6月は雨ばかり。
祝日もなくて、一ヶ月が妙に長く感じる。それでも嫌いになれないのは、誕生日があるからだ。
今日は、土井先生と恋人同士になって初めての誕生日。とても楽しみにしていたのに、朝から雨が降っている。空気は重苦しく、湿気のせいで髪もきまらない。それでも目一杯のお洒落をして、最寄り駅で土井先生を待つ。
夜が近付き、鈍色の空は段々と暗さを増している。
「名無しさん」
声のした方に顔を向けると、笑顔の土井先生と目が合った。先生は、開いた助手席側の窓から顔を覗かせている。
車までは数メートル。雨はそれほど強くない。傘を差さずに、浅い水たまりを何度も避けて車に駆け寄ると、助手席のドアが内側から僅かに開いた。
傘をぶつけないよう気をつけながら車に乗り込むと、先生の手が傘を掴んだ。
「後ろに置いておくよ」
「ありがとうございます」
洋服の裾を直してシートベルトを締めると、車が走り出した。
「待った?」
「いえ……着いたばっかりです」
そうか、と安心したように言う土井先生の横顔を盗み見た。
「これ、山田先生の車ですか?」
「うん。お借りした」
仲良しだなぁ、なんて思いながら、それ以上会話を広げられなくて、窓の外の灰色がかった景色に目をやった。
「今日は蒸し暑いな」
「……そうですね」
どうして今日はこんなに緊張するのだろう。考えてみると、土井先生とこうして車に乗るのは初めてなのだ、と気が付いた。
助手席に乗るなんて、そう特別なことではないはずなのに、土井先生が相手だととびきり特別なことになってしまう。横顔もハンドルを握る手も、隣から聞こえる声も、全部、いつもとは別物のようだ。
そうして私が目新しい状況におたおたしているうちに、目当てのレストランへ着いてしまった。
店から少し離れた駐車場へ車を停めた。フロントガラスを叩く雨は、いつの間にか強さを増していた。
「結構、降ってますね。走りますか?」
なんて、悪戯っぽく訊いてみると、先生はあからさまに驚いた顔をした。
「傘を差した方がいいんじゃないか。風邪をひいてもつまらんし……」
言いながら、土井先生は後部座席の足下に置いた傘に手を伸ばした。右手が私の座席にかかる。横を向けば、すぐそこに先生の顔がある。なんだかよく分からないけれど、いい匂いがする。
何の匂いだろう。
顔を近づけようとすると、土井先生は前屈みになっていた上体を起こした。
「ほら」
先生の声にはっと我に返った。差し出された傘を慌てて受け取り、逃げるように車から降りる。
「あ、危なかった……何やってるんだろ」
傘を開きながら、思わず独り言ちた。
ドアをロックする音を聞きながら顔を上げて、私は急いで土井先生に駆け寄った。
「先生っ」
土砂降りというには弱い雨だけれど、うかうかしていたら濡れ鼠になってしまう。
先生に傘を傾けながら、思わず語気が荒くなった。
「傘は?」
「持ってこなかった」
「風邪ひくって、さっき自分で言ったじゃないですか」
「そうだな……ありがとう」
言って、土井先生は困ったように笑う。
土井先生の肩幅は、思っていたよりずっと広い。先生が雨に濡れてしまわないように気を配りながら傘を分け合っていると、私の肩が傘からはみ出した。
でも大丈夫。レストランはすぐ目の前だし、薄着だからすぐに乾くはず。そう考えていた私の腰を、土井先生が引き寄せた。
「名無しさん、離れると濡れるぞ」
予想外の出来事に思わず変な声が出た。頭の上で先生が小さく笑う声がする。
そのままレストランの席に着くまで、顔が熱くて仕方なかった。
レストランはしっとりとした雰囲気で、周りのお客さんも落ち着いた大人ばかりだ。こんな場所で何か失敗をしてしまったらどうしよう、と緊張すると同時に、土井先生が私の誕生日祝いにこの店を選んでくれたことがとても嬉しい。
普段の何倍も背筋を正して座っていると、ノンアルコールのカクテルが運ばれてきた。レモンジュースは、透明感のある白色でグラスの底に沈んでいる。そっとグラスをかき混ぜると、炭酸の弾ける音とミントの澄んだ香りがした。
夏を先取りしたような味がする。
メニューを開いた土井先生が、私を見た。
「料理はもう頼んであるけど……どうする?」
私が首を傾げると、土井先生は小さく笑った。
「飲み物。ワインが美味しいらしいけど、飲める?」
「はい、一応。でも……運転が」
「ああ……私は飲まないよ。名無しさんは構わないだろう? カクテルもあるけど、どうする?」
「……今日はやめておきます」
「そうか。じゃあ、ミネラルウォーターでいい?」
「はい」
車で来ない方がよかったかな、と土井先生は呟くように言って、メニューを閉じた。
自分だけお酒を飲むのは申し訳ないと思ったけれど、折角連れてきてもらったのだから、グラスワインくらい頼めばよかったかもしれない。そんな別の申し訳なさが募った。
でも、飲み物を注文する土井先生は、何も気に留めていないようだった。
空になったグラスをぼんやり眺めていると、突然、白いリボンがついた濃紺の小箱がテーブルに置かれた。
驚いて顔を上げると、土井先生は柔らかい笑みを湛えている。
「誕生日おめでとう」
先生の静かで優しい声にドキドキしながら、箱をそっと手元に寄せる。
「……ありがとうございます」
とても軽い。
中身はきっとアクセサリーだ。でも、一体何が入っているのだろう。
「開けてもいいですか?」
「もちろん」
土井先生に笑みを返し、蓋をそっと開ける。
「わぁ」
思わず、感嘆の声が漏れた。
細いチェーン、ペンダントトップは月のモチーフだ。ぱっと見はシンプルだけれど、よく見ると凝ったデザインになっている。
優しく光る白っぽい石は多分、誕生石のムーンストーンだ。
「素敵……ありがとうございます」
気の利いた言葉がでてこなくて、それだけをやっと絞り出した。
気持ちを伝えられそうな言葉は、幾らでもありそうなものなのに、胸がいっぱいで何も出てこない。
プレゼントが貰えるかもしれないと期待して、似たようなシチュエーションを何度も想像していたにも関わらず、それは全く役に立たなかった。
「誕生石にしてみたんだが……気に入ってもらえたかな?」
「はい」
少し心配そうな土井先生の問いに、何度も頷く。
「よかった。プレゼントを何にするか、すごく悩んだんだ」
そう言う土井先生の笑顔は、なんだか少年みたいだった。年上なのに可愛く思えて、胸の奥がぎゅっとなる。
「すごく好きなデザインです」
プレゼントの箱を手に取って、膝の上に置く。ほの暗い照明に照らされて淡く輝くそれは、いつまで見つめていても飽きそうになかった。
アクセサリーをつけてこなければよかった。この場で外して、つけ替えてもいいだろうか。それとも化粧室に立った方がいいのだろうか。
もじもじしながら悩んでいるうちに、料理が運ばれてきてしまったので、土井先生に申し訳なく思いながらもプレゼントの箱をそっとしまった。
料理はどれも美味しかった。
緊張していたのも初めのうちだけで、先生との会話も、料理の見た目も味も十二分に楽しめた。
「デザート、食べられそう?」
「はい。先生は?」
「名無しさんよりは余裕があるよ。名無しさんが、本当は大食いじゃなければ」
わざとらしく睨む振りをすると、土井先生は小さく声を立てて笑った。
既にお腹はいっぱいだけど、いざ目の前に出されれば、ぺろりと食べてしまう自信がある。大食いじゃないとは言い切れないかもしれない。
わくわくしながら待っていると、給仕の人がデザートプレートを運んできてくれた。
テーブルにお皿を置くと同時に、笑顔を向けられる。
「お誕生日、おめでとうございます」
「あ、ありがとうございます」
突然のことに照れながら、お礼を言った。
お皿の上にはアイスクリームと小振りのケーキ。その周りを、果物とクリーム、そしてソースが飾りたてている。それだけでも綺麗で感動的なのに、チョコレートソースで「Happy Birthday」の文字が書かれていた。
きっと、土井先生は予約をするときに、誕生祝いの食事だと伝えておいてくれたのだろう。
いつの間にか、私の目には涙が滲んでいた。
僅かに上を向きながら、何度かゆっくりと瞬きしていると、土井先生が静かに口を開いた。
「食べないのか?」
心中を見透かされている気がする。
「だって……食べるのもったいなくて」
「また来よう」
前言撤回。
私を喜ばせるには十分だけれど、今の気持ちからは少しずれた答えに、自然と口元が綻んだ。
土井先生は、私に嬉し泣きさせようなんて気はこれっぽっちもなさそうだ。だからこそ、泣いてしまいそうになる。
だから、好き。
レストランを出ると、魔法が解けてしまった気がした。
「この程度なら、傘はいらないか」
霧雨が静かに降る中、土井先生と手を繋いで足早に駐車場へと向かう。
車に乗り込んでドアを閉めると、そこはもう殆ど日常だった。あとは家に帰るだけ。
「駅じゃなく、家まで送るよ」
先生の言葉に頷いたけれど、まだ帰りたくはない。
「エアコン、つけていい?」
「はい」
答えながら目をやった窓の外は、普段より静かなように感じた。雨のせいだろうか。それとも、私の中に華やいだ気分が残っているせいだろうか。
5つ目の信号を通り過ぎるまで、互いに黙っていた。
「晴れてたら、連れて行きたい場所があったんだけどな」
独り言のように先生が言って、私は返事に困って曖昧に頷いた。運転中の先生には見えなかったかもしれない。
どこに連れて行ってくれるつもりだったんだろう。
そう考えながら、エアコンの風の冷たさが気になって右腕をさすった。
「ごめん、寒かったか」土井先生がエアコンのスイッチを切った。「言ってくれればよかったのに」
「え、あ……いえ……大丈夫、です」
確かに寒かったのだけれど、それは風が直に当たっていたからで、車内の空気はまだそれほど冷えていない。
「平気ですから。エアコン、つけてください」
私が言い終わるのと同時に土井先生の左腕が伸びてきて、私の手に触れた。
「平気って、こんなに冷えてるのにか?」
心配するというよりも、からかうような声だった。
「私の手が冷たいんじゃなくて、先生の掌が熱いからじゃないですか」とは言えないでいるうちに、土井先生の手はハンドルへと戻っていった。
手を繋ぐことには大分慣れたと思っていたけれど、今みたいな不意打ちにはドキドキする。
「やっぱり……車、買おうかな」
「き、今日みたいに雨だと、車の方が楽ですもんね」
どぎまぎしながらそう言って、土井先生の方を見た。運転中だから前を向いているけれど、横顔は優しく微笑んでいる。
「それもあるけど……毎回こうやって名無しさんを送っていくのもいいなぁ、と思って。遠出も気軽にできるし」
土井先生が車の購入を考える理由のひとつに自分がなるとは、夢にも思わなかった。
私に、そんな価値あるんだろうか。
今日の食事もプレゼントもそう。こんなにしてもらって、いいのかな。
いいよね、恋人だもん。誕生日の今日くらいは、素直にそう思いたい。
来年の誕生日は、乗り慣れた土井先生の車の助手席に座って、会話を弾ませているのかもしれない。
車の窓についた水滴越しに映る街の灯は、ケーキの上の蝋燭みたいに揺れて、私の願いを叶えてくれそうだった。
家の少し手前で、車を停めてもらった。
「今日はありがとうございました。今までで一番、幸せなな誕生日でした」
「喜んで貰えて嬉しいよ」
笑顔でそう言ったかと思うと、土井先生はすぐに真顔になった。
「苗字」
「はい」
どうしたんだろう、真面目な顔をして。
急に苗字呼びに戻っているのはきっと、これから口にする内容に気を取られているのだろう。となると、あまり良い話ではないのかもしれない。
土井先生の言葉を待つ私の眉間には、段々と皺が寄る。なかなか口を開いてくれなかった先生が、観念したような表情をした。
「……気に入らなかった?」
「え?」
「プレゼント、本当は……好みと違ったんじゃないか?」
一瞬、何を言われているのか分からなかった。
暫く思考を停止させたまま、不安そうな土井先生と目を合わせていると、突然、頭の真ん中に先生の言葉の意味が届いた。
「ち、違います! 違うんですっ!」
どう言えばいいんだろう。
気持ちに言葉が追いつかず、とにかく必死で首を横に振る。
「ええと……その、気に入らないとかじゃなくて……う、嬉しすぎて言葉が出なくって。喜んでないわけじゃなくて、寧ろその逆だったんです。あと……先生から貰ったネックレスをすぐにつけたかったんですけど、タイミングが……ごめんなさい」
完全に言い訳になってしまった。
「いや……私こそ、変なことを言い出してすまない」
「今、ここで、つけてもいいですか?」
先生の返事を待たずに、鞄からプレゼントの箱を取り出す。身に着けていたネックレスを外し、プレゼントの箱を開けた。
なんだか、無理矢理喜んでいるように見えている気がする。
「……先生」
ネックレスを取り出そうとする手が、小さく震える。
「私、本当に……」
先生の指が唇に触れて、私の言葉は遮られた。
「いいんだ、私が悪かった。こういうことに慣れなくて……少し、不安になってしまったんだ」
私の唇に熱を残して、先生の指は小箱からネックレスを取り出した。
ムーンストーンのついた月が揺れる。
そのまま、先生の両手が私の首の後ろに回って、恥ずかしくなった私は視線を落とした。
ひんやりとした小さな月が私の肌に触れて、すぐに体温に馴染む。馴染まないのは、土井先生の体温。
留め金を掛け終えた気配がして、躊躇いながら視線を上げると、土井先生と目が合った。
先生の右手が、私の頬に触れた。
「……似合いますか?」
「うん」
小さく笑ったかと思うと、土井先生は私の額に触れるか触れないかの優しいキスを落とした。
私はどうしていいのか分からなくなって、下を向いてプレゼントの入っていた箱を見つめていた。
そうして少しの間沈黙が続いて、私は車を降りるどころか、顔を上げるタイミングも失っていた。
「名無しさん」
急に呼ばれて、びくり、と体が揺れた。意識しすぎているのがバレたと思うと、余計に顔を上げられない。
「もう、何もしないから」
安心させるような声にほっとして、でも半分は残念にも思った。
おずおずと顔を上げると、いつもと同じ笑顔の土井先生がいた。
「名無しさん、誕生日おめでとう」
その優しい声と笑顔がなによりも嬉しかったのは、先生には絶対秘密。