ドアを開けたが、誰も気にとめる様子はなかった。デスクへ戻り、仕事の残りに取りかかる。
地元ミュージシャンへのインタビュー記事。テープ起こしからの打ち込みは終わっているので、軽い手直しと確認が済めば、それで終わりだ。
集中しようとすればするほど、きりちゃんのことが脳裏に過ぎり、キーボードを打つ手が小刻みに震えた。
「名無しさんさん? 大丈夫ですか」
諸泉君に声を掛けられて顔を上げると、彼は心配そうな表情で私を見ていた。
「具合悪いんじゃないですか?」
「平気。ありがとう……でも、仕事しよう。急がないと」
終われば家に帰ることができる。
本当は、今すぐに戻った方がいいのかもしれない。でも、仕事を放り出すなんてできない。
きりちゃんが私の部屋にいるなら、危険なことはない。皆が心配しているし私もきりちゃんも怒られるだろうけど、今帰ったところでそれは変わらない。
それに、もしもきりちゃんが他の場所にいるなら、私はどうすることもできない。
この選択は間違っている気もする。
それでも私は、仕事を続けるための理由を頭の中に並べ続けた。「お疲れさまです」
全て無事に終わったのを確認して、私は編集部を飛び出した。階段を駆け下りているせいか、別の理由でか、動悸がする。
「あっ」
靴底が滑った。
「名無しさんちゃん」
大きな手が私の腕を掴んでくれたお陰で、転げ落ちずに尻餅をついただけで済んだ。
「危ないよ」
雑渡さんが驚き顔で私を見下ろす。
どこにいたのだろうか。帰ることばかりを考えていて、人の気配に全く気が付かなかった。
「ありがとうございます……お疲れさまです」
「お疲れさま。家まで送ろうか?」
返事をするより先に、階上から諸泉君の声が聞こえた。
「名無しさんさーん! 携帯忘れてますよ、電話掛かってきてます」
「尊奈門、投げて」
「ええっ! ダメ、諸泉君!」
「尊奈門、名無しさんちゃんは無視していいから」
若干戸惑った様子を見せつつも、諸泉君は私の携帯を放った。
「諸泉君っ!」
悲鳴混じりの私の声など無視して、雑渡さんは携帯を軽々と受け止める。
「はい」
「……ありがとうございます」
差し出された携帯を、大きな手から受け取る。
着信は半助君からだった。
履歴を確認している隙に、雑渡さんは私の鞄を取り上げると、勝手に漁って車のキーを出した。
「えっ、ちょっと、何してるんですかっ」
雑渡さんは私の声を無視して、そのまま黙って階段を下りていく。
彼を追って慌てて表に出ると、刺すように冷たい風が吹いていた。
「雑渡さんっ! 待ってください!」
スーツの背中に怒鳴るように言うと、雑渡さんはようやく振り向いた。
「おいで、名無しさんちゃんの車で送る」