あなたと見る夢

 結婚式を明日に控えても、彼女が妻になるという実感は湧かないでいる。
 マリッジブルーとは呼べない気持ちを抱えながら、窓辺で読みもしない本を開いている。
「半助くん」
 呼ばれて顔を上げると、愁いを帯びた表情をした名無しさんがいた。
「どうした?」
「本当に……いいのかな」
 ぺたん、と彼女は私の隣に腰を下ろした。
 彼女が言葉を発する前に、結婚について何か言いたいのだということは分かっていた。
「嫌なら、やめてもいいよ」
 私は努めて優しく言いながら、静かに本を閉じた。
 首を横に振る名無しさんの髪が陽光に透ける。
 その髪を撫でて彼女を抱きしめたい思いに駆られるが、呼吸一つでそれを押し留める。
「半助くん」
「はい」
「わたしとの結婚を決めてくれて、ありがとう」
 名無しさんはそう言って小さく息をつくと、卑下するかのような笑みを浮かべた。
「半助くんなら、わたしなんかより素敵な人と出会えるはずなのに」
「礼を言われるようなことじゃないよ……仕事ばかりで結婚なんて考えていなかったし」
 君が好きだったんだ、という言葉を飲み込む。
「名無しさんこそ、本当にいいのか? まだ引き返せる……幸せになるために、他の道も幾らでもあるんだから」
 名無しさんは首を横に振ると、形ばかりの婚約指輪に触れた。
「幸せに、なれると思う」
 言い終えて、満面の笑みを私に向けた。
 君の笑顔を守りたいと言ったなら、名無しさんは何と言うだろう。
 何でもすると誓った。彼女の望むことは全て。否、彼女が自ら望まなくとも、その笑顔が見られるならどんなことも厭わない。名無しさんを幸せにするためになら、今持つ全てを捨てても構わない。
 そんな本心をひた隠しにしているのは、私たちは決して好き合って結婚するわけではないからだ。

 プロポーズは雨の日だった。
 薄暗い部屋の中、名無しさんは泣いていた。
 幼い頃から親類の家に厄介になっていることも、そこでうまくいっていないことも知っていた。それでもいつも明るく気丈に振る舞う彼女を尊敬し、いつしか惹かれていた。
 彼女にとって私は単なる友人の一人であることは重々承知のうえだった。
 その日彼女が私の部屋にいたのは、偶然が重なってのことで、初めから私を頼ってきたわけではなかった。私は彼女の話を聞いて、ただ励ましてやりたいと思ったのだが、彼女の涙を見ているうちに色々な感情がない交ぜになっていた。
 そして口をついて出たのが、それだった。
「私と結婚しないか?」
 見開かれた目には驚きの色が浮かんでいたが、それでも彼女は真っ直ぐに私を見ていた。
「形だけの夫婦で構わないから……」
 あの家から自由になることができるだとか、守ることができるだとかの尤もらしい理由を並べた。彼女が望めばすぐに離婚に応じることも、他の男を好きになることも自由だとも。本当に結婚しなくとも構わない、ということも。
 私が名無しさんを好きだということ以外は、考えていることを粗方話しただろう。
 当然、拒まれると思っていた。
 名無しさんは大きな涙を一粒こぼすと、ゆっくりと口を開いた。
「半助くんがいいなら……わたし、半助くんと結婚したい」
 夢のようだった。
 たとえ形だけでも彼女と夫婦になれる。彼女を守る権利が持てるようで、嬉しくてたまらなかった。
 窓の外で強まる雨足とは対照的に、私の心は晴れやかだった。
 けれどもその日から、酷く狡いことをしている気がしてならない。名無しさんを騙しているような気分でいる。

 暖かな日差しを浴びて、名無しさんは窓越しに空を見上げた。
「あの日、夢みたいで……すごく嬉しかった」
 呟くように言うと、穏やかな表情を私に向けた。
「あの日?」
「半助くんが、結婚しようって言ってくれた日」
 同じ出来事を思い返していたとは露ほども思わず、驚きで言葉が出てこなかった。
 嬉しかったな、とそよ風のように名無しさんは言った。
「新しい人生が始まるんだって思えたから」
 あなたと、と彼女は静かに付け足すと、慌てたように立ち上がった。
「お茶でも淹れるね」
「ああ」
 キッチンへ向かう彼女の後ろ姿を眺める私の心臓は、早鐘のように打っていた。
 やはり名無しさんと夫婦になるという実感は、微塵も湧かない。彼女と私は恋人ですらない。一方通行の想いを隠したまま、意味のない指輪と書類の上で繋がるだけだ。
 それでもいつか、ふたりで同じ夢が見られるかもしれないなどと、淡い期待を抱くのは愚かだろうか。