小さな窓から、空を見上げる。
梅雨の晴れ間を期待したけれど、今日は生憎の曇り空。すでに日が沈んでいるので、辺りはもう薄暗い。
「寒くないか?」
不意に隣から優しい声がして、運転席に顔を向けた。
「大丈夫です」
私がそう答えると、土井先生の横顔は柔らかく微笑む。
表の蒸し暑さから隔てられた車内は、少し冷たいエアコンの風が心地いい。
土井先生が運転する山田先生の車に乗るのは、これが五度目だ。梅雨入りした頃から、この車にはお世話になっている。その度に、土井先生がどんな理由を付けて車を借りているのかが気になるところだけれど、それはまだ訊けていない。
今日は何と言って借りてきたのだろう。
「降りそうですね」
「天気予報じゃ、晴れるって言ってたんだけどなぁ」
運転席で静かに唸る土井先生を盗み見る。いつもより、ちょっとだけお洒落。でも、髪は相変わらずだ。
そして私も普段よりは気合いを入れた格好だ。
だって、今日は誕生日だから。
「どこに連れていってくれるんですか?」
勇気を出してそう尋ねると、土井先生は小さく笑った。
「まだ内緒」
誕生日を祝ってもらえるとは思っていなかった。
7月が近づいても自分からその話題を出すのは気が引けたし、先生はそんなことに頓着しないだろうと考えていた。土井先生は優しいけれど、結構なずぼらだし、イベントに関してはあまりまめではなさそうに見える。だから、誕生日に期待するのはやめていた。
ところが、梅雨入りしたばかりのその日には、雨と一緒に幸運も降ってきていた。
私たちはファミレスで昼食をとっていた。すぐ近くのテーブルでは、賑やかな女の子たちが歓談していて、そこからよく通る声で聞こえてきたのは「誕生日おめでとう」という祝いの言葉だった。
そしてそれから数秒後、私は土井先生から思いがけない質問を受けた。
「苗字の誕生日、いつだっけ?」
私はハンバーグを切る手を止めて、ゆっくりと先生の問いに答えた。
「……7月です」
「そうか。7月なら、もうすぐだな。何日?」
私が誕生日を告げると、土井先生は一瞬考え込むような顔をしてから、すぐに笑顔になった。
「予定、空けておいてもらえるかな」
何の話か分からずに首を傾げた私に、土井先生は苦笑した。
「誕生日だよ」
「え?」
「だから、誕生日。名無しさんの誕生日の予定、空けておいてくれないか」
ぽかんと、という表現がぴったりな様子で自分が口を開けていることに気付いて、急いで口を閉じると土井先生の言葉の意味を考えた。
考えるような内容でもなかったのだけれど、驚きすぎて頭がついていけなかった。
「え……あ、誕生日ですか。えっと……私の?」
「うん。食事に行くのはどうかな。当日の都合が悪ければ、他の日に……ふたりで過ごそう」
「はい」
土井先生の優しい笑顔に、私の心拍数が上がった。
期待していなかったせいもあって、嬉しくてたまらなかった。少し前までは「賑やかすぎる」と思っていたテーブルの女の子たちに、お礼を言いに行きたい気分になっていたけれど、驚きも嬉しさも押し殺したまま平静を装って、ハンバーグを口に運んだ。
多分、私が動揺しているのは、土井先生にばれていたと思うけれども。
行きたい店はあるか、と後日尋ねられ、特に希望はなかったので全部先生に任せることにした。本当は先生が私のためにどんな店を選んでくれるのか気になる、という理由もあったのだけれど。
どんな誕生日になるだろう。
着いた先は、シックなレストランだった。私みたいな小娘は場違いなんじゃないかな、と思わされてしまうような雰囲気の店中を、ガチガチに緊張しながら案内されて進む。
できるだけ端のテーブルだといいな、なんて思っていると個室に案内されて、心底ほっとした。
「どうした?」
席に着いてから、もぞもぞと座り直すこと三回目。土井先生が心配そうな顔で私を見ている。
「ちょっと緊張しちゃって」
「大丈夫だよ、さっき名無しさんが見たよりはカジュアルな店だから。お客さんがいると、もっと賑やかで雰囲気違うんだけどなぁ……まだ夕食には少し早い時間だからな」
「……よく、来るんですか?」
何気ない単なる質問です、何も気にしてません。という風を装えていたか分からないけれど、そう見えるよう努めていった。
本当は前の彼女と来ていたんじゃないかな、と思った。
「一度だけ」
いつもより僅かに低い声のトーンと、言いづらそうな様子に、胸が苦しくなった。
やっぱり恋人と来たのかな。そう考えながら、膝の上に置いていた手をきつく握る。
「実は……野村先生に教えてもらって、今日の下見を兼ねて……ひとりで」
言い終えて、土井先生は恥ずかしそうに下を向いた。
一瞬で、私の頬も耳も、首すらも熱を持った。
勘違いが恥ずかしい、でも昔の恋人と来たわけじゃなくて安心した、それに下見をしてくれたなんてすごく嬉しいし、照れてる先生はなんだか可愛い、けれども、野村先生には何て言ったんだろう、この店でうっかり会っちゃったらどうするつもりなんだろう。頭の中を全てミキサーに入れてしまったように考えがごちゃ混ぜになる一歩手前で、食前酒が運ばれてきた。
程良く落とされた部屋の明かりが、細身のグラスに入ったカクテルの鮮やかなオレンジ色に深みを作る。幾つもの小さな泡が、グラスの底から浮かんでは消えていく。
ミモザ。初めて飲むこのカクテルが苦手な味だったらどうしようか、と心配しながら口を付けたけれど、すっきりとした飲み口とオレンジの香りが親しみやすい。
「土井先生のは何ですか?」
私のものとは違う脚のないグラスには、スライスされたレモンが沈んでいる。
「レモネードだよ」
「お酒じゃないんですか?」
と言うと、先生が苦笑した。
「車だから」
「あ……そっか。そうですよね……」
思い至らなかったことに恥入る。アルコールも手伝ってか、また頬が熱くなった。
「気にしなくていいから。こっちこそ、気を遣わせてごめん」
土井先生の言葉に、黙って首を横に振る。
どうすればいいのか分からなくなって、カクテルを一口飲んだ。
「美味しい?」
土井先生に見つめられていることに気付いて、戸惑いながら頷いた。
「美味しいです……顔、変ですか? もしかして、赤いですか?」
「違う違う」先生は困り顔で笑う。「苗字は高校生だったのに、いつの間にか酒の飲める年になっていて不思議だなぁ、と思って」
「そんなの……何年も経つんだから、当たり前じゃないですか。土井先生は、ずっと先生のままですね」
私が何気なく返した言葉に、土井先生は軽く眉根を寄せた。
「私は、あの頃と何も変わらない?」
「変わらないけど、違います」
先生じゃなくて彼氏だから、そう続けたかったけれど恥ずかしくなって下を向いた。
ふう、と土井先生が静かに息を吐いた。
「変わらない、か。それなら余計に、名無しさんがひとつ年を取るのがありがたいな」
「なんですか、それ」
「うーん……名無しさんが、ひとつ大人になると思うと安心するというか、同じ世界にいられる気がして嬉しいというか。誰かの誕生日にほっとするのは初めてだ」
先生の言う意味を考えながら、グラスを持つ彼の手を眺めていた。
「私、そんなに子供に見えてるんですか?」
「いや、ちゃんと大人の女性だと思ってる」
言って、土井先生は照れたように目を逸らした。それを見て、私も気恥ずかしくなる。
「先生にとっては、私は年を取った方がいいってことですか? なんか、やだなぁ」
早口で誤魔化すように言うと、先生は笑った。
「いいじゃないか。一緒に年を取っていくんだから」
いつもと同じ優しい声と笑顔からの言葉は、ゆっくりと私の中に染み込んでいく。
初めて一緒に過ごす誕生日。
私が生まれたときには、土井先生はすでにこの世界に存在していて、私と付き合うまでの20年以上の間、今日はきっと先生にとっては何でもない日だったはずだ。
それが今は、少しだけ特別な日になっているはず。恋人の誕生日として。
毎日が誰かの誕生日なのだと思うと、とても不思議な気持ちになる。毎日が誰かの、そしてその人を大切に思う人にとっての特別な1日。
その1日を、土井先生と過ごすことができて嬉しい。
少し酔ってしまった。
渋みの強い赤ワインは、料理と一緒だととても美味しくて、勧められるまま飲んでしまったのだった。
酔ったといっても、デザートプレートに書かれた「Happy Birthday」の文字に、暫く気がつかない程度だ。二種類のジェラートも、ティラミスも、可愛い蝋燭が立てられたフルーツたっぷりのケーキもぺろりと食べて、気分が悪くなるどころか幸せいっぱい。
ふわふわした気分でレストランを出て、車に乗り込んでからずっと、ハンドルを握る土井先生をぼんやりと見つめている。
「今度、飲みに行こうか」
土井先生の突然の言葉に、どきり、とした。
「どうしたんですか、急に」
うん、と土井先生は静かに言って小さく笑う。
「一緒に飲めなかったから。レストランまではバスでもタクシーでもよかったんだけど、今日は予報通りなら晴れだったから」
私が首を傾げるのと同時に、次の言葉が降ってきた。
「星を見に行こうかと思って」
星。思わずそう呟いて、空を見た。
「でも……雨は降ってないけど、薄曇りですよ」
「だから、予定変更。夜景を見に行こう」
なるほど。心の中でそう独り言ち、助手席のシートに体を沈める。
私の送り迎えをしてくれる為だけでなく、食事の後の予定にも車が必要だったとは思いもしなかった。土井先生がしっかりと計画を立ててくれていたことに感動しながらも、本当は一つだけ残念に思ってることがあった。
これだけしてもらっておいて不満を持つなんて、贅沢で我が儘で、嫌な女だけれど、どうしても思ってしまう。プレゼントが欲しかったな、と。
誕生日を祝ってもらうことなど期待しないはずだったのに、いざ祝ってもらえることになったらプレゼントまで期待していた自分の欲深さに驚いてしまう。
私の苦笑混じりのため息を合図にするかのように、車が止まった。
信号で足止めを食らったのかと思ったが、そうではなかった。
「着いた」
と、土井先生が言った。
右から左に、ぐるりと辺りを見る。ここは駐車スペースのようだけれど、他に車は停まっていない。
外は暗く、鬱蒼としている。高台というよりは山だろうか。
「ここ……?」
「夜景が見えるのは後ろだよ。まだ酔ってるのか?」
からかうように顔を覗き込まれ、逃げるように車を降りた。ドアを閉めて振り向くと、そちら側は確かに空が明るい。
もわっとした湿気っぽい空気が、エアコンで冷えた肌にまとわりつく。夜だからなのか、山だからなのか、思ったよりも暑くはなかった。
車から離れて歩いていると、駆け寄る足音が聞こえた。
「こら」
腕を掴まれた。
「暗いんだから、ひとりで歩くな。危ない」
私に反論する間を与えずに、土井先生は私の手を引いて歩く。黙ってついて行くと、白いフェンスの先には夜景が広がっていた。
「わぁ、すごい」
「ちょっと霞がかかってるな」
言われてみれば、遠くの方はぼんやりとしていた。それでも十分に見応えのある景色だ。
風が木々を揺らす音を聞きながら、キラキラ輝く夜景を眺めていると、胸が一杯になる。
今日は最高の誕生日だった。そう言ったら、先生は喜んでくれるだろうか。
どうやって切り出そうかと迷っていると、土井先生がわざとらしく咳払いをした。
先生の方へ顔を向けると、白いリボンがついた濃紺の小箱が目の前に差し出された。
「食事の時に渡してもよかったんだけど……タイミングを逃したから、ここで」
一気に、酔いが醒めた。
「プレゼントを用意してないと思った?」
きっと、私の表情から察したのだろう。先生は可笑しそうに笑っている。すっかり返事に困った私は、唇を歪めるように微苦笑したけれど、すぐに諦めて小さく頷いた。
受け取った小箱はとても軽い。何が入っているのだろう、とドキドキしながら口を開く。
「開けてもいいですか?」
「もちろん」
蓋を開けると、赤いハートがひとつ。暗い中でも、それが誕生石のルビーだとすぐに分かった。
小さなハートシェイプのペンダントトップが、華奢なゴールドのチェーンに揺れる。程良い甘さを含んだ可愛らしさがあるのに、全体的なデザインはすっきりとしていて大人っぽい。
私が、ほうっ、と息を吐くと、土井先生の声が静かに響いた。
「黙り込まれると怖いな」
「だって……見とれちゃって」
ネックレスを箱から取り出すと、土井先生の指先がそれを絡め取る。それにつられて顔を上げると、優しい瞳と目が合った。
「おいで」
少し低い声にドキドキしながら、一歩前に踏み出す。
土井先生の長い腕が伸びてきて、手は私の首の後ろに回る。緊張しながら、先生の邪魔にならないように髪をそっとよけると、肌と肌とが触れた。
熱いくらいに思える体温に、私は思わず身体を強ばらせた。それとほぼ同時に土井先生の指先の動きは止まり、私の首には極々僅かな重さが加わった。
土井先生は一歩後ろに下がると、まっすぐに私を見た。
「綺麗だよ」
普段と同じ柔らかい声音の中に、いつもとは違う真摯な響きがあり、私の心臓が大きく跳ねた。
「に……似合ってますか?」
私が上擦った声を出すと、先生はいつもと同じ調子で小さく笑った。
「似合わなきゃ困る……買うの大変だったんだぞ、何がいいか散々悩んで、店もよく分からないし。なにより気に入ってくれるか不安で……」
そこまで言うと、「喋り過ぎた」というような様子で土井先生は口元を押さえた。
土井先生ってば可愛い。可愛い、可愛い、可愛い。と考えている自分に気付いた。まだ酔っているのかもしれない。頬も熱い。
酔ってることにしてしまおう。そうすれば、いつもより少しだけ素直になれる。
「毎日つけます」
「毎日はいいよ」
照れくさそうに言いながら、土井先生は街の灯りの方へと体を向けた。
私も、眩しいくらいの夜景を見る。
「すっごく気に入りました。とっても嬉しいです」
「それならよかった」
「ありがとうございます」
どういたしまして、と先生が言って、私たちは暫くの間、黙って夜景を眺めていた。
目の前の景色から不意に視線を逸らしたとき、視界の端に何かが見えた。
「先生、何かついてますよ」
「ん? どこ?」
土井先生の腰の辺りについたそれを手に取るのは躊躇われて、私はおずおずと指さした。
先生は困惑顔で身を捩ると、それを指先で摘んだ。
「……笹の葉、ですか?」
「ああ……車でついたんじゃないかな。山田先生がクラスで七夕飾りを作るって仰られていたから、笹を車に積んだんだろう」
言いながら、土井先生が笹の葉をポケットに入れたのを見て、私は驚いてしまった。
葉っぱもゴミなんだろうか。まぁ、山だから葉っぱは自然に還るだろうけど、ゴミはゴミだよね。でも捨てちゃう人の方が多いんじゃないかな、私は笹の葉ならゴミを捨てているとも思わずに捨てちゃうだろうな。土井先生って真面目。なんてことを考えていると、土井先生が口を開いた。
「いや……葉も、捨てたらゴミになるかと思って……なんとなく」
自分の考えが顔に出ていたことよりも、照れくさそうに言う土井先生が可愛いさが勝って、つい笑ってしまった。
「笑うことないだろう」
「だって……」
可愛いから、とは言えない。
土井先生のこういうところも、大好きです。とも言えずに、話題を少し変えてみた。
「七夕……先生は短冊書きました?」
「いや。名無しさんは?」
「書いてないです。というか、短冊なんてもう何年も書いてないです」
スーパーなどで七夕飾りや短冊が用意されているのを見かけたりはするけれど、書こうという気になったことはなかった。
「願い事はないのか?」
「うーん、あるような、ないような。テスト勉強しなくてもいい点取れますように、とか……痩せたいとか。そのくらいかなぁ。先生は何かありますか?」
「あるよ」
その答えが意外で、間髪入れずに訊いた。
「何ですか?」
「来年もこうして、名無しさんの誕生日を一緒に過ごしたい。その次の年も、できればずっと。叶うかな?」
最後の方はからかうような響きで言われて、私は口ごもる。
「でも……土井先生……短冊、書いてないんでしょう?」
さっきは可愛いと思ったけれど、土井先生には到底勝てそうにない。
「知らないのか? 8月に七夕をやる地域もあるんだぞ。だから、今月中に書けば間に合う」
笑いながらそう言う土井先生に引き寄せられるまま、彼の胸に頬を寄せた。薄いシャツ越しに、先生の体温を感じる。少し早い鼓動は、私と同じ。
「でも、自分で叶える努力をしないとな」
髪を撫でられる感触に、うっとりと目を閉じた。
「誕生日おめでとう、名無しさん」
土井先生に抱きしめられていると、幸福がキラキラと私の上に降っているような気がした。天の川にも、夜景にも、ケーキの上の蝋燭にも、そして、首元の小さな宝石にも負けない輝きで。