心染む

 夕暮れの早さに瞬きする度に、夏がゆっくりと遠のいていく。
 次の季節が待ち遠しいのに名残惜しく、期待と戸惑いが入り交じるのは、土井先生といるときの気持ちに少し似ている。
「先生、何か買うんですか?」
「いや、今日は眺めるだけ」
 と答えて、土井先生は肩を竦める。
 ウインドーショッピングの流れで、いつもの書店に立ち寄った。日曜の午後なので、平日より人が多い。
「紅葉狩りかぁ」
 平積みされていた旅行雑誌の特集が目についてそう口にしたけれど、行きたいと思ったわけではなく、もうそんな季節なんだな、と感じただけだった。
「行こうか」
 土井先生は問いかける風でもなく、独り言のように言った。
「お休み、あるんですか?」
 思いがけない言葉に驚きつつ、ちょっと意地悪く訊いてみると、土井先生は苦笑する。
「なんとかする。名無しさんは?」
「うーん……紅葉、もう少し先ですよね?」
 行きたいけれど、今月の残りの土日はバイトの予定なので遠出は厳しい。
「そうだな、来月あたりかな」
「それなら大丈夫です」
「決まりだな」
 その言葉を合図にするように、私は雑誌を手に取った。
「これ、買ってきます」
 面食らったような表情の先生に背を向けて、足早にレジへ向かう。急がないと先生の気が変わってしまう気がした。

 ファミレスでパフェをつつきながら、買ったばかりの旅行雑誌を開く。秋の味覚狩りやバイキングに日帰り温泉プラン、紅葉狩りとは無関係だけれど大型テーマパークの情報も満載で、どれも本当に楽しそうだ。
 じっくり見ているだけで満足してしまいそうになりながら、ふたりきりの遠出は初めてだということに、はたと気づく。
 夏に行った遊園地はそこそこ近場だったし、きりちゃんも一緒だった。ドライブデートだって、それほど遠くまでは行かない。
 そう考えると、楽しみなのと同時に緊張してしまう。
 できるだけ近い場所がいいかな。
「行きたい場所、あった?」
 コーヒーのお代わりを持って戻った先生が、向かい側の席に座る。
「いっぱいあるのでまだ……それより、何で行きます? バスにしますか? 電車の方がいいかなぁ……バスだとこんなツアーもあるみたいですよ」
 先生にも見えるように、雑誌をテーブルの中央に置く。
「色々あるなぁ……でも、ツアーだとせわしないんじゃないか?」
「やっぱり、そうですよね」
「いや、名無しさんが参加したいツアーがあるなら、私はそれでいいが」
「……ないです」
 短く答えて、パフェのフルーツを頬張る。
 いかにもデートらしいプランはちょっと照れてしまうので、ツアーもいいかもしれないと思っただけで、本当はふたりきりで出掛けたい。
「名無しさんがよければ、車にしよう。立ち寄れる場所も増えるし……」
 土井先生は一度持ち上げたコーヒーカップをテーブルに戻し、考え込むようにして唸ると再び口を開いた。
「レンタカーを借りるよ」
 山田先生の車じゃないんですか、と考えたのが表情に出てしまったようで、土井先生は私の顔を見て苦笑する。
「車を借りてばかりで申し訳ないだろう? 山田先生も家に帰るかもしれないし。それに、山田先生は名無しさんとのこともご存じだから……デートだとばれるのも、少し恥ずかしいんだ」
 コーヒーを飲む土井先生の頬が、ほんのり赤い。
 私はそれが無性に嬉しくてにやけてしまうので、慌てて雑誌で顔を隠した。
 先生が、わざとらしく咳払いする。
「それより、今から宿取れるかな」
「え? ……雑誌に載ってるんだし、普通に予約できるんじゃないですか? 人気のところだと、もしかしたら難しいかもしれないですけど」
 テーブルに雑誌を戻してページを捲る。
「それもそうだな。まあ、後でネットでも見ておくよ」
「はい」
 先生は雑誌を覗き込みながら首を傾げた。
「やはり土日は高いかなぁ……たまにはいいか」
 あれっ? と思う暇もなく、話が予想外の方向へ進んでいた。
 泊まるなんて私は一言もいっていない。私は当然日帰りのつもりだったのだけれど、先生は違ったのだろうか。
 それとも私の聞き間違いか、勘違いかな。確認した方がいいのかな。でも拒否していると思われて先生が気を悪くしてしまったら嫌だし、どうしたらいいのだろう。
 私が一人で悩んでいる間にも、土井先生の長い指がぱらぱらとページを捲る。かける言葉を見つけられずに、黙って雑誌の向きを直して渡すと、「ありがとう」と視線を落としたまま先生が言った。
「名無しさん、どこか泊まってみたい旅館、あったか? ホテルの方がいい?」
「えーっと……せ、先生は?」
「そうだなぁ、折角だから温泉がいいんじゃないかな。来月になれば今よりずっと寒くなるだろうし」
「そ、そうですね」
「しかし、こんなに載っていると旅館ひとつ選ぶのも大変だな」
 旅館、ホテル、温泉。そんなありふれた単語だけで、どきどきしてくる。顔の火照りを鎮めたくて、アイスクリームを頬張る。
 一泊旅行は先生の中では既に決定事項になっているようで、「紅葉狩りは日帰りでいいんじゃないですか」とは、とても言えない雰囲気だ。
 土井先生はまるでテキストでも読んでいるような、妙に真面目な表情で雑誌をめくっている。
「車だから場所はそれほど気にしなくていいし、名無しさんが泊まってみたいところがあればそこにしよう。ただし、あまり高いところはなしで」
「確かに……高いところは無理です」
 正直、泊まりは予想外。
 でも、地道にこつこつ貯金もしているしお金なら大丈夫。大丈夫なんだけど、金欠を理由にしたら日帰りにならないかな、なんて思う。とはいえ、好きな人の前でこれみよがしに金欠アピールをするのもどうかと思うわけで、うまい言い方はないだろうかと考えながら、半ば八つ当たりでコーンフレークを粉砕する。
「全部私が出すよ」
「えっ」
 私の素っ頓狂な声に、土井先生は雑誌からぱっと顔を上げた。目が合って、私は必死に首を横に振る。
「自分の分は、自分で払います。それなりに貯金してるし、大丈夫です」
「遠慮しなくていいから」
「します!」
 土井先生は笑う。私の剣幕が可笑しいのか、私たちがこれまで何度も似たようなやり取りを繰り返しているからなのかは分からないけれど。
 そして、この手のやり取りの結末は、毎回ほぼ同じ。
「それなら、三分の一は出してもらうよ」
 土井先生はそう言うと、雑誌を閉じた。
「旅館、今週中に予約してしまおう。私は帰ってからネットで見ておくから、名無しさんは雑誌な。火曜の夜には決めてしまおうか」
「……はい」
 どうしよう。
「不安?」
 胸中を見透かされたようで、どきりとする。
 否定も肯定もできずにいると、土井先生は柔らかく笑んだ。
「絶対にキャンセルしたりしないから」
 心配してるのはそこじゃないんです。とは言えずに、私はただ笑みを返した。

 いつもの停留所で帰りのバスを待つ。
 沈みかけた夕日が照らす土井先生の横顔を、そっと盗み見る。
 先週も同じ時刻のバスに乗ったけれど、もっと日が高かった。よくよく周りを見てみれば、通りの木々も夏の色を無くしていた。
 もう、夏が終わってしまう。
「もう秋だな」
 先生が静かにそう言った。
 似ているけれど、違うことを考えていた。擦れ違っているようで、なんだか切なくなってしまう。土井先生の大きな手に触れたくなったけれど勇気はなくて、足元から伸びる影が重なるように後ろにずれる。ぴったりとくっついて影はひとつになり、私たちの隙間が埋まる。
 本物の私たちは遠くて、本当に言いたいこともろくに言えない。
「名無しさん? バスが来たぞ」
「あ、はいっ」
 慌てて顔を上げて、パスケースを取り出す。
「じゃあ、気をつけて」
「はい。先生も」
「また。……夜に、電話すると思うけど」
 頷いてバスに乗り込んだ。
 一番後ろの座席に座り、窓越しに手を振る。
 アナウンスと共にバスは動きだし、土井先生の優しい笑顔が遠ざかっていく。
 豆粒みたいになった先生が歩き出したのを確認してから、ようやく私は座席に体を預けた。
 響かないようにこっそりと、長い溜息を吐く。
 ど、ど、ど、ど、どうしようっ。
 一泊旅行が決まってしまった。
 先生はどうして急に泊まりで旅行する気になったのだろう。旅行雑誌のせいだろうか。夏休みには少し期待をしていたけれど、何もなかったので完全に油断していた。
 泊まりということは、やっぱりそういうことなんだろうか。恋人同士だし、私だって成人しているし、成り行きとしては自然なことなのかもしれない。
 まさか先生に限って、と思わなくもないけれど、恋人同士の一泊旅行で何もないなんて今時おかしい。私の友達だって彼氏と旅行くらい行っている。
 でも、先生はそんなつもりはないかもしれない。本当に、ただ単に一泊するだけ。行きがかり上、同じ部屋で寝泊まりするだけで、それ以上も以下も考えていないかもしれない。
 ああ、でもやっぱり、考えていたら、どうしよう。全く何も考えてないわけはないだろうし、その気がないと言われるものショックだ。
 でも、私、どうしたらいいのだろう。
 いや、どうもこうもないのだけれど。でも、だって、そんな。
 不埒な想像をして、恥ずかしさのメーターが振り切れた。叫びだしたい衝動に駆られて、慌てて鞄に顔を埋める。
 バスの中で私は一体何をしているのだろう、とふと我に返る。
 「どういうつもりですか」なんて絶対に訊けない。それどころか私がそんなことを考えているなんて土井先生に知られたら、恥ずかしくて死んでしまう。
 もう、先生ってば!
 責任転嫁してみる。というか実際、先生のせいだ。私ばかりこんなに悩んで不公平だ。
 バスの座席でできるだけ静かにじたばたして、頬の熱が引くのを待った。

 帰宅後に改めて雑誌を見ていると、カップル向けのプランも充実していて、あちこち目移りしてしまう。けれども「これがいいです」と自分から言い出すには、どれも気恥ずかしいものばかりだ。私と土井先生で利用するなんて、なんだか想像がつかない。
「ここのアメニティいいなぁ。浴衣も選べる……露天風呂付き……絶対無理」
 土井先生とならどうなってもいいとは思うのだけれど、確かにそう思ってはいるのだけれど、急に決まった一泊旅行にどうしても頭がついていかない。
「日帰りの方が気楽だったなぁ……」
 露天風呂は諦めて、料理や値段を見ながらカップル向けのものでも比較的落ち着いたプランに付箋を貼っていく。
 友達との旅行だったら、ただ楽しみなだけなのに。紅葉狩りなんて口にしなければ良かった。ついそう考えてしまい、溜息を吐く。
 余計なことは忘れて宿探しに集中しよう。
 先生はどんな旅館が好みなのだろう。
 料理が美味しいところかな。泊まりだし、少しはお酒も飲むのかな。旅館の方がいいと言い出したのは先生だし、実は温泉にこだわりがあったりするのかな。
 電話が来たら、それとなく訊いてみよう。先生はいつも私の希望を優先してくれるから、今回は先生の気に入りそうな宿を選ぼう。
 でもきっと、知らないうちに誘導されて、私好みの宿に決まってしまうんだろうな。
 甘い期待と不安が私の胸をじりじりと焦がしながら、晩夏の夜は更けていった。

 瞬く間に紅葉狩りの日が来た。
 駅を出てすぐに、私は眉間にしわを寄せて立ち止まった。肩にはショルダーバッグ、両手にも荷物を持ったまま左右を見渡す。
 電話してみようかな。そう考えてバッグに手を伸ばすより早く、土井先生の姿が目に飛び込んだ。
 先生は、秋空の下で大きく手を振る。
「名無しさん!」
「あっ……す、すみません」
 車に駆け寄りながら謝ると、土井先生は呆れ顔で笑う。
「昨日、ちゃんと言っておいただろう」 
 そうだった。今日はレンタカーだということを、今になって思い出した。車種と色をしっかり聞いておきながら、うっかりいつものように山田先生の車を探してしまった。
 車を見つけられずに焦る私を見かねて、土井先生は車から降りてきてくれたようだった。
「大荷物だな。一泊だぞ?」
 からかうように言いながら、土井先生は私のボストンバッグを後部座席に置いてくれる。
「全部、後ろに置く?」
「あ、これは持って乗ります」
 空いた手でショルダーバッグのストラップを持ち上げてみせる。
「じゃあ、そっち。ほら」
 再び差し出されたその手に、保冷バッグを渡していいものかと躊躇う。
「名無しさん、それも抱えているつもりか?」
 そのほうがいいかな、と考えながら口を開く。
「えっと、これ、飲みものとお菓子なんです」
 ああ、と納得したように土井先生が呟く。
「それなら、1本ずつ出しておこうか」
「コーヒーとお茶と炭酸飲料と水……」保冷バッグのファスナーを開く。「どれがいいですか?」
「お茶をもらおうかな。随分持ってきたんだな」
「何がいいのか分からなくて迷ってしまって……でも、途中で好きなもの買えばよかったんですよね」
 先生は意外そうな顔をする。
「それもありだな。でも、名無しさんは気が利くな、と感心したところだったのに」
 土井先生が笑いながらペットボトルを取り出す。それに続いて、私は炭酸飲料とお菓子を手に取った。
 ファスナーを閉めようともたつく私の手から、先生は保冷バッグを取り上げる。
「貸しなさい」
 と言って、先生はすぐに顔をしかめた。
「思ったより重いな」
 大変だっただろうに、と先生は独り言みたいに言いながらファスナーを閉じたバッグを後部座席に置いて、静かにドアを閉めた。
「やっぱり家まで迎えに行けばよかったな」
 申し訳なさそうな顔をしながら、土井先生は助手席のドアを開けてくれる。
「行こうか。乗って」
「はい」
 土井先生が運転席にまわるのを待っていると、急に心拍数があがった。さっき走ったせいではなく、緊張しているからだ。
 一泊旅行だということを意識しすぎて、普段通りに振る舞う自信がない。思い返してみると、もう既に言動がおかしいかもしれない。
 運転席に乗り込んだ先生と目が合うと、彼はいつもの笑顔を私に向けた。
 大きな手が、ドリンクホルダーにお茶のボトルを収めた。捲りあげたパーカーの袖からのぞく前腕には程良く筋肉がついていて、男らしいのに綺麗なようにも見える。
 大きなロゴが入った紺色のポロシャツは、先月一緒に選んだものだ。ボタンをひとつも留めていないので、鎖骨と、少し日に焼けた肌がちらちらと覗いて妙に色っぽい。
 触ったら、どんな感じがするのだろう。
「名無しさん」
「は、はいっ」
 返事をしながら急いで正面を向く。
 見ていたのがバレたのかもしれない。
「シートベルト」
「あっ!」
 慌ててシートベルトに手を伸ばした。いつもと違う車なので、タングをバックルに差し込むのに少し手間取る。暫く金属音をガチャガチャと鳴らして、ようやくかちっとはまった音がした。
「……すみません」
 謝ると、先生はただ可笑しそうに笑った。
 後方を確認すると、いつもと同じぼさぼさの髪が揺れるのを、縮こまりながら見ていた。
 運転中の横顔は今日もかっこいい。一日中一緒にいられると思うと嬉しいけれど、やっぱり緊張する。
 明日まで持つだろうか。
 昨日テレビで放送されていた映画の話をしながら、精一杯の平静を装い続ける。
「2作目、観ましたか?」
「観てない。面白かった?」
「私も観てないです」
「なんだ。今度、レンタルしてみようか」
「うーん……」
「興味ない?」
「だって、2作目って大体……」
「駄作?」
「駄作は言い過ぎですけど……ちょっとあれなのが、多いかなぁって」
 先生は笑う。
「じゃあ、面白いかどうか一緒に確かめてみよう」
 何気ない言葉にどきりとする。先生の部屋に行ったことはまだないけれど、これは誘われているのだろうか。いやいや、考えすぎ。
 どぎまぎさせられながら、見慣れた街を走り抜けていく。
 信号待ちの車の後ろについて、緩やかにブレーキがかかった。
「土曜だから車が多いな。この先、渋滞しないといいんだが」
 静かに言いながら、土井先生は左手をペットボトルに伸ばした。
 けれども、キャップを開ける間もなく信号が青に変わり、車は再び流れに乗って進みだす。
 先生の指は、膝の上に乗ったペットボトルのキャップにかかったままだ。
「先生……開けますよ」
「ん、頼む」
 ボトルを受け取ろうとした私の指が、先生の手を掠めた。予期していなかった感触にすっかり動揺してペットボトルを落としそうになり、慌てて左手を添えた。
 悟られないように急いでキャップを開け、先生に渡す。
「ありがとう」
 お茶を飲んだ土井先生は、ペットボトルをホルダーに戻すと小さく笑った。
「今更じゃないか?」
「……何がですか?」
 意図が分からず聞き返すと、先生はますます可笑しそうに笑う。
「手なんて、しょっちゅう繋いでるじゃないか」
 じわりと汗がにじんで、車内の温度が一気に上がった気がした。
「それはそうですけど……」
 そうかもしれないけれど、今日はいつもとは違う。まず車が違うし、これまでにない遠出だし、そのうえ一泊旅行だ。あとは何だろう。
 とにかく、普段は気にせず繋ぐ手も今日は意識せずにはいられない。先生の瞬きひとつにも、深い意味があるんじゃないかと思ってしまうくらいに。
 けれども先生はきっと違うのだろう。
 余裕綽々な横顔を盗み見て、小さく胸が痛んだ。

 
「えーっ、大変じゃないですか。その後どうしたんですか?」
「そうなんだ。しかも、そこに山田先生が――」
 続くのは、他愛ないお喋り。
 喋り続けていれば緊張は多少和らぐし、車という密室を出てしまえばどうにか自然に振る舞えている。
 お蕎麦を食べたり、道の駅をのぞいてみたり。一度通り過ぎた神社にわざわざ戻って参拝して、小さな美術館にも立ち寄った。
 旅館へ行くには遠回りになってしまうけれど、折角なので展望スポットに向かっているところだ。
 車窓からの眺めは、まるでちぎり絵みたいだ。薄い雲の広がる青空を背景に、所々に緑を残しながら鮮やかに秋色に染まっている。
 綺麗だけれど、この幸せな時間も落葉と共に終わってしまうと告げられているような気分になって、ふと寂しくなる。
 私たち、来年も一緒にいるのかな。楽しければ楽しいほど、そんな風に考える自分がどこかに潜んでいるのを感じる。
「もう少し早い時間に来れたらよかったな」
 駐車場に車を停めて、先生はそう言った。
 翳り始めた日差しのせいで、景色は鮮やかさを失いつつある。そのせいか、停まっている車は思いの外少ない。
「でも、混んでないからゆっくり眺められますよ」
 本音と励ましを込めてそう言いながら、私は軽い足取りで車から離れた。
 土井先生が追いつくのを待たずに、パノラマを見下ろす。
「夕日が射したらきっと綺麗ですよ」
 先生に声を掛けようとして振り返るのと同時に、風が吹いた。
 秋の香りが立ちこめる。
 夏物の薄手のカーディガンは風をよく通す。失敗した。街中ならまだしも山の方へくるなら、ジャケットかストールを一枚持ってくるべきだった。そう考えながら襟元をなぞると、自分の指先の冷たさに驚いた。
「冷えるな」
 土井先生は私の思考を読んでいるかのように言って、更に続ける。
「もう旅館に行こうか? 温泉に入れば温まるし」
「そうですね……」
 と答えたものの、動く気にならない。少なくとも、旅館に向かうのはもう少し後でいい。
 努めて自然に先生に背を向けて、景色に見入る振りをする。見頃にはまだ早いけれど、とても綺麗だ。
「名無しさん?」
「眺めが綺麗だから、勿体ない気がして」
 もう少しここにいようか、という言葉を期待したものの、返ってきたのは真逆のものだった。
「それは分かるが、明日また来てもいいし、旅館の周りも紅葉が綺麗なようだから、暗くならないうちに向かわないか」
 風邪をひいてもつまらないだろう、と付け足して土井先生が私の手を取った。
 途端に、心拍数があがる。
 大きな手のひら。長い指。きめの粗い肌、少し高い体温。
「手、冷たいじゃないか」
 先生に手を引かれながら黙って首を横に振ると、土井先生はふっと笑って、からかうように指を絡めてきた。
 体中の熱と心臓が手に移動したような錯覚に陥ってしまう。
「今日はもう、旅館に行ってゆっくりしよう。明日もあるんだから」
 土井先生は子供に言い聞かせるようにしながら、私を助手席に座らせた。
 座席に身を沈めてショルダーバッグを重石のように抱きかかえると、熱を持ったと思った手は冷たくて、そのちぐはぐな感覚が土井先生と私みたいだと思った。
 どうにもならない、温度差。
 車が走り出してからずっと、私も先生も黙っていた。
「あと10分くらいで着くよ」
 突然響いた普段通りの先生の声音に、身体が小さく跳ねる。
 バッグを抱える手を見つめていた顔を上げようとして、自分が車酔いをしていることに気がついた。
 ずっと下を向いていたし、慣れない車の臭いのせいもあるかもしれない。
「名無しさん?」
 返事をしない私を怪訝に思ったのか、先生の声に心配そうな響きが混じる。
「どうした? 大丈夫か?」
「……少し、気分が……」
「酔ったか? 窓、開けようか」
 風が入る程度にパワーウインドウが下がり、冷たい空気が小刻みに髪を揺らす。
 心地よさと申し訳なさ、緊張と不安も渦巻いて、ぎゅっと目を閉じた。
「一旦、車停めようか?」
「……いえ、そこまで……酷くないです」
「なら、捕まらない程度に急ごう」
 旅行中の車酔いなんて最悪なはずなのに、私はどこかほっとしていた。

 ロビーの椅子に座って、フロントでチェックインを済ませている土井先生の背中をぼんやりと見つめる。
 迷惑を掛けてしまったことに落ち込みながら、治まらない弱い吐き気にぎゅっと目を閉じる。
「名無しさん」
 窺うような声が降ってきて顔を上げると、土井先生が心配そうに私を見ていた。
「部屋に行こう。立てるか?」
 小さく頷いて立ち上がろうとした私の手から、先生はショルダーバッグを取り上げる。自分で持てます、と私が言うのを制するかのように、バッグを素早く肩に掛ける。
「おいで」
 背中をそっと支えられながら、柔らかな明かりの灯る廊下をのそのそと進む。
 着いた部屋は、写真で見るよりずっと豪華だった。
 ふたりで泊まるには広すぎると感じるような和洋室で、障子で仕切られた奥にはベッドがふたつ並んでいる。
「……綺麗な部屋ですね」
「思っていた以上だな」
「そうですよね」
 と答えながら小さく笑って、私はすぐに顔をしかめた。できるだけ静かに呼吸をする。
「まだよくならないか?」
「少しだけ」
「奥で横になる?」
「いえ、起きてる方が……楽、かな……」
 私が広縁の椅子に腰を下ろすと、土井先生はショルダーバッグをその側に置いてくれる。
 換気をしておこうか、と独り言みたいに言いながら、先生は窓を少し開けた。
「すぐに戻る」
 短く言って、先生は急ぎ足で部屋を出た。そして、どこへ行ったのかと私が考えるより先に、ペットボトル入りの炭酸飲料を手に戻ってきた。
「炭酸水がいいと思ったんだが、甘いのしかなかった」
 テーブルに置かれたペットボトルを見ながら、思考が停止しかけた頭を傾ける。
 どうして飲まずにここに置くのだろう。
 ぼんやりとそう考えながら視線を先生に向けると、彼は微苦笑していた。
「飲んだら少しすっきりすると思うが……」
 と困惑気味に言われてしばらくした後、私は「あっ」と声をあげた。
「ありがとうございます」
 慌てて手にしたボトルの中で、オレンジ色の液体が揺れる。
「無理して飲まなくてもいいから……飲めそうだったら。私は車から荷物をおろしてくるから、名無しさんは休んでいなさい」
 私も行きます。
 先生の背中にそう言い掛けて、すぐに口を閉じた。
 私の荷物は、重くもないボストンバッグひとつだから自分で持てるはず。でも、よろめきながらついて行っても、かえって迷惑かもしれない。そもそも先生は私を気遣って手ぶらで部屋に連れてきてくれたのに。
 ごめんなさい、お願いします。ううん、ありがとうの方がいいかな。
 私がまごついている間に、先生は部屋を出て行ってしまった。
「今日、ダメだ」
 一人きりの部屋の中、自分に呆れて溜息を吐く。
「緊張しすぎたかなぁ……」
 思いがけず大きく響いた声に、自分自身で恥ずかしくなってしまう。
 炭酸飲料を一口飲んで、ほうっと息をはく。
 思ったより甘くはなく、柑橘の爽やかさが広がって気分の悪さが和らいだ。
「私、何やってるんだろ」
 椅子の背もたれに体を預けながら窓の外に目をやると、先生が言っていた通り紅葉に囲まれている。
 時折、風が木々を揺らす音が聞こえる。
 ボトルのキャップを手の中で弄びながら色づいた景色をぼんやりと眺めていると、部屋のドアが開く音がした。
 ぱっと顔を向けると、両手に荷物を持った土井先生と目が合った。
 先生は、にこりと笑う。
「荷物、ここに置くよ」
 広縁の手前、部屋の隅に私のボストンバッグと、先生のダッフルバッグが置かれる。
「すみません。ありがとうございます」
「保冷バッグ、中身は空だから車に置いてきたんだが……構わないか?」
「はい。もちろん」
 私はそう答えながらも、白茶けた黒のダッフルバッグ眺めていた。
 初めて見たけれど、いつから使っているのだろう。
 土井先生は私の視線に気が付いたようで、バッグを手に取りながら決まり悪そうに口を開いた。
「ボロボロだろう? 扱いが悪いからというのもあるんだが、学生時代からずっと使ってるんだ」
「お気に入りなんですね」
「そういうわけでもないんだが……」
 学生時代からずっと。
 先生にとってこういう旅行は初めてではないのだと、突然思い知らされた。私が初めての彼女なわけはないと分かっていたのだけれど、改めて証拠らしきものを目の前に突きつけられると、到底穏やかな気持ちではいられない。
 具合の悪さは吹き飛んだのに、視界がぐらぐらと揺れているような気がする。
 ボトルのキャップを必要以上に強く、ぎゅっと締める。
 誰といつどこへ行ったのか知りたくて、同時に何も知りたくなくて、そんな過去は消えてなくなればいいのに、なんて、どろどろとした嫉妬心が胸の奥で渦巻く。
「まだ十分使えるんだが……」
 先生はダッフルバッグを掲げて眺めると、ひとつ頷いてから畳の上へと降ろす。
「新しいのを買おうかな」
「……使えるなら……勿体ないんじゃないですか?」
 ペットボトルをテーブルの上に置くと思いがけず大きな音がしたけれど、先生は少しも気にとめる様子はなかった。
「そうだなぁ。滅多に使わないならこれでいいんだが、これからは名無しさんと旅行へ行く機会が増えそうだし……いい機会じゃないかな、と」
 先生が照れくさそうに笑うのを見て、私の唇は無意識に弧を描いていた。
「今度、一緒に探しに行きましょう」
 見苦しい心をひた隠しにして、努めて明るく言う。
「名無しさんのセンスを当てにしてるよ。あ、きり丸には内緒だぞ」
 不意に窓の外で木々の揺れる音がして、室内に風が吹き込む。
「そろそろ、窓を閉めよう」
「私が……」
 と言いながら立ち上がったけれど、リーチの差で負けてしまう。
「いいよ」
 手持ち無沙汰のまま先生の隣に立って、錠を掛けるのを見ていると、土井先生がこちらを向いた。
「さっきより、顔色がよくなったな」
「……はい。もう大丈夫です」
「それならよかった」
「先生」
 静かに吸った空気を言葉にするのを躊躇って、唇を噛む。
「……迷惑掛けてごめんなさい」
「いや、これっぽっちも迷惑ではないが……もしかして、体調が悪いのをずっと我慢していたのか?」
 首を横に振る。
「ちょっとだけ、疲れちゃったんだと思います」
「無理はしないで、しっかり休みなさい。明日も具合が悪ければ早めに言うように」
「……学校の先生みたい」
 先生だもん、と言って土井先生が笑う。
「名無しさんだって、先生、先生、って呼んでるくせに」
 からかうように、くしゃくしゃっと髪を撫でられる。ほんの一瞬、髪が指に絡んで、それが心地良い。
 頭を撫でられるのは久しぶりだ。
 付き合う前の方が、触れられることが多かった気がする。私が意識しすぎているだけかもしれないけれど。先生はいつも、私が本気で身構えると丁度いい距離を取ってくれる。
 私のことを考えてくれるのは嬉しいけれど、もどかしくて、物足りない。
 もっとどうにかして、私たちの距離がぐっと縮まればいいのに。
 他の誰も入り込めないくらい、昔いた誰かを追い出せるくらい。
 私の髪を滑り降りて離れていく先生の手を引き留めるように、口を開いた。
「……は」
「ん?」
「は、はん……」
 あと一息だけど、やっぱり無理だ。
「はんぺん! って、お、おいしいですよね!」
「ないないない」
 先生は勢いよく首を横に振る。
 そうだ。練り物嫌いなんだった。
 忘れていたことと、自分の意気地のなさに苦笑する。
 半助さん、と呼んでみようとしたのだけれど、恥ずかしさが勝ってしまった。その結果、より一層恥ずかしくて居たたまれない状況を作ってしまった。
 誤魔化す方法も別の話題も全く思いつかなくて、ただ困り果てながら椅子の背もたれの曲線をなぞる。
「いつになったら、名前で呼んでもらえるんだろうなぁ」
 先生がわざとらしく意地悪な口調で言うので、私も同じような口調で返す。
「ずっと、ずっと、ずーっと先生って呼びます」
「元気になったみたいだな」
 くすりと笑う土井先生に余裕を感じる。
 それにむっとして、もっと言い返したくなった。
「土井先生は、永遠に先生ですから!」
 ぷい、と先生から顔を背けて、わざと怒ったような態度で広縁を離れる。
 土井先生だって、少しは困ればいい。私に好かれているかどうか不安になって、心配してみればいい。今日一日、今現在、私がどんな気持ちでいるか、これっぽっちも気付かないのだから。
 見透かされているように思うことも多いけれど、本当に分かってほしいことは届かない気がする。
 ベッドがある方へ行こうと障子の脇をすり抜けようとすると、障子の枠に手をついた土井先生の腕がそれを阻んだ。
 驚いて振り向くと、先生の顔が目の前にあった。
 仕返しの悪戯かと思ったけれど、瞳の奥には真剣な色が浮かんでいる。困らせたのではなくて、怒らせてしまったのかもしれない。
 後悔したのと同時に、唇に柔らかいものが触れた。思わず顔を引こうとすると顎を長い指で押さえつけるように支えられ、上を向かせられる。
 嫌ではないけれど心の準備ができていなくて、不意打ちのキスにたじろぐ。
 指先は強引なくせに、先生は触れるだけのとびきり優しいキスを何度も繰り返す。
 唇を重ねた回数を数え切れなくなった頃、温もりがそっと離れた。
 それでもまだ、互いの吐息が混ざる距離にいる。
 土井先生の親指が、私の湿った唇をゆっくりとなぞる。
「名前を呼んでくれるまでやめない……って言ったらどうする?」
 普段よりずっと低い声。
 ふたりきりの部屋に響いた声音は冗談を言っているようには聞こえなくて、私の体は強ばった。
 先生のポロシャツのボタンに視線をやったまま、正解を探して考えを巡らせる。
 考えるけれど、どうすればいいのか分からない。
 やめないでほしいだなんて絶対に言えないし、名前を呼ぶのも恥ずかしい。つま先から頭のてっぺんまで緊張がぎゅうぎゅうに詰まってしまったようで、もう唇も視線も動かせない。
 本当は「半助さん」と呼んで、私からキスをしたい。でも、そんな勇気は湧かない。だから、せめて名前だけでも呼べたなら、どんなにいいだろう。
 たった四文字。
 それを口にできない自分の情けなさに泣きそうになって、目をしばたたく。
「すまん」土井先生は私を抱き寄せた。「……意地悪だった」
 胸に響く早鐘のような鼓動は私のものか先生のものなのか、近すぎて分からない。
 土井先生が小さく笑って、私に回していた腕をゆるめた。
「冗談だから」
「……分かってます」
 精一杯の嘘をついて、火照った顔を隠すために先生に背を向けた。

 途端、ベッドが目に入った。
 ついさっきまで自分からそこへ向かおうとしていたくせに、存在をはっきりと認識すると同時に、既に熱い頬がより一層熱を持つ。
 自分から罠にかかりにきたみたいだ。
 キスひとつ、名前ひとつでこんなにも翻弄されているのに、これ以上どうにかなるなんて考えられない。
 少なくとも、今日は。
「……名無しさん?」
 先生は遠慮がちに私を呼ぶ。
「名無しさん……もしかして、怒ったのか?」
「怒ってないです」
 焦って即答してしまう。
 そのくせ振り向けるわけでもなく、ただ立ち尽くす。
「名無しさん」
 緊張が伝わってしまいそうで、うまく返事ができない。
 いつも私は、どんな受け答えをしていただろう。
「やっぱり怒っているんじゃないのか?」
「……怒ってなんか、ないですってば」
「だったら、どうしたっていうんだ……」
 口を開けば開くほど、考えていることがばれてしまいそうで怖い。先生を意識しすぎて変な態度になってしまうなんて、恥ずかしすぎる。今夜はここでふたりきりなのに。
 どうなるのだろうと考えて、また、泣きそうになる。
 ばれたら絶対に呆れられる。これだからお子様は、なんて思われるかもしれない。 
 でも、いっそ、もっと強引に進めてくれたっていいのに。
「名無しさん?」
 突然肩に手を掛けられて、体が大きく跳ねた。
 恥ずかしい。
 過剰反応だ。
 羞恥心から逃げようとする私の腕を、土井先生が掴んだ。
「一体どうしたんだ?」
 とにかく離してほしくて体をひねると、土井先生の足に私の足がかかった。
「うわっ」
「きゃっ」
 土井先生は私を支えて持ちこたえようとしたのだろうけれど、慌てた私が思い切りしがみついてしまったせいで、完全にバランスを崩してふたりでベッドに倒れ込んだ。
 思ったような衝撃はなく、勢いよく掛け布団に沈んだだけだった。
 ほっとしたのも束の間、大きな手が私の頭を守るように抱え込んでいることに気付く。
 そして、視界は紺一色。
 先生が深く息を吐く。

「危ないだろう……怪我するぞ」
 先生の呆れたような声が体に直に響いて、私の動悸が早くなる。顔どころか、全身真っ赤なんじゃないだろうか。
「だって……」
 思わずぎゅっと縮こまると、先生の手が怪我の有無を確かめるかのように頭から肩と背中に降りてくる。
「名無しさん? 本当にさっきから何を……」
 先生が小さく息を飲むのが分かった。
「……もしかして」
 先生は言い淀む。
 私は心の中で悲鳴を上げた。
 もう続きは言わないで。先生、お願いだから。何かに気付いたのだとしても、適当に誤魔化して。
 でも私はそこはかとなく予感していた。先生の真面目さと鈍感さが、ここぞとばかりに発揮されることを。
「その……私の勘違いかもしれないが……変なこと、考えてないか?」
 変なことって!
 否定と非難の意を込めたつもりで勢いよく顔を上げたけれど、ばっちり目が合った瞬間に、それは肯定に変わってしまった。
 先生の頬が、ほんのり朱に染まる。
「いや、まぁ、状況的に変というわけでもないか……うーん」
 先生は視線を泳がせながら、わざとらしく咳払いする。
「えーと……その、一応言っておくが……その……夜……寝るときは、だな……」
 どきっとする単語に身じろぎしてしまうと、先生の顔は更に赤くなった。
「ええと……私は、向こうに布団を敷いて寝るから……名無しさんはベッドで寝なさい」
 先生の言葉に、無意識に眉間にしわが寄った。
「……でも」言われたことを反芻しながら、絞り出すように言う。「ベッド……2つありますよ」
「それは、そうなんだが……」
 土井先生は見たことがないくらい真っ赤だ。
 でもきっと、私の顔はそれよりも赤いはず。私たちはベッドの上で密着したままでいるのだから。押しのけて離れようかとも思ったけれど、それはそれで「思い切り意識していますよ」と告げるようなもので躊躇われる。
 心臓の鼓動が部屋に響くほど大きくなったような気がした瞬間、先生は私に回していた腕を解いて起きあがり、すぐに私のことも引き起こした。
 私たちはお互いに視線を逸らしたまま、半人分の距離をあけてベッドに腰掛ける。
「まぁ、その……ほら、隣のベッドで寝るっていうのは……」
 しどろもどろに言うので、余計に居たたまれなくなる。
「ダブルベッドでなくても、近すぎると色々と、支障が、あるわけで……」
 もういいです。
 もういいいですってば。恥ずかしいからもうやめて!
 羞恥心の固まりになっている私は、爆発するか消滅したくなってきてしまう。
 ちらりと横目で先生を見ると、真面目な顔で懸命に言葉を選んでいるようだった。
「つまり……その……まだ……早いかな、と」
 言い終えた先生が誤魔化すように弱々しく笑うのを見て、私は俯いた。
「……名無しさん……気を悪くしたか?」
 土井先生の不安そうな声に、慌てて首を振ったけれど、どう答えていいのか分からない。
 安堵と羞恥と、少しの落胆に、強い開放感。それらが私の心と体を駆け巡って溜息になった。
 ベッドに寝転がって、大きく息を吐く。
「ひょっとして……心配、してたのか?」
 私の顔をのぞき込みながら眉根を寄せた先生に向かって、そっと頷く
「……朝からずっと?」
「もっと、前から」
「そうか……ちゃんと、話をすればよかったな」
 先生の様子はすでに普段通りに戻っている。
 さすがに先生は余裕だ。私ばっかり、いっぱいいっぱいで悔しい。
「だが、改まって話すのもどうかと思って……難しいな……」
「私……泊まりって、そういう意味かなって……」
 とんでもないことを言っている、と気付いたのと同時に、私の隣に土井先生が横になった。
「それなら」疲れ切った様子で息を吐く。「我慢しないで期待に応えればよかったな」
 先生は冗談めかして言うと、ごろりと向こう側に転がってベッドに突っ伏した。
「き、期待なんか、してないですっ!」
 背中を軽く叩くと、先生は愉快そうに笑った。
「本当は」
 と、突っ伏したまま言う土井先生の声のトーンが、また真面目なものに戻る。
「部屋を二つ取るべきか、かなり悩んだ。名無しさんがどう思うか分からなくて……相談すればよかったんだろうが、はっきり訊くのも不安というか……旅行に行きたくないと言われるかもしれないと思って、黙っていたんだ。ずるいとは思ったんだが……私は名無しさんと一緒に出掛けたかったし」
 ごめん、と溜息混じりに言う。
 信じられないけれど、お互いに同じようなことを考えていたみたいだ。
 もっと早く気づいていれば、純粋に旅行を楽しめたのに。けれどもなんだか、少し嬉しい。
「名無しさんは全く意識していないのか、私の考えに気付いているのかと思っていたんだが、違ったんだな……不安にさせてごめん」
 見えないと分かっていながら、首を横に振る。
「いえ……私もちゃんと話せばよかったって……」
 確かに不安だったけれど、私は私なりに覚悟を決めてきたのだ。そのせいで今日一日緊張しっぱなしではあったのだけれども。
 控えめな勝負下着を2セット買って、実は今も身に着けている。もしそうなってもいいようにと思ったのだけれど、無駄な買い物をしてしまったかな。
 ひとつだけ、本当に気がかりなことを訊いてみることにした。
「先生は私のこと……子供だと、思ってるわけじゃないですよね?」
 まさか、とすぐに返ってきてほっとする。
「そうは思ってない。ただ、今日だとも思ってない。意味……伝わるか?」
「なんとなくは。でも……」
「でも?」
 いつの間にか、寝ころんだままで向かい合っていた。
 伝えたい気持ちがうまく言葉にならない。
 私は別に、先生が望むなら今日だってよかったのに。
「私、土井先生なら……」
「困らせないでくれ」
「そ、そんなつもりは……ない、です。私はただ、正直に……」
「正直なのは嬉しいが……」
 先生の顔が近づいてきて、私はそっと目を伏せる。
 土井先生は、私の顔にかかった髪を指先で払いながら囁く。
「本当に困るのは、名無しさんだぞ」
 からかい混じりの色っぽい声にぎゅっと目を閉じると、唇に熱いものが触れた。
 啄むようなキスを繰り返していると、突然、腰をぐっと引き寄せられて先生の膝が私の脚の間に入ってくる。反射的に足を絡めると、それを合図のようにしてキスが深くなっていく。
「んっ……」
 慣れないキスについていくのに必死で、もう何も考えられない。
 いつの間にか視界の端に天井が見えた。先生の体の重みを感じながら、私の体はベッドに沈む。
「……名無しさん」
 キスの合間に、湿った息が零れる。
 唇で唇の厚さを確かめ合って、熱くうねって絡む。息が苦しくて、でも心地よくて、もっと、もっと、先生を知りたい。
 先生の背中に回した手をパーカーの中に潜らせ、薄い布越しに肩甲骨に触れる。
 耳に頬に、首筋に、少し伸びた髭が触れてチクチクする。
 土井先生の熱い手のひらと指先は、私の頬から首筋を伝い降り、鎖骨をくすぐると躊躇うように止まった。
 続きをせがむようにポロシャツをぎゅっと掴んだ途端、心地よい重みと熱が離れていった。
 俯せになったまま黙っている先生の隣で、私は天井を見ながら口元を拭って静かに息を整える。
「名無しさん……」
「……はい」
「……散歩に、行こうか」
 もし私が断ったら、先生はどうするのだろう。
 このまま二人で部屋にいたらどうなるのだろう。
 土井先生の髪に、肩に、腕や背中に、手を伸ばしてみたい。触れたら、先生はどうするだろう。
 でも、私は――
「名無しさん、散歩に行こう」
 やっぱり、先生は私よりずっと私を解っている。
「はい」
「……すぐに行くから、駐車場の辺りで待っていてくれ」
「分かりました」
 そう答えながらベッドから降りる。
 僅かにふらつく足で部屋を移動しながら振り向くと、土井先生はまだベッドにうつ伏せになったままだった。
 洗面台の鏡でさっと髪を直し、部屋を後にした。

 茜に染まりつつある空を仰いで、火照りを冷ます。
 朝から胸にあった重たいものはすっかり消え去って、身も心も軽い。
 邪魔にならないよう気を配りながら駐車場の端を歩いて、乗ってきた車へ向かう。ただ待っていてもよかったのだけれど、なんとなくじっとしていられなかった。
 車の前まで行ったらUターンしよう。
 そう思ったのとほとんど同時に、靴音が近付いてくるのが聞こえた。
「名無しさん」
 気恥ずかしさを押し殺しながら、振り返る。
「お待たせ」
 そう言って、先生は照れくさそうに笑いながら私の隣に並んだ。
 何事もなかったような顔をされなかったことにほっとした。ぎくしゃくするのは嫌だけど、まるっきり普通の態度を取られるのも嫌だ。
 きっと私は、先生にも私と同じ気持ちでいてほしいのだと思う。それは無理だと知っていて、だから余計に。
「向こうに遊歩道があるみたいだ」
 蚊の鳴くような声で返事をしながら、先生の指す方へ歩いていく。
 私たちはごく自然な沈黙を選んだまま遊歩道を進む。日が沈みかけているので、心持ち足早で。
 赤、橙、黄、緑。夕日に照らされたそれぞれが引き立て合い、競い合うように秋の景色を作っている。山の寒さのせいか、既に散り始めているものもある。
 紅葉を眺める合間に、先生の横顔を盗み見る。
 前髪。短い睫毛。すっとした鼻。唇に、あごから首へのライン。
 秋色の眺めよりも、この横顔をずっと見ていたい。土井先生を独り占めできていることが幸せでたまらない。
「綺麗だな」
 突然の声に、慌てて正面を向く。
「そ、そうですね」相槌を打ちながら、あることに気付いた。「……水の音、しませんか?」
「近くに滝があるって、雑誌に書いてあっただろう」
「えっ、気付かなかった……」
 全く記憶にないのは、多分、ずっと他のことに気がいっていたからだ。
「そこを右に行くと滝に出るみたいだな」
 先生が指さす先には道標があった。
「ほんとだ。行ってみたいです」
「そうだな……でも、もう暗くなるから。明日、帰る前に寄ってみよう」
「……はーい」
「不貞腐れない」
「不貞腐れてませんっ!」
 照れ隠しに強い口調で答えて、道標まで走った。
 可笑しそうに笑いながら歩いてくる土井先生に、「からかわないで」と言うより先に、くしゃみがでた。
「それじゃあ、寒いだろう」
「寒くて出たわけじゃないです」
 可愛げのない受け答えをする私の肩に先生が脱いだパーカーをかけてくれると、洗剤と先生の匂いがして、どきりとした。
 さっきはあれほど近くにいたのに、少しも気付かなかった。
 柔軟剤ではないところが先生らしい。
「……先生も寒いんじゃないですか」
「名無しさんほどやわじゃない」
 ふーん、とわざとらしく言ってみる。
「やっと、いつもの名無しさんに戻ったな」
 屈託なく笑う。
 その笑顔が、私の胸の奥をぎゅっと掴んだ。
 どうしようもなく切なくて苦しい気持ちを、秋の気配がより強くさせる。
 土井先生が好き。
 好きで、好きで、大好きで、どうしたらいいのか分からない。際限なく挙げられる理由なんて意味がないくらい、好きでたまらない。
 抱きつきたい衝動を誤魔化すために、枝を離れて落ちてくる椛に手を伸ばす。
 葉は弄ぶように、ひらひらと私の指先をかわす。
「何をやってるんだ」
 指先を開いて閉じるのを繰り返す私を見て、土井先生が苦笑する。
「落ちてくるのがゆっくりだから、掴めるかなって思ったんですけど……やってみると案外早いです」
「名無しさんが鈍臭いだけじゃないのか?」
「そんなことないですよ」
「そうか?」
 と言って、土井先生は降ってくる椛を指先でひょいと挟んだ。
「ほら」
 自慢げに軽く掲げた椛を、先生はすぐに手放した。
「えっ……どうしてそんなに簡単に……」
 悔しくなって、私は降ってくる椛を捕まえようと再度試みた。むきになって何度も挑戦するけれど、全部逃げていく。
 やっぱりだめだ。
 取った、と思った瞬間にひらりとかわされる。本当にうまくかわされる。
 まるで土井先生みたいだ。
 翻弄される私をくすくすと笑いながら、先生が私の後ろに回った。
「名無しさんはこうした方がいい」
 背中で、パーカーのフードが潰れる感触がした。
 先生の手に包み込まれた私の両手は、あっという間に椛を掬うように一片受け止めた。
「な?」
 短すぎるその声ですら、耳元で甘く響いて私の胸を焦がす。
 触れた箇所全てに余韻を残しながら、先生は私から離れていく。
「先生」
 と、背中を意識しながら呼びかけると、短く優しい声が返ってくる。
「ん?」
「……来年も」
 一緒にいられますか? 旅行に連れてきてくれますか?
 どんな言い方がいいだろう。負担にならない言葉はどれだろう。
 迷いに迷った私が口を開くより先に、風が吹いた。
 あまりの強さに、私は咄嗟に目をぎゅっと瞑って、椛を守るように手を合わせた。
 頭上と足下の木の葉がそれぞれ立てる乾いた音の中、小さな砂粒が頬や手にぱらぱらと当たる。
「段々と風が強くなっているな」
 困ったような声に目を開けると、しかめっ面の土井先生が見えた。
「明日はそうでもないといいんだが」
 言いながら、先生は私の髪を手櫛で整えてくれる。
「それで、来年がどうした?」
 わざわざ訊いてくれたにもかかわらず、私はすっかり言い出しづらくなってしまい、首を横に振った。
「いえ……暗くなってきたし、部屋に戻りましょう」
「そうだな。名無しさん……それ、持って帰るのか?」
「はい」
 頷いて、守っていた小さな葉をつまみ上げる。
 綺麗な形の、真っ赤に染まった椛。
「帰ったら押し葉にして、栞を作ろうかなって」
 今日の記念に。と、心の中で付け足す。
「先生……何で笑うんですか?」
 くすくすと笑いながら、土井先生は屈む。
「なんだか名無しさんらしいな、と思って」
 私は先生からどう見えているのだろう。
 先生は椛を一枚拾うと、私が羽織っているパーカーのポケットにそれを入れた。
「私の分も頼む」
「はい」
 先生の言葉を嬉しく感じながら、私も椛をポケットにしまう。
 ポケットから手を出すと勢いのついた指先が土井先生の腕を掠めて、私は勢いよく顔を上げた。
「先生……腕、冷たいですよ」
「そりゃ多少は冷えるさ。風も強いからな……でも、さっきも別に、手は冷たくなかっただろう? 平気だよ。ほら」
 差し出された手を取ると、確かに冷たくはなかった。
 けれども普段は温かく感じる手が私と同じくらいの温度なのだから、十分冷えているようにも思える。
 申し訳なさとありがたさが綯い交ぜになって、胸の中で揺れる。
 羽織ったパーカーよりずっと温かな、この些細で複雑な気持ちをどう表せばいいのか分からない。
「夕飯の前に温泉かな。その方が時間も丁度いいだろうし」
「それがいいですね」
 少しでも暖かくなるようにと、自分から指を絡めた。でも先生の手は大きすぎて、どうやったって温まるのは私の方だ。
 往路と同じように、黙って来た道を戻る。
「そうだ」
 遊歩道を出る手前で突然、土井先生が足を止めた。
 どうしたのだろうと仰ぎ見ると、先生は真剣な表情を私に向けていた。
「私は来年もその先も、名無しさんと一緒にいるつもりでいるよ」
 言い終えて、先生はふっと笑う。
 その言葉自体は嬉しかったのだけれど、私は少しの間、どうして先生が突然そんなことを言い出したのか全く分からなかった。
 瞬きを数回繰り返しながら記憶を遡り、ようやく合点がいった。
「わ、私……何も、言ってませんけど」
「そうか?」土井先生は眉を上げる。「聞こえたんだけどな」
 と、一際明るく言って笑うのを見て、やっぱりこの人には適わないと思い知らされる。
 この先何度、そう思わせられるのだろう。
 一体どれくらいの機会が、私に残されているのだろう。
「……先生って、いつも何でもお見通しですよね」
「そんなことはないよ。特に名無しさんに関しては。考えても考えても分からないことばかりで、どきどきさせられてばかりだ」
「嘘つき」
 からかわれていると思い、冗談めかしてそう言った。
 でも、先生は困ったように眉尻を下げた。
「いいよ、嘘でも」
 先生は呟くように言うと、私にぐっと顔を近づけて、窺うような視線を向ける。
「いい? ……部屋ではもう、できないから」
 照れくさそうなその顔を真っ直ぐに見つめ返す。
 尋ねたくせに私の返事を待たずに近付いてくる唇に向かって、ほんの僅かに背伸びをした。
 目を閉じる寸前、また風が吹いて、先生の前髪が揺れるのが見えた。
 触れ合った唇の温度はふたり同じで、どうしてだかそのとき、私は来年も必ず先生と一緒にいると確信した。人の心は移ろいやすいものだと分かってはいるけれど、それでも必ず。
 次の季節へ進む準備を整えるように、ひらひらと秋が枝から零れては降り積もり、私の心を幸せで満たしていった。

おまけ