のことだと分かった。でもそれ以上のことは分からない。
 シャツの内側で長い指が蠢いて、私は静かに目を閉じた。

「半助君、ごめんね」
「何が?」
「……全部。私……」

 もういい、と言いながら、半助君の唇が私の言葉を遮った。
 私たちを隔てるものは何もないはずなのに、とても遠くにいる気がした。私が半助君から遠ざかったのだろうかか、彼が私から遠ざかったのだろうか。もしかしたら本当は、初めから近付いてなどいなかったのかもしれない。
 確かなのは、あの日からもう一度やり直せたら、私と半助君はもっと上手くやれるはずだということ。
 少なくとも、私はそう信じている。

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