勢いよくドアを開けたが、誰も気にとめる様子はなかった。足早にデスクへ戻り、仕事の残りに取りかかる。
地元ミュージシャンへのインタビュー記事。テープ起こしからの打ち込みは終わっているので、軽い手直しと確認が済めば、それで終わりだ。
集中しようとすればするほど、きりちゃんのことが脳裏に過ぎり、キーボードを打つ手が小刻みに震える。
「名無しさんさん、大丈夫ですか?」
声を掛けられて顔を上げると、諸泉君は心配そうな表情で私を見ていた。
「具合悪いんじゃないですか?」
「平気。ありがとう……あの……」
まだ微かに子供っぽさの残る丸い目が、不安そうに私を見つめ返すのを見ているうちに、私の気持ちは決まった。
「諸泉くん」
「はい」
「ここ、頼んでもいい?」
「え? それって……」
「この記事が終わったら、帰らせてもらうから。私の受け持ちは終わってるし……多分、大丈夫だから」
無責任な台詞に自嘲する間も惜しく、パソコンに向き直って作業を進めた。
腹が決まれば、集中するのは簡単だった。
不備がないことを何度も確認してデータを保存し、元々そのページを担当している後輩にその旨を伝える。彼女の方も、どうにか時間前には終わりそうな気配だった。
「諸泉君」
そして、もしもの場合の作業内容と、最悪の場合は一度帰宅してから戻ってくるということを諸泉君に伝えた。
「というわけで、お願い。何かあったら電話して」
「分かりました。任せてください」
「ありがとう。お願いします」
諸泉君に下げた頭をもたげ、奥のデスクへと向かう。
「編集長!」
事情を掻い摘んで話す。
仕事を放り出すのと同じだけれど、どうしてもきりちゃんのことが気になる。
当然ながらいい顔はされなかったけれど、帰宅を許してもらうことができた。
皆に謝りながら、編集部を後にする。
動悸がする。
その原因は仕事の途中で抜け出すことになのか、きりちゃんの居場所についてなのか分からない。
でも、きりちゃんが無事なら、動悸が治まらないことなんて取るに足らないことだ。
階段を急いで下りていると、靴底が滑った。
「あっ」
手摺りを掴もうとしたが間に合わず、そのまま階段から落ちた。
肘と膝を強かに打ち付けてしまった。
「いったぁ……」
私が思ったより酷い音がしたのか、営業部のドアが開いた。
「今の、何の音? ……って、名無しさんちゃん! まさか、落ちたの?」
出てきた雑渡さんに助け起こされながら、服に付いた埃を払う。
「すみません。滑っちゃって」
「怪我はない? 上、終わったの?」
「いえ……」
そう言うと、雑渡さんは不思議そうに私を見た。
「抜け出すなら、もっと静かに行動しないと。送ろうか?」
「いいです。一人で帰れますから」
歩きだそうとすると腰が痛んで、思わず顔をしかめた。雑渡さんは微苦笑すると、営業部へ入っていった。
仕事を放り出したうえに階段から落ちた間抜けな私に、呆れたのかもしれない。それも当然だ。
私は痛む膝や腰を庇いながら、のろのろと階段を下りる。もう少しすれば痛みも引くだろう。
早く帰らなきゃ。
「名無しさんちゃん!」
突然の大声に驚いた。
今度は手摺りをしっかり握っていたけれど、また階段から落ちるのではないかと焦る。
危ないなぁ、という暢気な声の主は、当然のように雑渡さんだった。
「送るよ」
言いながら、コート姿の雑渡さんは中折れ帽を被ると、私の手から鞄を取り上げて勝手に漁り始めた。
「えっ……ちょっと待ってください。鞄……い、いたた……あの……」
「車のキーは? ああ、あった」
目の前で車のキーが揺れる。
「ここまで車回してくるから、名無しさんちゃんはゆっくり下りてきなさい」
呆気に取られながら、雑渡さんの後ろ姿を見送る。そしてすぐに、急いでいることを思い出し、精一杯の早さで外に向かう。
表に出ると、肌を刺すような寒さが私を待ち受けていた。
寒さと痛みに顔をしかめた途端、大切なことを思い出した。
「そうだ……」
半助君に連絡しなきゃ。
携帯を取り出すのと同時に、私の車がウインカーを出しながら路肩に停まった。