5月のイチゴ

 まだ5月だというのに、今日は妙に蒸し暑い。
 外での用事を済ませて学校へと戻る道すがら、何か飲もうと考えて、私は自販機の前で足を止めた。
 財布から硬貨を取り出したのと同時に、後ろから声がした。
「土井くん?」
 声の主に心当たりはなく、眉根を寄せながら振り返った。
 しかし、次の瞬間には懐かしさがこみ上げていた。
「え? ……苗字?」
「よかった、やっぱり土井くんだった! 久しぶりー! 凄い偶然」
 彼女の笑顔は明るく、高校時代と変わらないものだった。
 苗字とは、2年間同じクラスだった。
 私は彼女のことが好きだったが、全くの片思いで、彼女自身もそのことを知らない。私だけの秘密だ。
「土井くん、今はどうしてるの?」
「教師をしているよ」
「そうなんだ、すごいねー先生かぁ」
「べつに、すごくはないよ」
「そう? わたしは人に教えるのって苦手だから、尊敬するけどなぁ」
 くるくると苗字の表情が変わる。
 これまでに開かれた同窓会に、私は二度とも出席していないので、苗字には卒業式以来会っていなかった。
「苗字は、今は何を?」
「わたしは事務のパート。引っ越すから、今月いっぱいで辞めちゃうけどね」
 そう言いながら髪を耳にかけた彼女の手に、指輪が光った。
 恐らく結婚するのだろう。
 思いがけない再会に僅かな期待を抱いていた自分に気付いて、内心苦笑する。
「まさか、土井くんとこんなところで会うなんて思わなかったなぁ、なんか懐かしい気分になっちゃうね。ほら、遠足ってこのくらいの時期だったよね?」
「ああ」
「あの時、確か、バスで隣の席になったよね」
「山道で酔うやつが多くて、席を替わっているうちに、いつの間にかそうなったんだっけ?」
 わざととぼけて言う。本当はしっかりと覚えている。
「そうそう。多分、土井くんと喋ったのってあれが初めてだよね」
 確かに、挨拶以外で言葉を交わしたのは初めてだった。
 揺れるバスの中で、飴を貰った。甘酸っぱいイチゴ味の飴が妙に女の子らしく感じて、それが彼女を好きになるきっかけだったと言っても過言ではない。
 今でも人工的なイチゴの味は苗字を思い起こさせる。だから、報われなかった初恋の味だとも言える。
「わたし、今日みたいに暑いと、夏休み中に文化祭の準備したこと思い出すんだよね。もっともっと暑かったけど」
「そうだなぁ」
 楽しそうな苗字の声を聞きながら、私の胸はちくりと痛んだ。
「大変だったよね。色々作んなきゃいけなかったし。飾り付けとか買い出しも……文化祭のリーダーなんかやるんじゃなかった!って、わたし、途中で何回も思ったんだよ。それより、意外だったなぁ」
「何が?」
「今だから言うけどさ……土井くんってあんまり行事に積極的なタイプに見えなかったから……あ、ごめんね」
「いや、気にしないから……」
 ふふ、と苗字が笑った。
「ありがと。でさ、土井くん、夏休み中は殆ど毎日手伝いに来てくれたじゃない? 1回も来てくれない子もいたし。それはまぁ、みんな部活とか塾とかあるから仕方なかったけど……土井くんが一所懸命手伝ってくれて、すっごい嬉しかった」
「……クラスの皆でやるって決めたことだし」
「でも、強制参加じゃないのに来てくれて、土井くんがいてくれて、ほんとに助かったんだよ? あの時って、本当は無理して来てくれてたの?」
 首を横に振った。
 苗字の言葉通り、それほど行事は好きではなかったが、決して無理をしていたわけではない。本来なら会えないはずの夏休みに苗字に会えるのだから、参加しない理由などなかった。
 暑い最中に登校するのは楽ではなかったが、今になってみると、全部ひっくるめていい思い出だ。
「苗字はみんなを纏めるのが上手かったな。盛り上げ役というか……苗字が楽しんでたから一緒に楽しめた」
「えー、そんなことないよ」
 事実、彼女はクラスのムードメーカーだった。明るい雰囲気、さりげないが影響力のある一言、分け隔てのない態度や小さな気遣いで、いつもクラスを自然とひとつにまとめていた。
 そんな苗字だからこそ、友人に囲まれているのが常だった。
 それは夏休みでも例外ではなく、彼女目当てで文化祭の準備に参加しても、二人きりになるチャンスなどそうそう巡ってはこなかった。
 けれども、機会はあったのだ。

「土井くん、おはよー」
「おはよう」
 真夏の昇降口。私は狼狽えながら、買ったばかりのペットボトルを握り締めた。
「教室行くなら一緒に行こ」
 軽い足取りで階段を一段上がって、苗字が微笑んだ。
「土井くん、来るの早いね」
「苗字こそ」
「だってわたしは係りだもん。道具の準備とかあるし、毎日この時間だよ」
 その日から、できるだけ早い時間に登校したが、そううまくはいかなかった。彼女と同じく文化祭の係りを務めるクラスメイトも、ほぼ同じ時間に登校していたのだった。そして30分も経てば、彼女は友人達に囲まれていた。
 運良く数分だけ二人きりになることも何度かあったが、何も起こらなかった。
「来週の花火大会、一緒に行かないか?」
 その一言が言えなくて、来週が五日後に、そして明日に変わっても、決して口には出せなかった。
 花火大会の夜、遠くで響く打ち上げ花火の音を自室で寝転びながら聞いた。
 勇気を出せばよかった。そう後悔したが、文化祭が彼女と近付くきっかけになるかもしれない、という希望もまだ残っていた。
 だが、それも儚いものだった。

「えーっ、やったじゃん!」
「ちょっと、声大きいよ」
「ごめん。え、てか何? 苗字が告ったんじゃないんだ?」
「……うん」
「花火行ってよかったじゃん。でもさ、当日じゃなくて、もっと早く誘えって感じだよね」
 花火大会の夜に中学時代からの恋がようやく実ったと、苗字は友人達に話しているようだった。
 その先のことはよく覚えていない。
 うだるような暑さの真夏の教室。その窓の外では蝉が鳴いていて、私はただ目の前の作業をこなしていた。
 初恋が終わるのは、こんなにも呆気ないものかと思ったものだ。
 それでも、卒業まで苗字のことが好きだった。
 彼女を誘うことができていたなら、どうなっていたのだろう。苗字は私と付き合ってくれただろうか。それとも、やはり彼を選んだのだろうか。
 卒業して何年経っても、その答えは出ないような気がしていたが、そうではなかったのだとようやく分かった。
 答えはあの夏に出ていた。私が苗字に何も言えなかったあの日々に。

 私は唇の両端を僅かに上げた。
「苗字……結婚するんだろ?」
「うん。実はそうなんだ」
 言って、苗字は肩を竦めた。
「高校の時から付き合ってた人でね……紆余曲折あったんだけど、やっと結婚!」
 高校時代とは違う、けれどもとても幸せそうな笑顔で苗字は笑う。
 それを見て、素直に「よかった」と思った。
「おめでとう。幸せにな」
「ありがとう。土井くんもね!」
 苗字が言い終えるのとほぼ同時に、数メートル先に車が停まり、彼女はそちらに目をやった。
「あ、ごめん。迎えの車が来ちゃった。呼び止めてごめんね。また、同窓会で会おうね!」
 手を振って、苗字は車に駆けていく。
 その後ろ姿は高校時代の面影を纏いながらも、私の知らない女性のものだった。