3月

 年が明け、バレンタインが過ぎて、気が付けばもう3月。
 卒業シーズンだ。
 この頃、制服姿の女の子たちを見かける度に、土井先生のことを思い出す。

「先生は忙しくないんですか?」
 3月の予定を聞かれて、思わずそう返したのは、2月の初め。いつものコーヒーショップで。
「年度末だし」
 と付け足すと、土井先生は苦笑しながら、テーブルの上のコーヒーカップに手を伸ばした。
「忙しいけど、休日がないほどじゃない。追試は放課後だし」
 コーヒーを飲む土井先生を横目で見ながら、借りた本を鞄にしまい、代わりに手帳を取り出した。
「3月はまだ何の予定も入ってないです」
「じゃあ、一番乗りだな」
 先生の言葉に、小さく笑う。
「そうですね」

 土井先生が指定したのは、私の誕生日だった。
 もしかしたらお祝いしてくれるのかな。そう思ったけれど、先生はただ「デートしよう」と言っただけ。
 その日は誕生日です、とつい言いかけたけれど、覚えていてくれたわけではなかったら気まずいので、結局言葉にはしなかった。
 会えるだけでいいということに、今年はしておこうと思う。
 本当は少し期待しているけれど。

 さて、何を着ていこうかな。
 ベッドの上に投げ出した洋服たちを見比べる。
 日中の日差しは大分暖かくなってきたけれど、風はまだまだ冷たい。とはいえ、真冬の格好では暑いし、春の装いでは寒すぎる。
 きっと今日も、お昼を食べた後はいつものようにコーヒーを飲んだり、買い物をしたりするはずだ。夕飯も食べに行く予定だし、あまり薄着じゃない方がいいかな。
 防寒対策を重視しながら、いつもよりちょっとだけ気合いの入った服を選んだ。
「コート、どうしようかな」
 明るい色のスプリングコートを買ったのだけれど、出番はまだ早いだろうか。
 気温を確かめようと開けてみた窓から入ってきたのは、冬の空気だった。
 結局、いつものベージュのコートを着ていくことにした。

 待ち合わせの場所には、珍しく土井先生が先に着いていた。
 土井先生は授業には遅れないのに、私との待ち合わせには遅れてばかりだ。いつの間にかそんなことにもすっかり慣れて、私は時間の潰し方が上手くなってしまった。
 だから、こうして私を待っている土井先生の姿を見つけると、嬉しくなってしまう。
「土井先生」
 駆け寄る私に気が付くと、先生は微笑みながら手を挙げた。
「名無しさん」
 黒いコート姿の土井先生は、今日もかっこいい。
「行こうか」
 優しい笑みに向かって頷く。
 歩きだしながら、なんとなく目をやった先に、制服姿の女の子たちがいた。
 ピーコートの裾からのぞく、チェックのスカート。楽しそうな喋り声が、微かに届く距離。
「名無しさん、どうした?」
 土井先生に顔を覗き込まれて、慌てて首を振る。
「あの子たち、休日なのに制服だなぁって」
「ああ……部活かな」
「そっか。部活」
 呟きながら、抱きつくように土井先生に腕を絡めた。
 手を繋ぐのも、腕を組んで歩くのも、もう慣れたはずなのに、少し照れくさそうな土井先生の横顔を見上げていると、私も恥ずかしくなってしまう。
 付き合いだして、一年になるのに。

 土井先生が連れてきてくれたのは、落ち着いた雰囲気の小さなレストランだった。
 アンティークのような雰囲気の、ダークブラウンを基調とした店内は狭いながらもくつろげる雰囲気で、ほぼ満席だった。
 座れるのかな、と心配したのはほんの一瞬のことで、すんなり席に通された。
 土井先生は予約をしていたらしい。
 店の歴史を感じさせる趣のメニューを開く。ポタージュ、キッシュ、ミートパイ、パスタ。ちょっとした前菜に肉料理、魚料理、ランチ用のコース料理もある。飲み物もデザートも豊富で魅力的だけれど、どれも少々値段が高い。
 ランチプレートが無難に思えるけれど、それでもちょっと、私にとっては高い。
 払うよ、と土井先生はいつも言ってくれるのだけれど、大概は自分の分は自分で支払っている。先生の気持ちは嬉しいけれど、ご馳走になってばかりいるのも申し訳ないし、私だってバイトをしているのだから。そんなわけで、土井先生も考えてくれているようで、ご馳走になるにしろ自分で払うにしろ、私が負担に思わないようなお店を選んでくれている。
 今日はどうしたんだろう。
 でも、土井先生が折角連れて来てくれたんだし。
「名無しさん? どうかしたのか」
「えっ……」
「食欲ない?」
「いえ、そうじゃなくて」
 メニュー越しに店内を見渡して、お店の人が近くにいないことを確かめる。
「あの……ええと……お昼にしては、ちょっと高いお店だなぁって」
 こっそりそう言うと、土井先生はきょとんとした表情の後、合点がいったように頷いた。
「ああ。そうか、ごめん」
「いえ、私こそごめんなさい。実は今、あんまり手持ちがなくて……後でATMで……でも、その……大丈夫です、ごめんなさい」
 そんなつもりではなかったのだけれど、不満そうに聞こえてしまったかもしれない。焦って口をついて出た言い訳のせいで、顔が熱くなる。
「名無しさん、ここは私が払うから」
「あっ……ごめんなさい。お金、ちゃんとあります。注文しすぎたら足りなくなっちゃうかも、って焦っただけで……あるから大丈夫」
「いや、そうじゃなくて……名無しさん、今日が誕生日だろう」
「……はい……え?」
 首を傾げる。
「誕生日祝いに、今日の支払いは全部、私が持つから」
「え」
 もう一度、間抜けな声で呟くと、土井先生は苦笑した。
「初めからそのつもりだったんだが、言い忘れてた」
 ごめん、と土井先生が言うのを聞きながら、私は安堵の溜息を吐いた。
 本当に顔が熱い。真っ赤になっているのかもしれない、と思いながら手で顔を仰ぐ。
「いつも行くようなお店と全然違うから、びっくりしました。でも、覚えててくれたんですね、誕生日」
 土井先生は呆れたように目を見開いた。
「忘れるわけないだろう。去年は祝えなかったし……今年は去年の分もと思って、夜もちゃんとレストランを予約してある」
 今度は私が目を見開く番だった。
「えっ……私、服が」
「それで大丈夫だよ、それほど高い店でもないし」
 にこりと安心させるように微笑んで、土井先生はメニューに目を落とした。

 普段より可愛い服を選んだつもりだけれど、誕生日のディナーに行くにしては普段着っぽい。コートで分からなかったけれど、土井先生はそれなりの格好をしていた。
 誕生日を覚えていてくれたのは嬉しいけれど、こんなサプライズは心から喜べない。前日でいいから、教えてくれればよかったのに。
 注文を終え、内心不貞腐れながら水を飲んでいると、土井先生の視線が気になった。
 コースターの上にグラスを置く。
「何ですか?」
 僅かに険のある口調になってしまい、すぐに口を噤んだけれど、土井先生は全く気に掛けていないようだった。
「いや……名無しさんは指が細いなぁと思って」
「細くないですよ」
「細いよ。ほら」
 土井先生は笑って言いながら、手を差し出した。
「さすがに、土井先生よりは細いですけど。どうしたんですか、急に」
 右手を伸ばし、指先を重ねるように触れると、先生の手が私を捕まえた。
 土井先生の親指が、私の薬指のリングをなぞる。
 シルバーの華奢な指輪は、土井先生が去年プレゼントしてくれたものだ。
「名無しさん、誕生日おめでとう」
「ありがとうございます」
 優しい笑顔と誕生日を祝う言葉が、私の心の中を幸せで満たしていく。
 この人の恋人になれてよかった。そう思いながら、土井先生の手を握り返した。

 店を出ると、日差しとは裏腹に風は冷たかった。
「寒いな」
 土井先生の後ろで、こっそりお腹をさする。
 あの値段にふさわしい美味しさとボリュームで、ついつい食べ過ぎてしまった。
 ディナーはまた後日、と予定変更になった方が、お腹の空き具合にしても服装にしても都合がいいのに。
 そんなわけにいかないのは、重々分かっているけれど。
「名無しさん」
 少し遅れて歩いていると、土井先生が振り向いた。
「まだ怒ってるのか?」
 まだ、ってどういうことだろう。やっぱり気付いていたのかな。
 鞄を肩に掛け直す振りをして土井先生から視線を外し、口を開く。
「怒ってないです」
「じゃあ、どうしたんだ」
「お腹いっぱいなだけ」
 と、精一杯の笑顔で言ってみるも、土井先生は溜息を吐く。
「名無しさん」
 ああ、もう。
「だって……土井先生が今日のこと計画してくれてたの、嬉しいです。嬉しいけど、言ってくれれば、もっとましな服を着てきたのに!」
 せっかく誕生日に食事に行くのだから、服だってちゃんとしたい。これだってデート用のまともな服だけど、もっとちゃんとそれらしくお洒落したい。
「ましって……充分可愛いと思うが」
「もうっ! そうじゃないんです」
 嬉しいようで嬉しくない言葉に強い口調で返すと、土井先生は弱りきったような顔をした。
 どうして私の機嫌が悪くなったのか、いまひとつ伝わっていないのだろう。
「……すまん」
 本当に申し訳なさそうに言うと、土井先生は困ったように微笑んだ。
 それを見て、私は罪悪感で一杯になった。
 土井先生は私のために今日の計画を立ててくれたのに。お店を決めるのも、予約を入れるのも、手間と時間がかかる。ただでさえ、忙しいのに。
 服装のことで、あんな言い方をするべきじゃなかった。
「先生……」
 ごめんなさい、と私が口にするより早く、土井先生は明るい声音で言った。
「買いに行こう」
 先生が私の手を取って歩きだす。
「時間はまだまだあるし、服を見に行こう」
 手を引かれながら、いつもより少し早い歩調に合わせて足を動かす。
 口調からは分からないけれど、先生は怒っているのかもしれない。
 でも、見上げた横顔はいつもと同じ。優しくて凛々しい彼のままだった。

 「本でも見てきたらどうですか」と言ったのだけれど、私が服を選んでいる間、土井先生は側にいてくれた。試着室の前まで引っ張っていくと、さすがに照れくさそうにしていたけれど。
 一目惚れしたのは、春らしく柔らかい色のワンピースだ。ふわっとしているけど、シャツカラーがついていて甘すぎず、シンプルなデザインだ。値段も予算内に収まる。
 でももう一つ気になったのは、ビビッドなプリントが大人っぽい、ノースリーブのワンピース。デザインも大胆で、これが似合うのは大人の女性といった感じだ。
 土井先生にも店員さんにも、一着目は似合うと褒めてもらえた。
 普段だったら冒険はせずに買ってしまうのだけれど、今日は冒険してみたい。
 一つ年をとるのだし、大人っぽいワンピースを一枚持っているのもいいんじゃないかな。
 鏡の中の自分は大人の女性になったように見える。土井先生に釣り合うような自分に。
 どんな反応が返ってくるだろう。
 ドキドキしながら、試着室のカーテンを開けた。
 ぱっと私の方へ顔を向けた土井先生の視線が、上下する。
 こちらもお似合いですね、と言ってくれた店員さんに微笑んでから、土井先生に訊いてみた。
「どうですか?」
「悪くはないが、さっきの方がいいと思う」
 さらっとそう言って、土井先生は微苦笑する。
「そうですか?」
 スカートを持ち上げて見る。クローゼットには1枚もないような、派手なプリント。
 店員さんのフォローする言葉に適当に頷いて、カーテンを閉めた。
 すごく、がっかりした。
 大人っぽくて似合う、なんて言葉を期待していたのに。とんだ期待はずれだ。
 外に漏れないように静かに息を吐き、振り返って鏡を見ると、個性の強いワンピースに埋もれた私がいた。
 髪型や化粧を変えたらどうにかなるというレベルではなくて、まるで、憧れのランドセルを背負ってみた幼児みたいだった。
 大人の女性になれたと思ったのは錯覚で、ただ単にワンピースが大人っぽいだけだったのだ。
 そう、誕生日だからといって、特別な魔法がかかるわけではない。
 のそのそと、春色のワンピースに着替える。
 ファスナーを上げてもう一度鏡を覗くと、明るくて綺麗な春の色に包まれた、いつもの私がそこにいた。
 勢いよくカーテンを開いて、笑顔で言った。
「これ、着ていきます」

 レジの前で押し問答をした挙げ句、支払いをしたのは土井先生だった。
「誕生日プレゼントだから」
 そう言われてしまうと、頑なに断るのも悪い気がして甘えてしまった。
 申し訳ないと思いつつ、洋服のプレゼントなんて初めてで、嬉しくてたまらない。恋人に買ってもらったワンピースで食事に行くなんて、映画みたいだ。
 コートの裾と戯れるスカートを見ていると、思わず笑みがこぼれた。
「似合うよ」
 優しい声に顔を上げると、土井先生と目が合う。
「やっぱり、こっちの方が似合いますか?」
「そう思うが……向こうがよかった?」
 少し考えてから、首を横に振った。
 初めはそういう気持ちもあったけれど、今はそうは思わない。
「先生、ワンピースの違いなんて分からないかと思ってたから」
 冗談めかしてそう言うと、土井先生は笑った。
「それは分からないな。でも、名無しさんに似合うかどうかは分かる。こっちの方がいつもの名無しさんらしくて、私は好きだな」
「誕生日だし、たまには思い切って大人っぽいのもいいかなーって思ったんです」
「高校生みたいなことを言うんだな。酒も飲める年なのに」
「そうだけど、なかなか先生には追いつけないから」
 一瞬だけ、土井先生は戸惑ったような顔をした。
「追いつかれたら困る」
 間髪入れずに、次の言葉を口にする。
「靴は?」
「……靴はいいです」
 ワンピースにぴったりの靴、というわけではないけれど、おかしいというほどでもない。
「そう。しかし、荷物が増えたな」
 私の持つ紙袋を見て、土井先生はくすくすと笑う。
 中身は私がさっきまで着ていた服だ。先生が紙袋を持ってくれると言ったのだけれど、無性に恥ずかしくて断固拒否したという経緯がある。
「レストランに行く前に、コインロッカーに預けた方がいいかな?」
「大丈夫だよ、個室だから」
 私の手から紙袋を取り上げながら、土井先生は静かにそう言った。

 ディナーはお腹に入らないかもしれない、と思ったのは大間違いで、野菜中心のコース料理をぺろりと全部食べてしまった。
 スパークリングワインも美味しくて、飲み過ぎたかもしれない。何杯目か覚えていない。
 ふわふわと幸せな気分なのに、同時に寂しくてたまらない。それはお酒のせいなのか、美味しい料理のせいなのか、洋服のせいなのか、誕生日という日のせいなのか分からない。
 花火の消えたバースデーケーキを前に、私はなんだか不思議な気持ちになっていた。
「名無しさん、誕生日おめでとう」
 甘やかすような声で言いながら、土井先生が差し出したのは、白いリボンがついた濃紺の箱だった。
 これは何だろう。
 酔っぱらった頭でぼんやりと考えていると、どうやら顔にもそれは出ていたようで、土井先生が可笑しそうに笑った。
「プレゼントだよ」
 土井先生はプレゼントとしてワンピースを買ってくれたので、他にプレゼントを用意してくれているとは思わなかった。
「ほら、開けてみて」
 急に緊張して震える手で箱を開けると、きらきら輝く小さな花が入っていた。
 箱から取り出してみると、私の誕生花をあしらったブレスレットだった。大小の、花のチャーム。そして、細い鎖に繋がれた淡いブルーの石が、控えめにゆらゆらと揺れる。
「これ、アクアマリンですよね」
「うん……誕生石、それで合ってる?」
「はい」
 小さく、何度も頷く。
「つける?」
 私の返事を待たずに、土井先生は椅子から立ち上がっていた。
「貸して」
 ブレスレットを渡すと、先生は床に膝をついた。
 手首に触れる金属と石の冷たさと、土井先生の指先の温かさにドキドキする。
 長い指は、不慣れな様子でもどかしく留め金をとめた。
「土井先生」
「ん?」
 跪いたまま、土井先生は顔を上げる。
「あの日もこんな風に……ネックレス、つけてくれましたよね」
「あの日?」
 先生は眉間に皺を寄せた。
 覚えてないのかな、とがっかりしながら、それを表に出さないように努めて静かに言った。
「私が、先生に告白した日」
「あ、ああ……そういえば、そうだったな。そうか、あれから一年経ったのか」
 そう言い終えた土井先生は、何故か困ったように小さく笑った。
「どうして笑うんですか?」
「いや、さすがにあの時程はドキドキしないなぁと思って」
 言われてみれば、私もあの日ほどは緊張していない。先生に触れられることにも、慣れてしまったのだろう。
 きっともう、あんな風に胸が高鳴ることはない。今日ひとつ歳をとって、来年もまたひとつ。段々と遠ざかる。
 制服を着ていた、あの日々からも。
「先生……他の子のこと、好きになったりしないですよね?」
「……え?」
「卒業シーズンじゃないですか」
「それと今の話、何の関係があるんだ?」
 どうして、土井先生はこういうところだけ、ちょっと鈍いんだろう。
 私はここのところずっと考えていた。街で制服姿の女の子たちを見る度に、土井先生を思い出していた。学校で生徒に告白されてるんじゃないかと、不安だった。
 誕生日を迎えて、ひとつ歳をとるけれど、土井先生には追いつけない。大人にはなれなくて、先生と生徒にも戻れない。
 先生とは、ただの恋人同士。
「卒業する子たちに……告白……されてたりするんじゃないですか。土井先生に告白する生徒、絶対、毎年ひとりはいるでしょ……その中でちょっといいなって思う子がいたり……」
「しない」
 私の言葉を、強い口調で遮った。
「そんなこと思ったりするわけないだろう。私が好きなのは、名無しさんだけだ。そりゃあ確かに、告白されることもあるが……その気がないことと、付き合っている人がいることもちゃんと伝えてるから。生徒と付き合いたいと思ったことなんて、一度もないし。名無しさんが心配するようなことは何もない」
 土井先生は、俯いた私の顔を覗き込む。
「……どうして、誕生日にこんな話を?」
「誕生日が来たら、先生に釣り合うようになれるかなって思ってたんです。でも、何も変わらなくて……高校生だった頃は卒業して、二十歳を過ぎたらどんどん大人になるような気がしてたけど……歳だけとっていくのに私、先生に追いつけないから。いつか他の人……私より年下だけど土井先生とお似合いの大人な子に、とられちゃうんじゃないかって」
 つっかえながらも一気に喋って、火照る頬を両手で押さえた。
「……名無しさん」
「待って、先生。あの……私……酔ってるかも」
「多分、そうだろうな」
 まったく、と呆れたように言いながら、土井先生は立ち上がった。
「名無しさん。私だって、それほど大人じゃないんだぞ。分かるだろう?」
 ゆっくりと言い聞かせるような声に、首を横に振る。
「土井先生は、大人です」
 目を見ながら言うと、土井先生は否定も肯定もせずに、眉尻を僅かに下げた。

「もし、私が卒業の時に告白してたら、先生はどうしてました?」
 うーん、と唸ってから、土井先生は苦笑する。
「振ったんじゃないかな。一年前も、散々悩んだから」
「先生って、やっぱり真面目」
 からかうように言ってみると、土井先生の顔が近付いてくる。
「駄目か?」
 額と額がぶつかった、軽い衝撃に目を閉じる。
「ううん。好きです」
 いつもと同じキスの気配に、顔を上げた。
 どちらからともなく、啄むようなキスを繰り返す。
 私の髪や額に触れる土井先生の前髪も、息遣いも、頬や首筋に触れる手も、重なる唇も、全てが私を幸せにしてくれる。
 そう。去年よりもずっと幸せだ。積み重なった一年に、寂しいことなんて何もない。

「……名無しさん、ケーキを食べてしまおう」
「はい」
 乱れた前髪を直す腕にブレスレットが静かに揺れて、ようやく誕生日を迎えたという実感が湧いた。
「先生。今日は本当に、ありがとう。食事もプレゼントも全部、本当に嬉しいです」
 照れくさそうに微笑んで、土井先生はケーキを頬張った。
 私もフォークに手を伸ばしながら、図々しい質問を先生に投げかけてみた。
「次の誕生日も、お祝いしてくれますか?」
「勿論。来年はもっとうまくやるから、任せてくれ」
 優しい笑顔が、不意に真面目な顔つきになる。
「何年経っても、名無しさんの誕生日は絶対に忘れないから。来年もその先もずっと隣を歩きながら、二人でゆっくり年を重ねていこう」
 プロポーズのような言葉に動揺して、顔が熱くなるのを感じた。
 目が合った瞬間に「あっ」というような顔をしたので、土井先生も同じようなことを思ったはずだ。
 返す言葉も見つからなくて、泳ぎに泳いだ私の視線は、ケーキの上の苺で止まった。
 私の顔はこれと同じくらい、真っ赤になっているかもしれない。
 そう思いながら土井先生を盗み見ると、先生の顔も赤く染まっていた。