この頃、名無しさんは冷たい。
と、半助は考えているだろう。わざわざ冷たい態度を取っているつもりはないけれど、それなりに事実ではあるので致し方ない。
そんなことを考えながらベージュの遮光カーテンを勢いよく開けると、薄い青空が広がっていた。
陽光から逃げようと体を丸める半助から布団をはぎ取ると、彼はぎゅっと体を縮める。
「半助っ! 起きて、起きてー!」
土曜の午前中。
近所迷惑にならない程度のボリュームで、恋人に声を掛ける。
「ほら、起きて!」
渋々顔を上げて時計を見た半助の眉間に、ぎゅっと皺が寄る。
「……まだ9時過ぎじゃないか」
今日は昼頃に起きてランチに行こう、という約束をしていた。
寝ぼけ眼の半助が項垂れる。
「名無しさん、もう少し寝ていよう」
「そうできればいいんだけどね」
そこまで言ってようやくぴんときたようで、半助は溜息混じりに口を開く。
「今日、休みじゃなかったのか?」
半助は上半身を完全に起こし、首と肩を回す。きっとベッドが狭くて体が強ばっているのだろう。
私は静かにベッドに座った。
「ごめん。呼び出されちゃった」
「……またか」
「半助には言われたくないけどねぇ」
と言うと、半助は苦笑した。
「名無しさんは仕事好きだな」
「そっくりそのまま返す」
私だって今日は休みたかったし、休むつもりだった。ところが同僚が熱を出したと連絡がきたので、私がどうしても出勤しなければならなくなってしまったのだ。
別にバリバリ働いているつもりはないのだけれど、私はどちらかといえば仕事好きな部類だろう。半助のように忙殺されるまではいかないものの、私は私で忙しいのでなかなかゆっくり会えない。
一人の時間が欲しいという理由もあるけれど、特にここ半年は月に2回会えればいい方だ。
お互いにドタキャンも多い。
よく続いてるなぁ、と自分でも思う。
きっと半助も同じように考えているだろう。
「名無しさんが土曜なら確実に休めると言うから、昨日必死に持ち帰りの仕事を片づけたんだぞ」
「ごめん」
先月ドタキャンされた時に、私も同じように思ったけどね。とは言わないでおく。
「まぁ、そんなわけで、鍵閉めたいから早く着替えて。あと私、再来週から出張だからね。きりちゃんにお土産お菓子でいいか訊いといて」
何で毎回きり丸に土産を。というような表情を浮かべた後、半助は自分にも訊いてくれというオーラを出しているけれどスルーする。
半助にはご当地キャラのTシャツを買うことが多い。色が選べる場合は黒と決めているので、彼の部屋の箪笥の中は段々と黒に染まっていく。私の部屋に置いてある彼の着替えも殆どお土産だ。
黒Tシャツの男と鏡の中で目が合って、ネックレスをつける手を止めた。
「何?」
「いや……夜には帰るんだろう? 部屋にいてはだめか?」
「落ち着かないから嫌」
笑顔で即答。一刀両断。問答無用。言語道断。
「明日は?」
「ずっと前から予定あるから」
「……だよなぁ」
半助は力なく笑う。
ここ最近ずっとこんな調子だ。
私に冷たくされている、と半助は思っていることだろう。元々べたべたした関係ではなかったから、なんだかんだで気にしていないという可能性も高いけれど。
半助は分かり易いようでいて、とてつもなく分かりづらい人なので、本当は何を考えているのか正直よく分からない。
「ほら、早く! 私、急ぐんだからっ!」
言いながら、半助のジーンズをベッドに放る。
「なら出かけたらいいだろう。鍵は閉めておくから。帰りに連絡をくれれば鍵を届けにくるし……」
「そういうの嫌なんだってば」
いい加減にして、と言う代わりに大きく溜息を吐く。
「ほら! もたもたしない!」
普段、半助が生徒たちに言っているような言葉を投げながら、洗面所へ彼を追いやる。
できるだけ早く帰ってほしいので、ハンガーに掛けておいた半助のパーカーを手に取って、戻るのを待つ。
今日はふたりでまったりのんびり過ごすはずだったから、悪いとは思う。でも、一度予定が変更したら、やるべきことも次々に変わるのだから仕方がない。
半助がパーカーに袖を通し終えるのを見計らって、レジ袋を差し出した。
「はい、朝ご飯」
「いつの間に?」
「気付かなかったの? 熟睡してるなんて珍しい」
1時間程前、同僚からの電話があってすぐにコンビニへ行ったのだ。何か作ってもよかったのだけれど、半助をギリギリまで寝かせておくには物音を立てない方がいいかな、と思った。
久々に一緒に迎えた朝に食べるのが、コンビニのおにぎりだなんて味気ないけれど。
半助はまだどこか納得いっていないような空気を醸し出しながら、短い廊下へ出た。不意に、視線を半助の背中から部屋に戻すと、ローテーブルの上の携帯に気が付いた。
「半助、携帯」
携帯を手に取り、半助の尻ポケットに突っ込むと、彼はちょっと戸惑うような、照れくさそうな顔をした。
「名無しさん、一緒に出よう。もう行くんだろう?」
「先行って。私、洗濯機にシーツ入れてから行くから」
何か言いたそうな半助に笑顔を向ける。「会話は終了」という意味だ。
そのまま玄関に彼を押していく。
「待て、名無しさんっ」
と、口にはするものの半助は抵抗もせず、背中を押されるまま素直に汚れたスニーカーを履きドアを出る。
「夜に電話するねー」
振り返った半助に、バイバイ、と手を振ってドアを閉めた。
可哀想だけど仕方ない。
「さてと」
シーツを外して洗濯機に突っ込んだ。天気がいいので洗ってしまいたいところだけれど、出掛ける時間になってしまう。夕方には帰れると見越してタイマーをセットし、浴室に小走りで向かう。
半助を追い出したのはシーツ云々の為ではなく、本当は下着を干したかったのだ。
奮発して買った、新品のちょっと派手な上下セット。
部屋の隅に掛けた物干しハンガーに下着を掛けて、ひとり頷く。満足。
帰ってきたときには乾いていたら嬉しいな。
半助に下着を見られたからって、今更どうもこうもない。でも、これを見られるのは困るのだ。
「よし、出掛けようかな」
時間を確認しようと手にした携帯が鳴った。職場からだろうかと慌てたが、そうではなかった。
「おはよー。どうしたの?」
思わず声が弾む。
半助を帰した後でよかった。
「えっ、ほんと? ごめん、メール気付かなかった。今から仕事なんだ。うん。あ、じゃあ明日お茶してからにしようよ。雑誌返すの明日でいい? 荷物になるかな?」
本当はこのまま喋っていたいのだけれど、もう出た方がいいと判断して荷物を持って部屋を出る。バスに乗り遅れたら困る。
「ん、持ってくね。バックナンバー注文したよー! ゲームも! 夜に届くはず。前の? 全然進んでないんだけどね、一応買っておこうと思って」
にやけながら、仕事用にしているパンプスを履く。これを履くと気持ちが仕事に切り替わる。
「詳しい話は会ってからね!」
明日また、と言って電話を切った。
「仕事だ、仕事!」
半助はもうアパートに着いただろうか。そう考えたのは束の間で、パンプスの踵が小気味よい音を立てて、恋しさを打ち消していった。
「名無しさんのやつ……」
10分程、とぼとぼと歩いて自分のアパートへと帰った。
どうも辺りが綺麗なような気がするが、まさか町内清掃は今日だったのだろうか。
そうかもしれない。
隣のおばちゃんに見つからないように、急いで鍵を開けて部屋に入った。靴を脱ぎながら、溜息を吐く。
町内清掃の件はひとまず置いておくとして、名無しさんは怪しい。ここのところ冷たい。冷たすぎる。
ついでに、信用されていないような気もする。
なんだかんだと理由を付けて合い鍵をくれないし、受け取ってもくれない。出張中の観葉植物の世話も頼んでくれない。以前名無しさんが飼っていた熱帯魚だって、私でなく同僚に預かってもらったらしい。
まあ、熱帯魚はうっかり死なせてしまいそうだし、観葉植物も忘れて枯らしてしまいそうだからいいのだが、起きているときに5分以上の留守番すら頼まれないのは何故なのだろうか。子供以下の扱いだ。
名無しさんが私を部屋に置いて出掛けるのは、大概私が眠っているときだ。それも走って帰ってくる。
これらはやはり、全く信用されていないせいだろうか。
「うーん……」
名無しさんは台所の戸棚すら開けるなと言う。勿論勝手に開けたりはしないが、その念の押しようは名無しさんは鶴女房なのかと思ってしまう程だ。
つまらない冗談はさておき。
「私のどこが悪いんだ?」
考えても考えても見当もつかない。なんてことはなく、幾つかそれなりに考えつく。
いや、結構ありそうだ。
「そうだ!」
思い当たることをリストアップしてみよう。
名無しさんがくれたおにぎりを齧りながら、コピー紙にボールペンを走らせる。
・隣のおばちゃんに怒られるのを何度も見られた
・家賃の払い忘れ等で大家さんに怒られているのにも居合わせた
・生徒が部屋に押し掛けてくる
・帰りが遅い
・仕事が忙しいうえに持ち帰りが多い
・休みが少ない
・靴下の穴を見られた
・変な客が多い
・約束を忘れる
・ドタキャン
・洗濯物の山に呆れていた
・イベントを忘れる
「とりあえず、こんなところか。うーん……どれも原因のようでいて、どれも違うような気がするなぁ」
となると何がいけないのだろうか。正直、どれもまずいとは思うが今更な感じがする。
最近何か変わったことがあっただろうか。
いや、変化らしい変化はない。そもそも私たちの間で何かが起きた例がない。
たまたま寄った居酒屋で知り合って、ノリで連絡先の交換をして、タイミング良く空いていた日に誘われて、次はこちらから誘い、そんなことを繰り返しているうちになんとなく付き合おうという流れになって、それなりに恋人らしいつき合いを経て今に至る。
なんとなく何かが起きてはいるが、大きな出来事は起きていない。。
盛り上がりに欠けつつも、お互いのペースでうまくやってきたと思うのだが、名無しさんは違ったのだろうか。名無しさんの性格を考えれば、不満があれば言いそうなものだが。
もしかしたら名無しさんは苦言を呈したが、私が気付かないでいるのだろうか。
うーん、と唸っているうちに、全てのことが問題に思えてきた。
心なしか、胃がしくしく痛む。「考えすぎはいかんな。名無しさんを見習って洗濯でもするか」
部屋の角に置いたランドリーバスケットでは、汚れ物の雪崩が起きている。
白いシャツだけ選り分けながら、ふと視線をやったバスケットの陰に本を3冊見つけた。
「あああああ……しまった」
市立図書館で借りてきたそれらは、既にうっすら埃をかぶっている。返却日は過ぎているはずだ。
読み終えた後、すっかり忘れていた。
「……先週、だったか? まさか、先々週か?」
恐らくこういうところも、名無しさんに信用されない一因なのだろうな。と、考えて苦笑する。
白いシャツを入れた洗濯機を回し、本を鞄に詰めた。
「また忘れてしまいそうだし、今のうちに返しにいくか」
返すだけなら時間もかからないだろうし、戻った頃には洗濯が終わっているはずだ。
今日は予定がだめになって、却ってよかったのかもしれない。そうでなければ、いつまで本に気付かないで過ごしていたか分からない。
ガタガタと音を立てる洗濯機をひとり残して、部屋を出た。
正直、図書館へ行くのは気が重かった。
だが特に何か言われることもなく、無事に返却できてほっとした。
今日は本を借りていくつもりはないが、まだ時間があるので館内をぐるりと見て回る。
本来ならば今頃は名無しさんと過ごしていたはずなのに。まったく、名無しさんのやつ。
不意に、彼女だったら何を借りるだろう、と考えた。
読む本は話題作と好きな作者のもの、あとは気になるタイトルで決める、というようなことを付き合う前に聞いたような覚えがある。
「タイトルか……この辺かな」
名無しさんが好きそうなタイトルの本を、手に取ってみる。
開いて読んでみると、始まった途端に主人公が恋人に浮気されていた。普段なら気にもとめない『浮気』の二文字にどきりとして、嫌な汗が流れた。
名無しさんも?
いや、そんな、まさか。名無しさんが浮気なんて。
変な本を選んでしまった。
閉じた本を元の場所に戻しても、鼓動は早いままだ。
浮気だなんて。
名無しさんにそんな暇があるわけがない。あれだけ仕事に忙しくしているのだし、私が連絡できないときにだって、不満らしい不満も言わずにいてくれているというのに、浮気なんてするだろうか。
それに一概にはいえないが、浮気をすると優しくなるというじゃないか。この本だってそうだ。名無しさんは逆だ。最近冷たい。
はっとする。
もしかして、私が浮気相手なのではないだろうか。となると、そのことに気付いたら捨てられるのではないだろうか。
いやいやいや、名無しさんに限ってそんなことはありえない。
背の高い書架の間で、ひとり首を振る。
本当にあり得ないのだろうか。
電話やメールはしているが、半月会えないこともざらだ。仕事、仕事、仕事に仕事。自分の生活がそうだから名無しさんもそうなのだろうと勝手に思っていたが、本当にそうなのだろうか。仕事だといいながら誰かと会っていても、私には分からない。
自分の顔が引き攣っていくのを感じながら、喧騒を求めて図書館を出た。
18時前。
名無しさんはきっと帰っているだろうと、連絡もせずに彼女のアパートへ向かった。問いつめるまではいかないが、探りを入れてみようと思う。
「半助、何なの急に」
ドアを開けた名無しさんは、怒ったように言った。
「いや……名無しさんに会いたくなって」
言って微笑んでみると、「そう」と名無しさんは照れくさそうに答え、私を招き入れた。
怪しい靴はなく、男もいない。そんな当然のことにほっとする。
「何か飲む? ……オレンジジュースでいい?」
「ああ」
名無しさんの寝室は朝よりも片付いていた。
ベッドは綺麗に整えられ、シーツも交換されている。ローテーブルの上にはノートパソコンとリモコン、そしてグラスが一つだけ。
いつ来ても綺麗な部屋だ。
改めて考えてみると、綺麗すぎやしないだろうか。まるで何かを隠した後のように。
訝しみながら視線を上げると、カーテンレールの端に物干しハンガーがかかっていた。その洗濯ばさみに、そこそこ派手な下着が吊されている。名無しさんが昨日着けていたものとは違う。
レースが上品にあしらわれた、光沢のある深い赤。上下のセット。
初めて見る。
干してあるということは洗ったわけで、洗ったということはつまりそういうことだろう。
「ちょっと!」
名無しさんはローテーブルにグラスを乱暴に置き、カーテンへ駆け寄った。そして、物干しハンガーをカーテンレールから外すと、素早く開けたクローゼットにそれを投げ込む。
「洗濯物じろじろ見ないでよ」
「い、いや、そういうつもりは……」
「変態」
と、名無しさんは溜息混じりでからかうように言う。
どうしたんだその下着、と訊けるはずもなく、私はただただ苦笑する。
単刀直入かつ何気なく訊けばいいのだろうか。訊くべき場面なのだろうか。いや、普通訊けないだろう。
などと考えながら、腰を下ろしてオレンジジュースを飲む。
「今日ごめんね」名無しさんが私の隣に座る。「何してたの?」
「洗濯をして図書館に本を返しに行って……あと仕事と掃除を少し」
「そっか。今日のお詫びに、今度ご馳走するね。後輩に美味しいお店教えてもらったんだ」
「来週末……は出張前だからだめだな」
「うーん、だめってこともないけど……でも結構混むみたいだから、平日の方がいいと思う。後輩の知り合いがやってるお店だから、平日なら多少は融通きかせてくれるっていうし」
「そうか」
「今度の休みこそ家でまったりしようよ。来週末は絶対休めるから! 今日出勤したのもそのためだし!」
私は今日は今日で楽しみにしていたんだが。
「……来週は絶対一緒に過ごそうね」名無しさんが、私の腕を取る。「出張前に充電しないと。ね?」
名無しさんに上目遣いで甘えられると弱い。
それでも考えてしまう、名無しさんが会っているのは本当に私だけなのか、と。
「そうだな。ところで……」
ブルーレイレコーダーの赤い点滅を見ながら、意を決して口を開く。
「……今日一日考えたんだが」
「なに?」
「もっと名無しさんといる時間を作ろうと思った」
名無しさんは軽く何度も瞬きをした。伝わっていないようだ。
「休日はちゃんと休んで、生徒たちをアパートに来させないようにするし、ドタキャンもしない。イベントも忘れないように……」
「待って」
名無しさんが立ち上がる。
「どうしたの、急に」
「名無しさんに信用されたいというか、頼りにされたいというか」
ついでに探りを入れたい。という本音は、当然ながら口にしない。
「頼り? 信用?」
「今までは約束を守れないことが多かっただろう? だからこれからは、もっとちゃんとしようと思うんだ」
「そんなの別に、私も忙しいしお互い様だよ。っていうか、半助は私に信用されてないって思ってるの?」
名無しさんが眉間に皺を寄せたので、私は僅かに怯む。
「それはまぁ……名無しさんは合い鍵どころか留守を任せてくれないじゃないか。今朝だって私が寝ている間にコンビニに行くし」
「起こすの悪いと思ったからでしょ。それに、合い鍵とか留守番とか、そういうのあんまり好きじゃないから」
「信用されてないのかな、と」
「違うよ。信用はしてるよ。でもここは私のアパートだし、半助には半助のアパートがあるじゃない。同棲してるわけじゃないんだし、自分の部屋は自分だけの部屋にしておきたいの。それっておかしい?」
「いや……」
確かに、線引きは大事だ。
「分かった。だが、それとは別に、一緒にいる時間を増やしたいと私は思うんだが」
「今のままでいいよ」
一瞬真顔になってから、名無しさんはきっぱりと言った。
何か納得できる言い訳をしてくれることを期待して、私は言葉を続ける。
「遠距離でもないのに、二週間以上会えないような状況でも?」
「うん……私は、今はこのままがいい」
正直ショックだ。
私だって忙しいが、約束をうっかり忘れたりドタキャンしたりするが、決して会いたくないわけじゃない。いや、名無しさんだって会いたくないと言ったわけではないのだが。
「だってほら、急に無理するのよくないよ」
「……そうだな」
無理強いするのはよくない。
そう考えて引き下がるが、果たしてそれは正しいのだろうか。もっと強引さがあってもいいのではないか。
とはいえ私がそんな風になれるわけもなく、またオレンジジュースを啜る。
今、言えることはひとつ。
恐らく、名無しさんは嘘を吐いている。
名無しさんがどんな嘘を吐いているのかは、皆目見当も付かない。
BGM代わりにテレビをつけたまま、互いにどうでもいいような話を続けている。
名無しさんは時折、携帯を触っている。恐らくメールだろうが、相手は不明。プライベートなのか仕事なのか、女なのか男なのか。
「えっ」
突然、名無しさんが声を上げた。
「どうした?」
「……携帯落としそうになっただけ」
いや、しっかり握っていただろうが。
「ジュースのお代わりいる?」
「いや、いい」
「そう。私は飲もうっと」
と言いながら、名無しさんは廊下へ出て行く。
しかも、大抵開けっ放しにしているドアをわざわざ閉めて。
私は静かにドアににじり寄り、耳をそばだてた。
「……最悪……忘れてた。今日だった」
キッチンの辺りで名無しさんが呟くのが聞こえた。
今日? やはり誰か来るのか?
また胃が痛くなってきた。
「半助!」
慌てて元の場所に座るのと同時に、勢いよくドアが開いた。
危なかった、と思いながら、胃の辺りをそっと押さえる。
「何か食べる? そこのラーメン屋さん、美味しいらしいよ。まだ営業時間のはずだから、行ってきたら?」
名無しさんは首を傾げながらにっこりと笑った。全体的にわざとらしい。
「名無しさんは?」
「私はさっきご飯食べたから」
「私もすませたんだが」
「でも半助、お腹空いてると思うよ!」
言って、名無しさんは真顔で頷く。
意味が分からない。
生徒の言葉なら大体の察しはつくが、妙齢の女性の考えは今一つ分からない。名無しさんは一体どうしたんだ。
まさか本当に、これから誰か来るのだろうか。
突然、呼び鈴が鳴った。
「ひゃっ」
小さく叫びながら、名無しさんが飛び上がった。完全に裏返った声がちょっと可愛い。
「名無しさん、誰か来……」
「多分、荷物だから!」
名無しさんは私の言葉を遮って、勢いよくドアを閉めた。
そして、小走りで廊下を進む足音に続いて、玄関のドアを開ける音がした。
空気が動く。
再び耳をそばだてて会話を聞く限り、名無しさんの言う通り宅配便らしい。送り主は聞き取れなかった。
鍵を閉める音を合図に、元の位置に戻る。
恋人の部屋で何をやっているのだろう、と情けなくなるが、気になるものは気になる。
寝室に戻ってきた名無しさんは、大小ふたつの箱を抱えていた。
「お母さんからだった」
「そうか」
訊いてもいないのに送り主を教えてくれるということは、何かあるに違いない。
名無しさんは箱の底をこちらに向けて、私から一番遠い壁に立てかけるようにして置いた。ちらりと見えた送り状は手書きではなかった。
うちのお母さん、パソコンどころか携帯もまともに使えないんだよね。と、名無しさんが言っていた記憶がある。
となると恐らく通販だろう。
中身の予想は微塵もつかないが、怪しい。第一、あの置き方は疑わしいのを通り越して有罪だ。
「名無しさん……開けないのか?」
「……半助、立って」
「何故?」
「いいから、いいから」
不思議に思いながらも、言われるままに立ち上がる。
すると、名無しさんは財布から千円札を取り出した。
「はい」
「え?」
差し出された千円札に困惑していると、名無しさんがにっこりと笑う。
「これでラーメン食べてきなよ!」
「えっ?」
さっきのわけの分からない話の続きか。
そもそもラーメンが食べたいなんて、誰が言った。
「ラーメン食べて、家に帰って、早く寝て、来週も仕事頑張ってね!」
「ちょ、ちょっと待て。名無しさん!」
やっと、名無しさんが私を部屋から追い出したいのだと気が付いた。我ながら鈍い。
焦る私に構わず、名無しさんは笑顔で続ける。
「いいから、いいから。遠慮しないで。今日ドタキャンしたお詫びだから。ね?」
「それは、今度ご馳走してくれるって話じゃなかったか」
「うんうん、分かってる。今日もご馳走するから。ねっ!」
名無しさんはまるでどこかのおばちゃんのように、ぐいぐいと千円札を握らせようとしてくる。
このまま進化するとああなるのか、と納得させるほど強引だ。
「いいからいいから、ほらほら早く!」
「名無しさんっ!」
思わず、声を荒げてしまった。
名無しさんの顔から笑顔が消える。
「夜だから静かにして」
謝ろうとすると、名無しさんが抱きついてきた。
シャンプーの香りと柔らかい体に不意打ちを食らって、視界も心もぐらつく。
もしかして、怖がらせてしまっただろうか。名無しさんの態度も問題だが、怒鳴る必要はなかった。
「名無しさん……」
申し訳なく思いながら名無しさんの髪にそっと触れたのと同時に、尻ポケットに何かねじ込まれた感触がした。
まさか、と思いながらポケットに手をやっている間に、名無しさんに玄関まで押し出される。というより殆ど張り手で、今朝の何倍も力強い。
「じゃっ! ラーメン食べておうちにお帰りっ!」
靴も履かないうちに、突き飛ばされるように表に出さた。
唖然として千円札を握りしめたまま振り返ると、スニーカーが放り出される。
「ちょ、ちょっと待て」
「おやすみー」
無情にもドアが目の前で閉まった。
「名無しさんっ」
あんまりだ。
ポケットに千円札を戻し、靴を履く。
怪しい。
わざわざ追い出すだなんて、あの荷物の中身は一体何なんだ。というかこの扱いは酷くないか。恋人だぞ、恋人。
恋人なんだろうか。
名無しさんのアパートを振り返る。明かりのついた彼女の部屋を見ていると、これから誰か来るのかもしれないなどと不安になってくる。
とにかく、名無しさんは絶対に何か隠している。もしくは、これは振られる予兆に違いない。出張の後にでも別れ話を切り出されるのだろうか。
否、もしかしたら来週末かもしれない。
本格的に胃が痛む。心身共に、ラーメンなんか食べられる状況ではない。 今から戻ったとして、名無しさんが部屋に入れてくれるとは到底思えない。明日は予定があると言うし、平日は互いに時間が取れないだろう。
それに、何を訊いても名無しさんに相手にされないような気がする。かといって、端から浮気と決めつけて責めるわけにはいかないのだから難しい。
名無しさんは明日、誰と会うのだろう。
「いや、さすがにそれは……」
暗い道を歩きながら独り言つ。
名無しさんはどこで誰と会うのだろう。頭の中でそればかりが、外灯に照らされたように浮かび上がる。
「尾行しよう」
仕方がない。名無しさんの為にも、この件は早々にはっきりさせた方がいいはずだ。隠し事をしている名無しさんだって悪いんだ。
そう無理矢理に自分を納得させる。
私の心の中は既に罪悪感で満たされていて、アパートに着くまでの間、ありったけの言い訳を並べていた。
真っ昼間のコーヒーショップで、耳をそばだてること15分。
名無しさんの声は聞こえない。
店に入った名無しさんとその友人を追ったまではいいものの、私と名無しさんのテーブルの間には女子大生と思しいグループがいて会話が盛り上がり続けていた。
つまり、うるさくて名無しさんたちの話は何も聞こえないのだ。
このままでは、気付かれる可能性を少しでも低くするためにキャップを被り、3年前に買って「失敗した」と思ったきり一度も着ていない服を引っ張り出してきたのが無駄になってしまう。
自分でも呆れるし引くのだが、朝から名無しさんのアパートに張り付いていた。
約束の相手が彼女の友人でほっとしたのも束の間、この後に別の人物と会うかもしれない。もしくは、男の二人連れと合流するのかもしれない。
疑いだすときりがなく、帰るタイミングがつかめない。
不意に、椅子を引く音がした。女子大生のグループがようやく帰ってくれるようだ。
小さくガッツポーズをしながら、全神経を集中させて耳を澄ませる。
「名無しさんすっかり恋する乙女じゃん」
名無しさん友人の口から、不穏な単語が出た気がする。
私の聞き間違いだろうか。
冷や汗をかきながら名無しさんの言葉を待つ。
何の話をしているのか全く分からないが、とりあえず否定してくれ。
「乙女って……好きだけどさぁ、現実見たら絶対に付き合えないし。ふと我に返ると不毛というか、時間の無駄な気もしてくるわ」
「そうだけど、いいじゃん楽しいなら。で、どこまで行ったの。もうデートした?」
「まだまだ。まだそこまでいかないよー。自己紹介が一通り終わった感じかな」
男の話をしてるようだが、私のことではないのは明らかだ。
「えー、何でそんなもたもたしてんの」
「仕事忙しくって……でも毎日声だけは聞いてる」
名無しさんは確実に他の男の話をしている。
どういうことなんだ、と彼女らのテーブルに怒鳴り込むような気力は到底なく、相手はどこの誰なのだろうかとぼんやり考える。
解決するどころか、疑惑が深まってしまった。
「こんなにはまっちゃうとは思わなかったなぁ。あんたに薦められた時は正直どうかと思ったけどね」
「えー酷い」
「だって忙しいし、興味なかったし」
こんなに楽しそうな名無しさんの声を最後に聞いたのは、いつだっただろう。聞いたことがあっただろうか。あったはずだが、思い出せなくなってしまった。
落ち着いた付き合いをマンネリだと感じたことはなかったが、彼女はそうではなかったのかもしれない。どうすればよかったのだろうか。
名無しさんたちの会話は弾んでいる。
「え? バレてないよ。オープンにするわけないじゃん、彼氏には絶対言えないよ」
「じゃあ今日も内緒なの?」
「当たり前でしょ」
そうだろうとも。
一応のところ、私が彼氏ではあるようだ。その点に安堵していいものか悩みつつ、静かに溜息を吐く。
ああ、胃が痛い。
コーヒーなんて飲むんじゃなかった。
「昨日の、見た?」
名無しさんたちの楽しそうな会話は続いているが、話題はテレビ番組に変わったようだった。
「そろそろ行こっか」
そう言って、名無しさんたちは席を立った。
この後、どこへ行くのだろう。雰囲気的に件の男と会うわけではなさそうだが、ここまできたのだからもう少し尾行してみよう。
しかし、何か証拠になるようなものはないだろうか。携帯を見るのは嫌だし、カメラを仕掛けるなんてのももってのほかだ。会話の録音もしたくない。尾行はいいのかというと、よくはないのだが。
「うーん……」
独りで唸りながら、名無しさんを追って店を出る。
やはり話し合うしかないか。
名無しさんは正直に話してくれるだろうか。追求などせずに別れてしまえばいいのだろうか。いや、そもそも私は名無しさんと別れたいのだろうか。
話し合ったとして、または気づかなかった振りをしたとして、名無しさんとこれからやっていけるのだろうか。
嘆息を吐いて、空を見上げた。
太陽の眩しさに目眩がしたのと同時に、聞き慣れた声がした。
「半助」
振り返ると、隣のおばちゃんがいた。
「と、隣のおばちゃんっ!」
「あんた、こんなところで何してんの」
何って、恋人を尾行しています。とは、とてもじゃないが言えない。
説明したところでストーカーだの変態だの言われかねないし、実際ほぼほぼそうなっていることは自覚している。
大家さんにバレたら追い出されかねない。
誤魔化そうと必死に笑顔を作るが、どうしても引き攣ってしまう。まぁ、いつものことなので隣のおばちゃんは気にも留めないだろうが。
「用事が済んで……コーヒーも飲んだので、そろそろ家に帰ろうかと」
「あら、それならちょっと荷物持ってくれない?」
「はい」
荷物を受け取りながら、名無しさんたちが歩いていった方へちらりと目をやる。
あああああああああ……角を曲がってしまう。せめてどこに行くのか知りたかった。
「半助っ、なに突っ立ってんの!」
「い、今行きますってば」
町内清掃は昨日ではなく今日だったようだ。どちらにしろすっぽかしたので、アパートに着くまでの間しこたま怒られた。
しかし、今はそんなことはどうでもいい。
やはり浮気なのだろうか。
名無しさんにそれらしい言動は見られるが、確たる証拠はない。今日の会話も聞き間違いではないだろうか。
「ははは……そんなわけはないか」
乾いた笑いが部屋に響く。
うまくいかないものだ。
恋人には、会いたいとあまりに言われるのも困る。会いたくないわけではない。寧ろ、会いたいのだが会えないのだ。
時間の調節が下手だとか、そこまで本気じゃないのだろうと言われてしまえばそれまでなのだが、仕事に追われていると会う時間も余裕もない。目の前の仕事にかまけているうちに、予定も相手のこともすっぽり抜けてしまうことはかなり多い。
名無しさんとはお互い様だと思っていた。彼女も私も忙しく、予定をキャンセルすることもお互いによくあることだった。
名無しさんはそれなりに残念そうだったり怒ったりはしていたが、取り立てて何も言わなかった。寂しい思いをさせてしまう申し訳なさを感じずにすんでいたので、うまくいっていると思っていた。
本当は寂しい思いをさせていたのだろう。
「遅かったのか」
昨日、一緒にいる時間を増やそうと提案したが、それは遅すぎたのかもしれない。だから名無しさんもあんな態度だったのだろう。
「そういえば……」
2ヶ月前、名無しさんが私と一緒に行きたいと言っていた美術展には、結局私は行けなかった。
「一人で行ってきたから、別に気にしないでいいよ」と言ってはいたが、昨日の私と同じように、名無しさんだってがっかりしたに決まっている。
映画、テーマパーク、レストランにカフェ。「今度」とか「そのうち」とか「休めたら」とか、どこかに行きたいと話す度に口にしていた。少しくらい無理をして休みの予定を合わせていたら、こんなことにはならなかっただろうか。
でも、名無しさんだって忙しい。彼女が予定をキャンセルすることだってそれなりに多いのだ。
「ん?」
考えたくはないが、やはり私が浮気相手なのだろうか。
いや、先の名無しさんと友人の会話を聞いた限りでは違うだろう。
だが、浮気相手は必ずしも一人だけとは限らないわけで、彼氏というのが別にいて、私が一人目の相手でもう一人新しい相手がいるのかもしれない。
それなら鍵を預けてくれないことも納得がいく。
「いやいやいや、そんなはずは……名無しさんに限って……まさか……」
絶対にあり得ない。
そもそも浮気自体があり得ない。私の知っている名無しさんは断じてそんなことはしない。
それならあの会話は何だったんだ。
分からない。解らない。判らない。どういうことなんだ。
手掛かりはあるのに何も見えてこない。
もしや生徒たちは私の授業を受けながらこんな気分でいるのか、と全く関係ないことが頭を過ぎる。
ひたすら堂々巡りだ。 胃がキリキリ痛んで辛い。
「胃薬、どこだ……」
噎せそうになりながら胃薬を飲み込んで、やはり名無しさんと話をしようと決めた。
夜になったら訪ねて行ってみよう。
今から行ってもいいか、とだけメールを送ると、名無しさんは快諾してくれた。
「入って」
機嫌のよさそうな名無しさんに、手土産のケーキと紅茶を渡す。
「わぁ、ケーキ! 嬉しい! でも珍しいね、どうしたの? これ駅ビルに入ってるケーキ屋さんじゃない?」
「駅前に用事があったから」
「そうなんだ」
大嘘だ。ケーキを買うためだけにわざわざ駅まで行ったのだ。
ある目的のためと、名無しさんを疑う罪悪感を薄れさせたいがために買ってきてしまった。
まるで私が浮気をしているような気分だ。
「あ、紅茶まで入ってる……普段紅茶なんか飲まないくせに」
「たまにはいいかと思って」
苦笑混じりに言うが、名無しさんは気にも留めない。
「そうなんだ? じゃあ、紅茶淹れるね。ホットでいいよね?」
「ああ……」
「しまってあるティーセットあるんだ。それ出しちゃお」
「手伝おうか?」
「大丈夫。向こうで待ってて」
名無しさんは私に笑顔を向けると、キッチンへ入っていく。
今しかない。
私は急いで名無しさんの寝室に入ると、汗ばむ手でクローゼットをそっと開けた。
「……すまん」
ケーキを買ってきたもうひとつの目的はこれだ。
携帯を見るのと大差ないが、もう他にどうしていいのか分からない。
他に男がいるならば、着替えか何かがあるはずだ。何もなければそれでいい。いや、寧ろそっちのほうがいいのだが。
引き出し式の衣類ケースに収まっているのは、当然ながら名無しさんの服だ。外から見て不審なくらいに真っ黒な一段は、私の着替えだった。そして積まれた段ボールと不織布の収納ボックス。
これらが怪しい。
意を決して、収納ボックスに手をかけた。
カチャカチャという音と、名無しさんの足音がゆっくりと近付いてくる。
目が合うと名無しさんはにこりと微笑んだ。彼女が持つトレーの上にはティーセットとケーキが乗っている。
「見て、このティーポット可愛いでしょ。友達が旅行のお土産にくれたんだけど使うの勿体無くって……半助? どうしたの?」
立ち尽くす私をようやく不審に思ったのだろう。
「……クローゼットの前で何してんの」
「名無しさん」
私は話をどう切り出せばいいのか迷っていた。
クローゼットの中には何もなかった。段ボールと収納ボックスにはDVDやCD、雑誌とゲームが入っていただけだ。
名無しさんがゲームをするとは知らなかったが、それは大した問題ではない。
名無しさんの視線が、私からクローゼットへと向いた。
「何?……半助……」
視線を彷徨わせる名無しさんの側へ歩み寄っていくと、彼女は何かに気付いたように軽く目を見開いた。
「もしかして……見たの?」
動揺した様子の名無しさんの手から離れそうになったトレーを、慌てて受け止めてローテーブルの上に置く。
苦々しく思いながら向き直ると、彼女は青い顔をしていた。
私が見落としただけで、クローゼットに何か隠していたのだろうか。
「名無しさん……ごめん。でも、本当のことを話してくれ」
名無しさんは眉根を寄せた。
「本当のことって?」
「誰か、他にいるんじゃないのか……その……男が」
「……男?」
呟くように言いながら、名無しさんが首を傾げる。こんな状況でなければ、可愛いと思うような仕草だ。
「私が浮気相手なのか?」
「浮気?」
「浮気」
静かにそう返すと、沈黙が流れた。
名無しさんは何度も瞬きをしながら目を白黒させている。
とりあえず座って話そう。私がそう言うより先に、名無しさんが声を上げた。
「えええええええっ? え? 何? ……え? 浮気? 浮気って私が? 私が浮気したの?」
難しい問いに、曖昧に頷いた。
「どういうこと!」
それは私が知りたい。
「まさか、疑ってたの?」
妙に低い名無しさんの声で分かったことがある。どうも私の考えていたことは間違っていたようだ、と。
これはまずい。
「いや、その……その……名無しさんは……」
「何! はっきり言って!」
「さ、最近、冷たいじゃないか」
名無しさんは「憤怒の形相」というのがぴったりの顔をしている。
「だからって他に男がいると思ったわけ? 最低! 信じらんない!」
「じゃあ、あの荷物は何なんだ! あの下着は! それに今日、名無しさんは友達と話してたじゃないか、好きだけど付き合えないとかなんとか」
「……友達と? 半助、何で知ってんの?」
しまった。
疑っていたことはともかく、尾行して盗み聞きしていたことは絶対に口にすべきではなかった。
「もしかして、あとをつけてたの?」
「いや、その……」
床に置かれていたクッションを名無しさんが掴んだのを見て、私は素早く身構えた。
「バカバカバカバカバカバカバカバカバカッ! 信じらんない! バカ! ストーカー! 変態! 最低!」
真っ赤になった名無しさんが、私の背中をクッションでぼかすかと殴る。
「名無しさんっ。いてっ、名無しさんっ……待て、いてててて」
力一杯クッションをぶつけられては、さすがに痛い。
「名無しさんっ」
「うるさい! 変態ストーカー!」
逃げ回っているうちに、部屋の隅に追いつめられた。
投げつけられたクッションをうっかり受け止めてしまうと、名無しさんは一瞬だけブルドッグのように顔を歪めた。
「バカっ!」
名無しさんは仁王立ちになったまま、肩で息をしている。
私は暫くの間黙っていたが、名無しさんの息が落ち着く頃合いを見計らって、クッションを抱いたまま口を開いた。
「……疑ったのも尾行したのも、本当に悪かった。だが、どういうことなのか説明してくれ。最近なんだかおかしいぞ」
名無しさんは私から目を逸らしたが、その顔がますます赤くなっていく。
そして彼女は躊躇う様子を見せながらも、ゆっくりと喋りだした。
「本当のこと言うと……ちょっと……浮気してた」
「えっ」
「正確には、半助と付き合う前からだけど」
「ということは、私が」
浮気相手なのか。
膝から崩れ落ちそうになった瞬間、名無しさんが大きな声で言った。
「でも殆ど二次元だから!」
思わず、首を傾げた。
「に、二次元?」
しかも「殆ど」とは、一体どういうことだ。
「だから……」名無しさんは観念したように溜息を吐いた。「アニメ……アニメにはまっちゃったの!」
名無しさんの言っていることが、今一つよく分からない。アニメにはまることの何が浮気なんだ。
名無しさんは恥ずかしそうに私に背を向け、乱暴な足取りでベッドの方へ進む。
「最初は全然興味なかったんだよ。アニメなんてずっと見てなかったし。でも、たまたま友達の家で薦められて……面白いから絶対見ろってすごい勧めてくるから、うるさいし一応見とくか、って思って……見てみたらキャラ格好いいし可愛いし、内容が結構深くてどんどんはまっちゃって」
名無しさんは首を振りながらベッドに座る。
「番組のラジオやってたから、それも聞き始めたんだ。そしたら、声優さん好きになっちゃって……」
なるほど、その部分が「殆ど二次元」の二次元ではない部分か。
なんとなくは分かったが、どう反応していいものか迷いながら、静かに彼女に近付く。
「だからね、今日は友達と劇場版観に行ってきた」
「劇場版?」
「映画」
「ああ……」
あの後は映画に行ったのか。
納得して頷きながら、名無しさんの隣に腰掛けた。
「呆れたでしょ。引いたでしょ。キモイとか思ったでしょ」
「いや、別に何とも思わんが……それだけなんだな?」
名無しさんが首を振るので、クッションを抱いたままだった腕に力がこもる。
「休みの日はその声優さんが出演してる古いアニメ見まくって、CD聞きまくって、最近ゲームも買っちゃった。あんまりゲームやったことなかったし、攻略するのに結構時間かかるんだよね」
「あー……なるほど……道理で……」 会えなくとも不満がないわけだ。安心したような、悲しいような。
「半助が聞いた『好きだけど』ってのは多分、ゲームの話。キャラと恋愛するやつ……ボイス付きなんだ……」
「あぁ……」
そんなつもりは毛頭なかったのだが、とてつもなくしょっぱい声が出た。かといって、謝るのもどうなのだか。
だが名無しさんは気にする様子は見せず、大きく頷いた。
「うん……だから、二次元に浮気してました。半助には絶対知られたくなくて、隠すためにちょっと冷たくしてた。わざとじゃないんだけどね……バレないようにするとそうなっちゃって……でも、仕事忙しいのはほんとだから」
「……はい」
名無しさんも趣味を暴かれて困っているだろうが、私もひたすら反応に困っている。
浮気を疑ったのは申し訳ないし恥ずかしいが、あながち間違ってもいなかったのだから複雑だ。
第一、名無しさん自身がある意味浮気だと言っているのだから、やはり私はそれなりの扱いを受けていたのだろう。冷たいと思ったのが気のせいではなかったとは。けれども相手はほぼ二次元なのだから、真面目に考えるのもどうかと思う。
解決したようなのだがすっきりしない。
それに、あれはどうなんだ。
「まだ何か気になるの?」
私の顔を見た名無しさんにそう訊かれ、躊躇しながらも疑問を口にする。
「あの荷物と下着は……」
と言った途端、名無しさんがむっとした表情になった。
「イベント忘れないとか口ばっかり!」
「ええっ? イベント? イベント……すまん……えーっと」
「出張の翌週!」
名無しさんの出張は再来週。いや、もう来週か。その翌週は再来週。再来週はまだ今月だったろうか、もう来月だったろうか。そういえば今日は何日なんだ。どうしてこの部屋にはカレンダーがないんだ。日曜だというのは分かっているんだが。明日は月曜だから小テストを作らなきゃならんな、ってそうじゃない!
「……何かあったか?」
名無しさんは目を見開いたうえに、あんぐりと口を開けた。
いつだ、と訊いた方がましだっただろうか。というか下着とイベントに何の関係があるのだろう。
「半助、本気?」
全く思い出せず、誤魔化したい一心で曖昧に笑ってみる。
「誕生日でしょ! 半助の!」
「……あー……言われてみれば……そうだったか」
そんなもんすっかり忘れていた。誕生日を気にするのなんて、免許の更新がある年くらいだ。
「去年は何もできなかったから今年は、って思ってたのに! 出張から戻った後にバタバタしないように新しい下着洗っておいたの! あの荷物はプレゼント!」
ひとつは自分のゲームだけど、と付け足して、名無しさんは私からクッションを取り上げる。
「もうっ、自分の誕生日くらい覚えておいてよ。出張あるの分かってたから、私、結構前から用意してたのにっ!」
「言ってくれればよかったじゃないか。せめて会う約束くらいはできるだろう」
「……サプライズだったら、ドタキャンされても仕方ないって思えるでしょ」
言いながら、名無しさんはクッションに顔を埋める。
予想外の言葉に、どきりとした。こんな風に言われるほど、名無しさんがドタキャンを気にしているとは思わなかった。
「いつも、どう思ってるんだ? 怒っていたのか?」
「……がっかりするけど、お互い様でしょ」
名無しさんの平静を装ったような声に、顔が自然と弛む。
「本当にそうか?」
「半助の仕事とクラスの子供たちに焼き餅焼けって言うの?」
顔を上げた名無しさんは、また真っ赤になっていた。
「どうせ嫉妬深いですよ! アニメにはまってなかったら絶対許してない」
そんな名無しさんも見てみたかったかもしれない。
いかん、顔がにやける。
「何ニヤニヤしてんのっ!」
投げつけられたクッションを受け取って、すぐにベッドの下に放る。
怒ったような顔をしたままの名無しさんを抱きすくめ、ベッドに倒れ込んだ。
「……よかった」
「何が」
胸の辺りで名無しさんのくぐもった声がする。
「名無しさんに浮気されていなくて」
「バカ。でも、冷たくしてたのは、ごめん……」
「私の方こそ、疑ってごめん」
腕の中で名無しさんが顔を上げ、首を横に振った。
シャンプーの香りが鼻先をくすぐる。
「ううん、私が悪かったんだから」
「この話は終わりにしないか?」
名無しさんの返事を待たずに彼女の唇を塞いだ。
これで仲直りでいいだろう。
長いキスの後、名無しさんの体をベッドの上にすっかり持ち上げながら、からかうように言ってみる。
「そういえば、誕生日にあの下着……」
「知らないっ」
照れた様子の名無しさんに、ぐいっと顔を押し退けられた拍子に、ブルーレイレコーダーの赤い点滅が目に入った。
何を録画しているのだろう。ドラマだろうか、それとも件のアニメだろうか。きっと後者だろう。
私の視線に気付いた名無しさんが、恥ずかしそうに口を開く。
「……二期、始まったんだ」
まだ当分の間、適度に冷たくされるに違いない。
まあでも適度にならいいだろう。今から埋め合わせをしてもらえそうなことだし。
黒いTシャツを脱がされながら、そんなことを考えたのだった。