凄腕

 今、私は憤っている。
 詳しい理由は割愛するけれど、職場の行事で酷く理不尽な目に遭ったのだ。
 そして決断した、40人の暗殺依頼を。
 そんなわけで、恋人の凄腕さんの家に向かっているが、彼が家にいるのかどうかが問題だ。
 というか、休みなのに会いに来てくれないなら、それはそれで寂しい。 いつものことだけど。
 いる!
 私は忍者でもなんでもないのだが、家の前まで来たら凄腕さんが留守かどうかなんとなく分かるようになってしまった。
 無断で家に上がり込んだけれど、気配で察していたのか、凄腕さんは驚いてはいない。
 ただただ不機嫌そうな顔をしている。
 でもまぁ、それも大体いつものことだ。
「凄腕さぁあああああああああああああああんっ!」
 凄腕さんに勢いよく抱きついた。
「なっ……おい、どうし……名無しさんっ!」
「暗殺を頼みたいんだけど」
「はぁ? 久々に会ったと思えば、お前は何を言っているんだ」
 そういや最後に会ったのは先月で、今月ももう終わる。そう考えると、この人も殺ってしまいたいかも。
 いやいや、今憎いのはあの40人! 凄腕さんは暗殺に必要不可欠なので、後でいい。
「ちょっと聞いてよ!」
「あ、ああ……」
「昨日、職場の宴会でこんなことがあったのよ!」
 かくかくしかじか。
 こんなことを言われた、あんなことをされた、小娘も婆も、とにかく全員に腹が立つ。どうして私があんな目に遭わなきゃいけないんだ!
「私、一所懸命やったのに何であんなこと言われなきゃいけないの! ってか全部私に押しつけて任せたくせにって話だよ! 使いっ走りじゃないっつーの!」
 と、一気にまくし立てた。
 凄腕さんは、しょうのない奴だ、とでも言いたげな顔をしていた。
「そうか。饅頭でも食うか?」
 すっくと立ち上がった凄腕さんの袖を思い切り引く。
 が、彼は尻餅をつくわけでもなく平然としている。
「ちょっと、ちゃんと聞いてたの?」
「聞いてる! 結局、お前はいいように使われてんだろうが」
 ぐさっと刺さる。
 そんなこと言われなくたって分かってるよ。
「じゃあ暗殺してきて!」
 凄腕さんは答えない。
「今話した40人、暗殺して」
 ぼろぼろ泣きながら、地団駄を踏む。
「この前の貸しがあるでしょ!さっさと殺ってきて」
「ちょっと待て、お前に借りを作った覚えはない」
 そうでしょうとも。
 でも、そう言うしかないじゃない。凄腕さんに可愛く甘えて「助けて。辛いの」って言えるんだったら、私は職場でもどこでも、人生苦労しないんだってば。
「じゃあ、どうしたら……私、どうしたらいいのぉおおおおおおおおおっ」
 凄腕さんの着物の袖を掴んで振り回す。力一杯引っ張ると、袖が取れた。
「おい!」
 凄腕さんが声を荒らげる。
 怒らせちゃった。当たり前か。せっかくの休みに突然押し掛けて、くだらない愚痴聞かせて、暗殺依頼して、泣いて喚いて、着物だめにして……怒らないわけがない。
「ご……ごめ゛ん゛な゛ざい゛」
 もうだめだ。絶対、凄腕さんにも嫌われた。
 そうだよ、こんな女誰だって嫌だよ。
「ったく……」
 凄腕さんは私の手から着物の袖を引ったくるように奪うと、それで私の涙や鼻水を拭き始める。
 お前は本当に馬鹿だ間抜けだと悪態をついてくるくせに手つきは優しくて、ますます涙が止まらなくなった。
「き……き……」
「なんだ」
「嫌いに、ならないで」
「今更……」
 凄腕さんは呆れたように言って、私の額を小突いた。
「暗殺なんてやめておけ。今の仕事も辞めろ」
「仕事辞めたら生活に困っ……」
 鼻をつままれる。
 凄腕さんの手を払いのけようとするけれど、離してくれない。
 じたばたともがく私を凄腕さんは笑う。
「嫁に来い」
「え?」
 既に腫れぼったくなった感のある目を見開くと、凄腕さんの手が私の鼻を解放した。
 そして彼は私の手を取り、観念したように大きな溜息を吐く。
「……お前が好きなだけ、家に引きこもっていていい」
「そ、そんなわけには……いかないでしょ」
 建て前としてそう言うと、凄腕さんは眉間にしわを寄せて心底面倒くさそうな顔をする。
「ずっとは困るが、当面は家事も近所付き合いもしなくていい」と言って、また溜息を吐く。「そもそも、お前にできる家事なんぞ、たかがしれてるしな」
「なっ……」
 事実に対し、表面上の抗議をしようとした私の口を、凄腕さんの手が覆う。
「もういい。黙れ」
 ゆっくりと押し倒される。
 このまま流されちゃってもいいんだけど、なんとなく、誤魔化されているような気がしてならない。
 でも……
「俺が名無しさんを守ってやる」
 私、その目に弱いんだ。
「だから、嫁に来い」
 もういいか、暗殺なんて。
「家にいるだけで、いいのね?」
「ああ」
「じゃあ、一日寝中てる」
 お前は本当に馬鹿だな、と呆れたような声で言って、凄腕さんは私にそっと口付けた。
 なんだかんだいって、この人はとても優しいのだ。そして、凄腕忍者なのだ。
 だから私、もう働かなくてもいいんだ! あの40人とも会わなくてすむんだ!
「凄腕さんっ、大好き!」
 こうして私の復讐計画は終わってしまったのだった。