君は誰のもの?

「何でそんなこと言うの?」
 名無しさんは半助を睨むように見た。
「何でって……注意をしただけだろう」
「だから、どうしてそんなことを言うの? あの人はとってもいい人なのに」
「下心があるからだ」
 半助が鋭い口調で言うと、名無しさんは暫し口を噤んだ。
 理解したか、と半助が安堵しかけたとき、名無しさんは足を止めた。そして、ふくれっ面のまま不機嫌そうに口を開いた。
「親切なだけよ。彼のこと、よく知らないでしょ」
 その男のことは知らないが、男という生き物のことはよく知っている。
 半助の存在を知りながら名無しさんに馴れ馴れしい態度を取る男など、どうせ碌でもない奴に決まっている。自分がいない間にそんな男が名無しさんの周りをうろついているのかと思うと、腹が立って仕方がなかった。「分かってないのは名無しさんだ……とにかく、もう二度とふたりきりでは会うな」
「どうして勝手に決めるのっ!」
「気に入らないからだ!」
 名無しさんにつられて、半助はうっかり怒鳴り返してしまった。
 しまった、と思い、取り繕うより先に名無しさんの声が響いた。
「分からず屋っ!」
「名無しさんっ!」
 呼び止めはしたが、半助は彼女を追おうとはしなかった。互いに少し頭を冷やした方がいいと思ったのだった。

 名無しさんは大荷物を抱えて通りを歩いていた。
 市場を覗くと野菜が普段より安く売っていたので、苛立ち紛れに大量に買ってしまったのだった。
 いい買い物をしたと、ほくほくしていたのも束の間のことだった。段々と頭が冷えてきて、大量の野菜も半助との喧嘩も後悔していた。
「名無しさんちゃん、どうしたの?」
 ぎくり、と名無しさんは立ち止まった。
 声を掛けてきたのが、喧嘩の原因となった男だったからだ。
「すごい荷物だね。家まで持ってあげるよ」
 男は名無しさんに有無を言わせる間も与えずに、彼女の手から荷物を取った。
 名無しさんは男に軽く頭を下げた。
「……ありがとう」
「なんだか暗いけど、何かあった?」
「ちょっとね……喧嘩しちゃって」
 歩きながら、名無しさんは半助との喧嘩を掻い摘んで話した。さすがに当人に喧嘩の原因を告げることはできない。
 ふーん、と男は無関心な様子で相槌を打った。
 自分と半助の痴話喧嘩など、男にとっては興味のないことだろう。名無しさんが話したことを申し訳なく思っていると、男が不意に立ち止まった。
「そんな奴に、よく愛想尽かさないね。別れたら?」
「え?」
 名無しさんが驚いて男を見上げると、彼はいつもと雰囲気が違っているように思えた。
 そしてもう一つ気が付いたのは、ここは家への道ではないということだった。名無しさんはすっかり話に夢中になっており、男が進む方へとただ付いて歩いていた。
 道を間違えたのだろうか、と考えて慌てて周りを見渡す。左右に塀があり、人の気配は全くない。
 戻ろう、と名無しさんが言うのを遮るように、男は口を開いた。
「名無しさんちゃん、いつも一人じゃないか。そいつ、仕事ばかりでろくに構ってくれないんだろ?」
「そ、そんなこと……ないよ」
 時たま、この男に半助に対する不満をこぼしていたことを名無しさんは思い出した。それは単なる愚痴であり、本気でそう思っていたわけではないのだが、男はそうは考えていないようだった。
「名無しさんちゃんを蔑ろにするような奴、捨てちゃいなよ。俺だったらいつも名無しさんちゃんの側にいられるし、絶対大事にするから」
「待って、何の話か……そ、それより道が違うみたいだよ……戻ろう?」
 何の話をしているかなど分かっていたが、はぐらかしたいが為にわざとそう言った。
 しかし、名無しさんの目論見通りにはいかなかった。
「名無しさんちゃんのこと、好きなんだ。俺のものになってよ」
「わ、私は……」
 名無しさんの背中を冷や汗が流れた。
 男が持っていた荷物をその場に放った。
 野菜が、などと思っている暇はなく、近付いてきた男の手が名無しさんの手首を掴む。
「離して!」
「どうして?」
 男はにやにやと笑った。
 目の前の男の表情は、これまでずっと自分に親切にしてくれていた人間と同一人物だとは思えなかった。
 半助の言うことを聞いておけばよかった。
 後悔しても遅いということを、きつく締め上げられた手首の痛みが物語っている。逃げようにも恐怖で体が殆ど動かない。
 それでも名無しさんは男から逃れようと、じりじりと後ずさったが、すぐに背が塀に触れて、いつの間にか追いつめられていたことに気が付いた。
 自分との距離を詰めてくる男を押し退けようとした手も容易に動きを封じられ、壁に磔にされる格好になる。
「名無しさんちゃんの男はさぁ」
 男が日差しを遮って、名無しさんの顔に影を落とした。
「喧嘩したって、追いかけてこないんだろ。だったら名無しさんちゃんは、もう俺のものだよ」
 男の顔が間近に迫る。名無しさんは体を強ばらせ、ぎゅっと目を閉じた。
 もう駄目だ、と思った。
 しかし、突然名無しさんの両手が自由になり、くぐもった声が聞こえた。
 名無しさんが恐る恐る目を開けると、倒れた男の傍らに半助が立っていた。
 名無しさんはその場にヘたり込んだ。
 男は倒れたまま、ぴくりとも動かない。頭には沢山の瘤ができているようだった。
「……し、死んでるの?」
「殺すわけないだろう」
 怒気を含みながらも呆れたような声で半助は言うと、名無しさんの許へと歩み寄る。
「怪我はないか?」
 名無しさんは黙って頷いたが、半助は彼女の赤くなった手首を見て顔をしかめる。名無しさんを抱き起こす手は優しいが、半助が怒っているのは一目瞭然だった。
「……だから言っただろうが」
「だって……」
「だって、じゃない」
 ぴしゃり、と半助が言って、名無しさんは再び黙り込む。
 半助が拾い上げた荷物の土埃を払うのを、名無しさんはぼろぼろと涙をこぼしながら見ていた。
「私がおまえを泣かせたと思われるじゃないか」
 困ったように半助は言って、ぐい、と親指の腹で彼女の涙を拭った。
「……ごめんなさい」
「まぁ、その方がいいか」
 半助は苦笑混じりにそう言いながら、名無しさんを抱き寄せた。
「あんな男に泣かされるよりは、私がおまえを泣かせる方がましだ」
 どうして、と名無しさんが嗚咽混じりに問うと、半助は小さく笑った。
「だって、名無しさんは私のものだろう?」