ドアを開けた雑渡さんは、黒のヘンリーTにジーンズ姿だった。
「名無しさんちゃん、いらっしゃい」
「お邪魔します」
立派なマンションの玄関はやはり立派だ。気後れしつつも足を踏み入れると、部屋の中は雑渡さんの匂いがした。
少し甘くて、謎めいた大人っぽい香り。
「何? もしかして、緊張してる?」
「いえ、私服は新鮮だなぁって思って」
「会社でも見たことあるはずだけど」
「そうですけど……雑渡さん、普段はスーツじゃないですか」
目の前にいるのは、普段とは違う雑渡さんだ。会社にいる時の、スーツで決めた彼とはまた違う。
好きな人と毎日会えるって幸せ。そう思って微笑むと、雑渡さんも笑みを返してくれる。
「名無しさんちゃんは今日も可愛いね」
さらっと発せられた言葉の意味を少し遅れて理解して、勢いよく首を振った。顔が赤くなっているかもしれないのもあって、完全に俯いて靴を脱ぐ。
「早く上がりなよ。今日、泊まっていくでしょ?」
靴を脱ぎ終わる前に爆弾発言をされて、私はたじろいだ。
「ええっ、わ、私……そんなつもりじゃ……」
「そう?」
反応に困ったのと、靴を揃える為に、雑渡さんに背を向けた。
「……はい」
「恋人の部屋に来て、すぐ帰るつもりだったの?」
腕を掴まれて、ゆっくりと振り向かされる。
「雑渡さんと私の『すぐ』って、かなり違う気がします」
怒った振りをして、小さなバッグを掲げた。
「ほら、ちゃんと雑渡さんの言ってたDVDだって借りてきたんですよ」
「本当だ。偉い、偉い」
雑渡さんは私の頭に、ぽんぽん、と軽く触れた。
「ところで名無しさんちゃん」
「はい」
にやり、と雑渡さんが笑った。
「この映画、エロいって知ってた?」
「えっ、え……?」
「官能的って言い方もあるけど」
知らない。メールに書いてあったタイトルを探して、そのまま借りてきただけだ。そんな内容だと知っていたら借りてこなかったのに。
というか、この映画を今から見るのだろうか。ふたりきりなのに。数人で見るのも気まずいけど、とにかく無理だ。帰ろう。帰りたい。
帰してください、と思いながら雑渡さんを見上げると、彼は噴き出した。
「ははは……名無しさんちゃん、すぐ騙されるね」
「なっ……」
今度こそ、私の顔は真っ赤になったはずだ。赤くなっていないわけがない、というくらい、首から上が熱い。
「まぁ、ラブシーンがあることはあるけどね」
「見たことあるんですね」
「好きな映画だからね。名無しさんちゃんと観たいと思って借りてきてもらったんだ」
極自然に言いながら、雑渡さんは私の手を引いて廊下を進む。
「名無しさんちゃん、他人の言うことをすぐに信用しちゃダメだよ。そんなんじゃ、悪い男に引っかかる」
「それって」
自分のことじゃないんですか、と続ける代わりに、私は小さく悲鳴を上げた。
雑渡さんが突然、私を抱き上げたのだ。
「私のことかもね」
歌うように言いながら、雑渡さんは私の荷物を優しく奪う。
日当たりの良いリビングからは、街が一望できる。その景色を眺める間もなく、黒い革張りのソファーに落とされた。大きなソファーはふかふかしていて、衝撃は殆どなかった。
「ざ、雑渡さんっ……」
雑渡さんの重みでソファーが沈む。
「嬉しいよ、土井先生と別れてくれて」
すっと私の脚を撫でると、雑渡さんはシャツを脱いだ。慌てて顔を背けた先に、大きな手が着いて、革張りの黒いソファーが静かに沈んでいく。
「名無しさん……」
雑渡さんの、いつもより少し掠れた声が、すぐ側で聞こえる。