プロローグ

 夕方というには遅い時間だけれど、夏の近付く空は薄ぼんやりと明るい。
 ようやく一日が終わった。

「あー疲れた」

 ほっとして、そして明日のことを考えて、複雑な溜息を吐く。

「もういっそ、地球滅亡しないかな」

 週の半ばの重い心と体を抱えて、木製のベンチに腰を下ろした。
 タイルで綺麗に舗装された海沿いの道。その脇に設置されたベンチに座って海を眺めるのが、いつの間にか私の日課になっていた。
 毎日毎日どうしてこうも残業以外の予定がないものだ、と思う。
 本当はわざわざ海沿いの道を歩かなくても、アパートへ帰ることはできるけど、帰宅が早い時にはここを通るようにしている。
 潮風と波の音が、持っていたくないものを少しの間だけ預かってくれる気がするからだ。

「映画でも借りて帰ろうかな」

 ぽつり、と呟くとほぼ同時に、タイルに斑点ができた。
 雨だ、と思うより早く、大きな水の粒がタイルに強く打ちつけた。そう遠くない場所で雷が鳴っている。
 鞄を手に、慌てて立ち上がった。
 コンビニに行こう。雨宿りができるし、傘だって買える。
 走りかけた私の視界の端に、何か動くものが見えた。
 暗い波間に見えるそれが人だと分かるのに、そう時間はかからなかった。

「えっ!?」

 ここは確かに海だけれど、泳ぐような場所じゃない。すぐ側をフェリーが通るような場所だ。だから見間違いだ。そう思おうとしたけれど、目を凝らせば目を凝らすほど、それが人間だとはっきり分かった。
 その黒い人影は、着実に岸へとやってくる。
 よく分からないけど、助けなきゃ。
 人を呼ぶとか、救急車とか警察とか、とにかくそういうことは思い浮かばなくて、私は水際に駆け寄った。
 こうなったらびしょ濡れになるのは仕方がない。

「だっ、大丈夫ですかっ?」

 岸に掛かる手はどう見ても男性のものだった。
 海面から少し高さがあるせいか、上がるのに手間取っているようだった。
 優しそうな顔立ちのその人は、黒ずくめの妙な格好をしている。なんだかちょっと怪しいけど、放って置くわけにもいかない。
 私は荷物を放り投げ、彼に手を差し出した。

「つかまってください」
「ありがとうございます」

 冷えた手が触れた瞬間、青白い光が海に落ちるのが視界の端に入って、轟音がした。
 そして、衝撃。

 痛くはないけど、まるでジェットコースターから放り出されたみたいなイメージ。
 正直、死んだかと思った。
 彼の手を引いたはずなのに、引かれたような感覚がして不思議だった。
 閉じていた目をゆっくりと開くと、見えるはずのない自分の姿が見えた。濡れた髪、新しいスカートにもジャケットにも泥がついている。

「えっ?」

 思わずそう言ったけれど、それは私の声じゃなかった。
 驚いた表情で尻餅をついたまま、私を見ている私がいる。
 頭の中は真っ白。その後に、ただひたすら疑問符の羅列。
 水たまりの上に膝を突いたままの自分の体を見下ろすと、黒い服を着ていて、手はごつくて大きい。

「え? ええっ? えぇえええええええええっ」

 信じられない。絶対、嘘。嘘、嘘、嘘。これ、夢だ。夢、夢だから大丈夫。だってこんなことあるわけない。ありえない。
 そう思い込もうとしていたのに、邪魔された。

「まさか……中身が、入れ替わった?」

 そんなことあるわけないでしょ、とはこの状況では言えない。
 どうすればいいんだろう。

「とりあえず、雨をしのげる場所に行きましょう」

 自分の声でそう言われても違和感しか感じない。何でこの人は落ち着いてるんだろう。
 この人は私で、私はこの人で。
 そもそもこの人って何者なんだろう。何故、ウェットスーツでもない黒ずくめの男が海にいたのか考えると、今更だけど不審者かもしれない可能性が浮上する。

「大丈夫ですか?」

 大丈夫なわけがない。
 言い返せなくて、黙って立ち上がると、どこへ向かうのか分からないびしょ濡れの女の後ろ姿についていく。
 まだ強く降っている雨が、べとつく海水を流してくれる。
 見慣れているはずの景色が普段と違うのは、視線の高さのせいなのかな。
 そんなことより、この状況をどうすればいいんだろう。

「……あの」

 困惑したまま口を開いて、自分の発した声の低さにまた驚いた。
 でも、なんとか続ける。

「ええと……あの、私は苗字名無しさんと言います」

「私は土井半助です」

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