「……はい……でも、信じられません……だって」
「そう」
雑渡さんの顔が急に距離を詰めて、私たちの唇が重なった。
抵抗も虚しく、強引に唇をこじ開けられる。体を捩って逃げようとしたけれど、雑渡さんの大きな手が私の頭と肩を押さえていてびくともしない。
雑渡さんのキスは強引なくせにどこか優しく、私のガードを巧みにかい潜ってくる。抵抗しているはずが、いつの間にかキスに応えそうになる。
これはまずい。
酸欠気味な頭で必死に逃げる方法を考える。
両足が床に着いた隙を狙って、雑渡さんの靴を何度も蹴ると、唇が離れて彼の腕からも自由になった。
私が慌てて距離を取ると、彼は一向に悪びれた様子もなく口を開く。
「ごめん、ごめん。つい夢中になっちゃった」
セクハラです! と言う気も起きずに、私は口元を覆いながらよろよろと椅子に座った。
「信じる気になった?」
冗談のように軽く、同時にとても真面目な声音で雑渡さんは言った。
雑渡さんはキスくらい、誰にでもできるんじゃないですか。そんな悪態をつこうかとも思ったけれど、結局黙っていた。
「名無しさんちゃん、怒った? ……ごめんね」
雑渡さんは跪いて、私の顔を覗き込む。
「好きだよ」
仕事中より余程真面目な顔で、雑渡さんはそう言った。
暫くの沈黙の後、雑渡さんが口を開いた。
「仕方ない」
それはどう考えても独り言だったので、私はそのまま黙っていた。
雑渡さんはスーツの乱れを直すと、天井を仰ぎ見て、少し考えるような仕草をした。
何をしているんだろう、と思った途端、彼は普段通りの口調で私の名を呼んだ。
「とにかく、返事はもう暫く待つよ」
仕事の話をするかのような冷静な口調に、私はつい「分かりました」と答えそうになったれども、慌てて首を振った。
「待つって言われても……私、付き合ってる人がいるんですよ、返事なんて決まってるじゃないですか」
「覚えてない? 前に言ったはずだよ。恋人がいても諦める気はないから、って」
覚えてはいる。
だからといって、何が変わるわけでもない。寧ろ、雑渡さんに態度を改めてほしい。
私のことなんか、放っておいてくれればいいのに。 唇を噛みしめながら、床を見た。
今は半助君ときりちゃんと、クリスマスの件で一杯一杯だ。これ以上ややこしいことになったら、私の頭では考えきれないし、考えたくもない。
それに、好きって気持ちが何なのか、よく分からなくなってしまっている。
「名無しさんちゃん」
呼ばれて顔を上げると、雑渡さんはいつの間にかドアの前に立っていた。
「そろそろ仕事に戻るよ」
「……はい」
「名無しさんちゃん。早く彼氏と別れて、私のところにおいで」
にやり、と雑渡さんは悪戯っぽく笑う。そして、ひらひらと中折れ帽を振って部屋を出ていった。
ようやく編集部にひとりきり。
そう考えたら、思わず大きな溜息が出た。
デスクの上に置いた、パンの入った袋を指先でつつく。
この美味しそうなパンたちは、単純に雑渡さんの優しさなのか、下心なのか、少しも分からない。
分かるのは、もう雑渡さんに甘えてはいけないということだ。
あれほどはっきり告白されるとは、夢にも思わなかった。
信じられないという思いと、とうとうこの日が来てしまったという思いが入り乱れる。
雑渡さんの気持ちがはっきり分かった安心感と、応えられない申し訳なさと寂しさ。
黙っていてくれたらよかったのに。そうすれば、何も変わらずにいられた。考えて悩む必要もない。
雑渡さんのことは嫌いじゃない。嫌いじゃないけれど、私が好きなのは半助君だ。
そう、私には喧嘩中の恋人がいる。
彼はまだ、私を想ってくれているのだろうか。