「誰に電話するの?」
見慣れた背中にそう問いかけると、夫はすぐに振り向いた。
「名無しさん……」
「バスが遅れちゃったの」
そう言うと、半助さんは安心したように微笑みながら携帯をしまった。
ポップコーンの甘い香りが漂う薄暗い通路で、近々封切られる映画のパネルが煌々と輝いている。
夫がチケット売場でも、ショッピングモールから上がってくるエスカレーター前でもなく、駐車場への通路にいることは、ここへ来る前からなんとなく分かっていた。
なんとなく分かってしまうのだ。
半助さんのすぐ隣で足を止めると、彼は申し訳なさそうに口を開いた。
「昨日はごめん」
喧嘩の後で半助さんが先に謝るのは、久しぶりのような気がする。
土井名無しさんになってすぐの頃、大喧嘩をした。原因はとても下らないことだったのに、謝るタイミングがどうしても掴めなかった私は、気まずくて寝室に入れずに、リビングのソファーで寝てしまい、風邪をひいた。そして謝るより先に、半助さんに怒られてしまった。
その次の大喧嘩では、私の入浴中に半助さんが寝具をソファーに運んでいた。浴室から出て、ソファーで眠っている夫を見て益々腹が立った。けれども同時に、謝ればよかったとも思った。
いつもより広いベッドで、ひとり浅い眠りから目覚める度に、寂しくてたまらなかった。彼を起こして一言謝り、寝室に引っ張ってくればいい。寝返りを打つ度にそう思ったけれど、そうすることはとても難しかった。
結局、謝ることができたのは、朝食の席に着いた時だった。
それ以来、遅くとも翌朝には私から謝ることに決めている。勿論、半助さんに明らかな非がある場合は別だけれど。
今は喧嘩をしても同じベッドで眠る。少し気まずくとも、それは翌朝までのことだから。
申し訳なさそうな笑顔での半助さんからの朝の挨拶に、私も挨拶を返し、それに謝罪の言葉を添える。大概はそれで終わりだ。
今朝は慌ただしく、謝る暇もないまま彼を送り出してしまった。
「私もごめんなさい」
「よかった。名無しさんはまだ怒っているのかと思った」
やはり朝に謝らなかったからだろうか。とはいえ、喧嘩の原因は大したことではない。
「もう怒ってないから。来たでしょ、待ち合わせに」
「メールに返事をくれなかったじゃないか。それに……」
「それに?」
「怒っていても来るだろう、君はそういう人だから」
そうかな、と答えて笑う。私からすれば、そういう人なのは半助さんの方に思える。
「それより、半助さんのメールより先にきりちゃんから電話が来たから、何の話か分からなくてびっくりしちゃったじゃない。早くメールしてくれればよかったのに」
「すまん。子守を確保してから誘った方がいいと思って、まずはきり丸に連絡したんだが、あいつと話していたらあっと言う間に昼休みが終わってしまって……子供達は?」
「大喜び。大好きなお兄ちゃんと遊べるんだもの」
「そうか」
ほっとした様子で半助さんは息を吐く。
仲直りのデートをしよう、というメールを彼が打ったのは、恐らく5時限目が終わってからだろう。
きりちゃんからの電話で、大体の話は聞いていたけれど、少し驚いた。
喧嘩の後に、半助さんが思い出したように買ってくるのは花やドーナツ、ケーキやアイスクリームだったりもする。新婚の頃は仲直りのデートをすることもあったけれど、ここ数年はなかった。 急にどうしたのだろう。
戸惑いと嬉しさに、少しだけ疑念も混じった。そのせいか、なんとなく意地悪をしたくなって、待ち合わせ場所と時間の書かれたメールに返事をせずにいた。
しかし、子守をキャンセルされた、という連絡がきりちゃんから半助さんにいかなければ、私が待ち合わせ場所に現れることくらい彼は分かっていただろう。
「チケット、買いに行こう」
夫を見上げながらの私の言葉は、薄暗い通路に静かに響いた。
「もう買ってある。まだ時間があるから、何か食べよう。お腹空いてる?」
「うん……何を観るの?」
財布から取り出して見せてくれたチケットは、封切りされたばかりの洋画だった。しかもそれは恋愛もので、巷では話題になっているものの、到底、半助さんの好みではなさそうな作品だ。
珍しい、と思っていると、半助さんは私の考えを見透かしたように小さく笑った。
「名無しさん、この間、観たいって言ってただろう?」
肯定も否定もせず、一人で納得しながら彼に腕を絡めた。
そう、確かに言った。
言ったけれども、レンタルが始まったら借りようかな、という程度の「観たい」だった。それでも、私が何気なく口にしたことを、こうして覚えていてくれたことはとても嬉しい。
ついさっき、ほんの少しだけ重い気持ちで通ったチケット売場は混み始めていた。友達連れや、初々しい男女を横目で見ながら、売場の向こう側にあるエスカレーターを目指して歩く。
「初めてね、映画を観るの」
「そんなことないだろう」
「映画館で、ってこと」
半助さんはものすごく不安そうな顔をした。私が惚けたとでも思ったのかもしれない。
私は溜息を吐いた。
「あのね、子供達を連れて子供向けアニメを観に来たのはカウントしないの」
「ああ……いや、それでも2回目だよ」
「そう?」
思わず眉間に皺を寄せながら言うと、半助さんは呆れたように笑う。
「観ただろう。付き合い始めの、最初のデートで」
「あ……そっか」
「覚えてないなんて、酷いなぁ」
からかうように言われて、頬が少し熱くなった。
「だって、あの日は他のことの印象が強くて。それに緊張して、映画の内容なんて殆ど覚えてないし」
私が覚えているのは、左隣に座る半助さんが身じろぎする度にどぎまぎして、ラブシーンではひたすら気まずくて居たたまれなく、エンドロールが流れてようやくほっとしたことくらいだ。スクリーンよりも左半身に全神経を集中させていた為、映画のことなど何も覚えてない。
一応は、あれも話題作だったはずだが、私にとっては思い出の一本というよりも、気恥ずかしくて思い出したくない一本になってしまっている。
「あの映画、後でレンタルして観たよ」
「本当? 気に入ったの?」
「いや、名無しさんに話をふられたら困ると思って。私もあの日は緊張していたから……内容なんてろくに覚えていなかったんだ」
「とてもそうは思えなかったけど。でも、隣に人がいると集中できないよね。知らない人ならまだいいんだけど」
「ああ、分かる」
「ふたりきりで映画館に来るの、2回目かぁ……観るとしてもレンタルだったもんね」
「また、ふたりで来ようか……っていうのは、観た後に言うべきか。好みも違うしなぁ」
そう言って、半助さんが小さく唸る。
「来たいな。他の人と来たいとも思わないし」
くすり、と笑って、私は独り言のように言った。
これから、私の日記には映画のタイトルが増えていくかもしれない。
実は、喧嘩の記録を付けているのだ。
特に意味はなく、なんとなく始めたことだった。けれども喧嘩の数は仲直りの数で、日記に付けたそれが柱に付けた背比べの傷のように思えることがある。時たま見返して、ちゃんと続いているのだと実感するための傷。
「映画、面白いといいな」
優しい声に引き戻されて、顔を上げた。
半助さんの横顔は変わらないようでいて、やはり少し老けた。でも、それすらも素敵に見える。
「面白くなかったら、次回に期待かな。次も半助さんが決めてね」
プレッシャーだな、と言いながら半助さんが差し出した手に、お揃いの銀色の指輪が鈍く光った。その手を頼りに、エスカレーターのステップに足を乗せる。
ショッピングモールの照明の眩しさに目を細めていると、一段前にいる半助さんの上着の肩に白い汚れを見つけた。
汚れを指先で払うと、夫は振り向いた。
「ん?」
「チョークの粉」
「付いてたか? ありがとう」
すぐ汚すんだから。普段と同じ口調でそう言いたくなったけれど、小言はぐっと飲み込んだ。
仲直りのデートなのだから、昔に戻るのも悪くない。
「どういたしまして、土井先生」
懐かしい響きに夫は少し目を見開いたけれど、彼がすぐに浮かべた照れくさそうな笑顔は、昔とちっとも変わらない。
まだ人気のない早朝の校舎、眠気に耐えて受けた授業、窓から見えた景色、板書する先生の後ろ姿。それらはまるで乗りそこねた電車のように、私を置いてあっと言う間に遠ざかっていく。
でも、ここに取り残されているのは私だけではないはずだ。
その証拠に、半助さんは懐かしむように口を開いた。
「考えてみると、短かったな……名無しさんの先生だった期間」
「どういう意味?」
「他の生徒にとっては、ずっとただの先生と生徒じゃないか。恋人も妻も、子供たちの母親も……昨日みたいに喧嘩ができるのも、名無しさんだけだから」
「これからも?」
「これからも、ずっと」
極当たり前のことを言っただけだ、という風に半助さんは笑った。
エスカレーターを降りて、うどん屋に向かう。
夫より少しだけ遅れて歩いていると、何故だか付き合っていた頃を思い出す。あの頃は想像もしなかった、想像以上の日々を過ごしている。
良いことばかりではないけれど、それでも半助さんといられる毎日は幸せだ。
「名無しさん?」
心配そうに名前を呼ばれてしまったので、何でもないと首を横に振り、彼の隣に並んだ。
「映画、すごく楽しみになってきちゃった」
「そんなにか?」
「うん」
仲直りに映画館デートも悪くない。小さな喧嘩の度にデートはしていられないから、映画館に来るのは半年に一度くらいになるだろうか。
子供達が大きくなったらもっと頻繁に、喧嘩はせずにただのデートとして来られたらいい。仲直りという口実がある方が、機会は増えるはずだけれど。
「ねぇ、半助さん」
「どうした?」
「他の人と、映画に行かないでね」
隣にいるのも、喧嘩をするのも、私だけにしてね。心の中でそっと付け足した。
「行くわけないだろう」
少し不思議そうに、私の土井先生は優しく言った。