おまけ

■付箋
 残暑から逃げるように入ったコーヒーショップ。テーブルの向かい側でアイスラテを飲む名無しさんがぱらぱらとめくる旅行雑誌に、何か、カラフルなものが貼られている。
「シール?」
「付箋ですよ。フィルム……かな?」
 付箋か、と短く答える。付箋自体はよく使うが自分が使っているそれとあまりに違うので、まさか付箋だとは思わなかった。
「動物柄、子供っぽいですか?」
 そう尋ねる名無しさんは、一瞬不機嫌そうに眉間に皺を寄せた。
「いや、名無しさんは可愛いのを使ってるんだな、と思って」
 失敗したな。と考えながら、誤魔化すようにコーヒーを飲む。
 私としては名無しさんの持ち物や言動にいちいち子供っぽいだの何だのと思ったりはしないのだが、名無しさんは時たま気にしているようだ。
 仮に子供っぽいとしても、名無しさんは名無しさんのままで構わないのに。

「ここ、どうですか?」
 名無しさんが、開いた雑誌をテーブルに置く。
 私はそこから付箋を一枚剥がし、名無しさんの手の甲にぺたりと貼った。
 すると、名無しさんは面白くなさそうな顔をして、手の甲の付箋を剥がして私の手に貼った。
 貼り返されるとは思っていなかった。
 どうするかな、と少し考えて、再び名無しさんの手に付箋を貼る。
 それを名無しさんがまた貼り返してくる。そのまま無言で、ぺたぺたと付箋の貼り合いが続く。
 もう何往復したか分からなくなった。
 粘着力が殆ど無くなった付箋が、名無しさんの手の甲に乗る。
「先生っ! もうっ……何なんですかっ」
 むきになる名無しさんが可愛らしくてくすくすと笑いながらも、心の中では別の気持ちが膨らんだ。
 いつまでも先生と呼ばれることに、私は少し不満を抱いている。実際に私は教師で名無しさんは卒業生だから仕方がないとは思うものの、「先生」と名無しさんに呼ばれた瞬間に、線引きされたような気分になる。
 この旅行で、僅かでも私たちの距離は近づくだろうか。焦る気はないけれど――

「目印をつけておこうと思って」でも、と言いながら、名無しさんの手の甲から付箋をつまみ上げた。「名無しさんを見失うわけないな」
 真顔で本音混じりの冗談を言ったつもりだった。
 が、名無しさんの頬がみるみる赤く染まったのを見て、私も急に恥ずかしさがこみ上げてきた。
「何か軽く……クッキーでも食べないか?」
 財布を持って立ち上がる。
「適当に買ってくるよ」
 察したような表情の名無しさんと目が合って、私は照れ隠しに笑った。

■帰り道
 名無しさんの希望で、道の駅に寄った。
「先生、ソフトクリーム食べませんか?」
「寒くないのか?」
「大丈夫です。食べます?」
「うん」
「私がご馳走しますね!」
 昨日とは打って変わって、今日の名無しさんは元気だ。それはいいことだが――
 思わず溜息を吐くと、名無しさんは私の顔をのぞき込む。
「やっぱり、疲れてますよね?」
「え?」
「先生、昨日からずっと運転してて……」
「いや、運転は大したことないから」
「もしかして眠れなかったんですか?」
「いや、寝たけども……」
 寝たには寝たが、ほとんど眠れなかったと言っていい。
「名無しさんの鼾がうるさくて」
「えっ……それ本当ですか? う、嘘……ですよね?」
 からかってやろうと、まじめくさった顔で名無しさんを見つめると、彼女は眉尻を下げながら頬を染める。
「……そんなに、鼾……うるさかったですか?」

 昨晩は、虫の声と名無しさんの寝息が聞こえ続けていた。実のところ鼾も時折聞こえたが、それはそれで疲れているのだろうと微笑ましく思ったくらいで、大して気に留めなかった。
 むしろ気になったのは、名無しさんが寝返りを打つ気配だった。
「眠れん」
 名無しさんが眠っている部屋との境、その障子を閉め切っているせいで、余計に気になる。
「高校生じゃあるまいし」
 言った途端、彼女を意識していることが明確になって、妙にどぎまぎしてきた。
 大体、名無しさんは私を信用しすぎじゃないか。
 散歩から戻った彼女は完全に普段通りで、部屋でもすっかりくつろいでいた。夕食を食べて各々温泉に入って、テレビのついた部屋でお喋りをして、0時少し前に寝ることにした。
 名無しさんの緊張が解けたのはいいことだが、疲れているにしても寝付きがよすぎる。
 障子を閉めたらもう、私なんか部屋にいないみたいじゃないか。
 やっぱりベッドで寝たらどうですか、とも言われなかったし。理性がぐらつかない自信はないから名無しさんの行動は正しいのだが。
 溜息を吐く。
 いい大人になってから、こんな気持ちにさせられるとは思いもしなかった。
 恋人だとか付き合っている女性だとか、そんな言葉ではなくて、好きな女の子というのが今の気持ちには一番しっくりくる。
「好きな……女の子って……子って……」
 好きな女の子が障子一枚隔てた隣の部屋で無防備に眠っている。だからといって、私は何をするわけでもなく、何かできるわけでもなく、したいことはありすぎるわけだが、ただ布団の中で右を向いたり左を向いたり寝返りを打ち続けている。
 名無しさんはいつも「先生は大人だから」と思っているような節があるが、私はそれほど大人ではない。名無しさんが思うほど立派な人間ではないし、いい男なわけでもない。
 今だっていっそ障子を開けてしまいたいと思っているわけだし、でも嫌われたくないし、傷つけたくもないし、今夜はもう手を出さないと決めたはずなのに。
 ああ、埒があかない。
「温泉に浸かってくるか」
 名無しさんが寝ている間に私が二度も風呂に入りに行ったなんて、彼女は想像もしないだろう。

「先生、どうぞ」
 屈託なく笑う名無しさんが差し出すソフトクリームを受け取った。
「ありがとう」
 まったく、人の気も知らないで。
 僅かに触れた指先に、再び彼女を意識させられて、名無しさんに気取られないようにこっそり苦笑した。