待ってる★

 車を駐車場に停め、会社の入り口へ向かって早足で歩いていくと、会いたくない人の姿が見えた。
 中折れ帽を被った、背の高い人。
 歩みを遅らせて、彼が屋内に入るのを待った。
 早く行ってくれないかな。そう思った途端、雑渡さんが振り向いた。
 口に出してはいないのに、聞こえたのかと思うほどしっかりと目が合ってしまった。

「おはよう、名無しさんちゃん」
「おはようございます」

 さっさと中に入ればいいのに、雑渡さんは私を待っている。
 暫くの間、仕事以外で話をしたくないのに。
 逃げる度胸もなく、のろのろと歩いていくと、雑渡さんは笑いを噛み殺すような顔をしていた。

「寒いね」
「はい」
「名無しさんちゃん、今日はいつもより早いね」
「……はい」
「なんだか、避けられてる気がするんだけど」

 はい、とは答えられないけれど、当然だ。
 あんなことがあった後で、普通の態度でいられるなら苦労はしない。
 昨日見た夢のこともあるし、半助君とのこともある。とにかく、雑渡さんと世間話をする余裕なんて今の私にはない。
 けれど、ひとつ気になる。
「雑渡さんは……」

 どうして私のこと好きなんですか。そう訊きたかったけれど、ここで思わせぶりなことはしたくない。
 百戦錬磨といった感じの36歳が、こんな質問で勘違いするとは思えないけれど、答えを聞いた私がどうにかなってしまいそうな気はする。

「……今日は車じゃないんですか?」

 馬鹿みたいな質問に、雑渡さんは間髪を入れずに答えてくれる。

「車だよ」
「そうですよね」

 雑渡さんはドアを開けると、私に先に入るよう促した。軽く頭を下げながらドアをくぐった私の背中に、雑渡さんは呆れたように訊いた。

「名無しさんちゃん、もしかして、昨日の”あれ”で避けてる?」
「他に何か……思い当たる理由、ありますか?」
「ないね」

 雑渡さんに背を向けたまま、急いで階段へ向かう。このまま引き離して編集部に逃げ込もう。
 そう思ったのも束の間、すぐに雑渡さんに追いつかれた。

「意識してもらえるのは大歓迎だよ」
「待つって言ったのに……距離を置いてもらわないと、困ります」

 からかうような雑渡さんの声に、強めの口調で返し、階段を上る。 少し遅れて上がってくる雑渡さんは、考えるような間の後で口を開いた。

「それはできないな。返事は待つと言ったが、君も、チャンスも逃がしたくない」
「私、本当に……」

 困るんです。
 消え入りそうな声で言うと、雑渡さんは溜息を吐いた。

 気を悪くしただろうか。
 不安になって思わず振り向くと、雑渡さんは困ったように眉根を寄せ、すぐに悪戯っぽく笑った。

「それなら、名無しさんちゃんから声を掛けてくれるまで、ただの営業部長でいるよ。ところで、今から陣左にコーヒー頼むけど、名無しさんちゃんもコーヒーでいい?」
「私は結構です」

 言いながら、明かりの漏れる営業部のドアに目をやった。ドアの向こうの気配はきっと、山本さんか高坂君だろう。
 通勤途中ならまだしも、既に出社している高坂君にわざわざ買いに行かせるのだろうか。そうでなくても、私がコーヒーなんて頼んだら、後から何を言われることか。

「遠慮しなくていいから」
「今は飲みたくないので……でも、ありがとうございます」

 コーヒー一杯のために雑渡さんとまた顔を合わせるのも、怒った高坂君と顔を合わせるのもごめんだ。
 気まずい思いをしなくてすむなら、インスタントで充分。

「じゃあ、また……朝礼で」

 会釈して立ち去ろうとした私を、雑渡さんが呼び止めた。

「名無しさんちゃん、さっき何を訊こうとした?」
「……え?」
「外で、車で来たかって訊いたけど、本当は違うよね。仕事のことなら君は素直に質問するだろうし、気を引きたいのかとも思ったけど、それも違う。結局、何が知りたい?」

 少し怒ったような声音でそう言って、雑渡さんは帽子を脱ぐ。
 そうだった。
 私は内心で焦りながら、鞄の持ち手を強く握った。
 この人は時に優しく甘やかしはするけれど、実際のところ甘くはない。苦笑混じりに「仕方ない」なんて言って、見逃してくれる半助君とは違う。

「知りたいのは、名無しさんちゃんをどのくらい好きか? どうして好きになったか? それとも、クリスマスの予定?」

 静かに首を横に振り続ける私を見て、雑渡さんはくつくつと笑う。

「気持ちが私に傾くのであれば、どうとでも答えるけどね。また何か訊きたくなったら、いつでもおいで」

 からかうような口調にほっとしながら頭を下げて、階段を駆け上がる。

「名無しさんちゃん」

 雑渡さんの声が、静かに響いた。

「待ってるから」

 階段を上りきって振り返ると、雑渡さんの姿はもうそこにはなかった。

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