夏の夜。空にはまだ、夕日の明かりが残っている。
「暑い」
歩いたのはバス停からほんの数分だけれど、もう汗が滲む。携帯を手に店の名前を確認して、私は扉の前で足を止めた。靴と洋服をチェックして、鞄を持ち直し、深呼吸をひとつ。
思い切って扉を開けると、涼しい風が頬を撫でた。
「いらっしゃいませ」
「7時に、予約した……土井です」
ドキドキしながらそう言って、待ち合わせに遅刻した土井先生を少しだけ憎らしく思う。本当は一緒に来るはずだったのだから。
店の中は冷房が効いて心地よく、表のうだるような暑さは嘘のようだ。
「どうぞ、こちらです」
ぎこちない足取りでついていく。
和食の店だが座敷はなく、テーブル席だけのモダンなレストラン。それほど入りづらい雰囲気ではないけれど、土井先生と待ち合わせてからここへ来るはずだったので、緊張してしまう。
通された個室の椅子に腰を下ろしてようやくほっとした。
あとは土井先生が来るのを待つだけなのだけれど、いつ到着するのか全く分からない。予約の時間までには必ず、と言っていたけれど、これから30秒以内で来るとは思えない。
いつだって仕事優先な土井先生の遅刻の理由には、実は寝坊も多く含まれる。疲れているんだろうとは思うけど、私にだって授業やバイトがあるのだから、腹を立てずにいるのは至難の業だ。とはいえ、この頃はもう諦めモード。だって土井先生と付き合い続けるつもりなら、そうするほかないのだから。
今どこですか? とだけメールに書いて送信した。
給仕の人が出してくれた冷茶を口に含むと、少しの渋みとほのかな甘さが広がる。
手持ちぶさたなので、部屋の中を見回してみる。橙がかった照明。緑を基調にした生花は涼しげで、同時に華やかでもある。友達とは絶対に来ないし、家族とも何かのお祝いでなければ来ないような店だ。
そんな店の個室にひとりきりでいると、段々と不安になってくる。
誕生日なんだから、ちゃんと来てくれるよね。万が一のことを考えると動悸がする。いくらなんでもこの状況でドタキャンはありえない。そんな人じゃないんだから大丈夫。予約の時間からの大幅な遅刻は、一体どのくらいまで許されるのだろう。一人で食事をする場合、自分の分だけ払えばいいんだよね。レストランもキャンセル料って発生するのかな。どうしよう、全然知らない。
ちょっと調べてみようかな。着信もメールの受信もないままの携帯を手に取ったのと同じタイミングで、部屋の扉が開いた。
入ってきたのは、普段よりよそ行きの服装の土井先生。ここに着くまでバタバタしてたんだろうな、というのが所々に伺える。
席に着いた土井先生は、すぐに食事を始めるかどうかを店の人に訊かれている。私はそのやりとりをぼんやりと眺めながら、先生は新学期が始まる前に髪を切りに行った方がいいなぁ、と考えていた。
「遅れてごめん」
申し訳なさそうに言った土井先生に微笑みを向ける。微笑みになっていれば、の話だけれど。
「……言い訳はやめておく」
笑顔になっていなかったみたいだ。
「いつも遅刻なんだから」
「いつも、という程ではないだろう」
「そうですか?」
わざとらしく素っ気ない口調で言うと、土井先生は困り顔で小さく唸った。
「……ごめん」
情けない声にくすくすと笑いながら、お茶を飲み干す。
「仕事だったんですか?」
「うん……進路関係のことで色々と」
「そっか」
思いがけず暗いトーンになってしまった私の声に、土井先生が心配そうに眉を顰めた。
「どうした?」
3秒くらい迷ってから、口を開く。
「私もちょっと、躓きそうで。進路というか、簡単に言うと就職が……」
「なるほど。何かあるなら、聞くけど」
私の様子を窺う先生の声音が、恋人から教師のそれに変わった。なんだか二者面談みたいだ。
「んー……今のとこ大丈夫です。ちょっと悩みすぎて弱気になっちゃっただけです。こんな場所で二者面談みたいな話も嫌ですし。でも、ありがとうございます」
「あんまり考えすぎずにな。私でよければいつでも相談に乗るから」
「はい。頼りにしてます」
笑顔を作ってそう答えたけれど、少しだけもやもやして意地悪をしたくなった。
「それで、今日はお仕事が長引いたんですか?」
話が戻るとは思っていなかったのか、土井先生は慌てているようで、飲もうとしていた冷茶をテーブルに戻した。
「……仕事は予定通りに終わったんだ。ただ、その後で山田先生に用事があって、初等部に行ったんだけど」
それからの展開は、聞かなくても何となく分かる。
「山田先生、寮にいらっしゃったんですか?」
「そうなんだ……とにかく、ごめん。でも車を借りてきたから、バスで帰るよりは長く一緒にいられる」
と思う、と私の顔色を伺いながら土井先生は言った。
正直、思うところはあるけれど怒ってはいない。こんなことで本気で腹を立てていたら、土井先生とは付き合えない。
「今日の遅刻は、カウントしないでおきます。素敵なお店に連れてきてくれたから」
冗談めかして言うと、土井先生は安心したように笑った。
「ここでよかった? 折角の誕生日だし、どこがいいか散々考えたんだけど。暑いし洋食よりは和食のほうがさっぱりしてていいかな、と……今更だけど、何が食べたいかくらい、に訊けばよかったな」
私は水の入ったグラスに手を伸ばした。冷茶一杯では、のどの渇きは潤わない。
「和食好きですよ。お刺身食べたかったし……出てきますよね?」
「出てくるよ。コースだし。他にも色々出てくる」
「楽しみ」
グラスを置いた私の手を、土井先生が捕まえた。大きくて、体温が高くて、少しきめの粗い肌。時々感じるチョークの粉っぽさが微塵もないから、夏休みバージョンだ。
そっと握り返しながら、自分の手が汗ばんでいないか心配になった。でも、グラスの水滴だと思ってくれるはず。
「、誕生日おめでとう」
「ありがとうございます」
私がそう答えると同時に、土井先生の手は離れていってしまった。けれども寂しいと思う間もなく、土井先生がテーブルの上に置いた小さな箱に目がいった。
濃紺の小箱には白いリボン。
「これが、プレゼント」
先生はそう言いながら、私の方へと小箱を滑らせる。
「あ……ありがとうございます」
開けてもいいか、と視線で問うと、土井先生も黙ったまま恥ずかしそうに頷いた。
箱を開けると、二連のブレスレットが入っていた。夏らしい、爽やかなイエローグリーンとゴールド。
透明感のある黄緑色の石は大きいものが二つ、小さいものが三つバランスよく配されている。リーフ形のチャームは少しくすんだアンティーク風のゴールド。そして、留め具のデザインも可愛らしい葉の形。
この石は、私の誕生石かもしれない。何といっただろう。この間雑誌で見たばかりなのに、なかなか思い出せない。
「つける?」
「……はい」
土井先生の言葉に頷いて、彼が差し出す掌にブレスレットを乗せた。
おずおずと伸ばした私の腕に巻き付いたそれは、気のせいかと思う程度にひんやりしている。
「手首、細いな」
「そんなことないです」
勢いよく首を横に振った拍子に思い出した。石の名前は確か、ペリドット。やっぱり私の誕生石だ。
口元が緩みかけて、慌てて唇を軽く噛んだ。
きっと色々考えてこれを選んでくれたんだろうな、と思うと、嬉しいような照れくさいような、何ともいえない気分になる。
「どうして、ブレスレットにしてくれたんですか?」
「気に入らなかった?」
伏し目がちにブレスレットの留め具をかける土井先生の前髪が、柔らかな影を落としている。
「そうじゃなくて……アクセサリーは色々あるのに、どうしてかな、って」
「目に付きやすいかと思って。つまり、がいつも私のことを考えてくれるように、かな」
私の気持ちと一緒に、チャームが揺れる。言葉を返せないままの私と目を合わせて、土井先生は柔らかく微笑んだ。
「食べ過ぎちゃった」
「最後のケーキがボリュームあったな」
「そうですか? あんまり甘くなくて食べやすかったですよ」
やっぱりは女の子だなぁ、という呆れとも感心ともつかない声を聞きながら、シートに身を沈める。
食事の最後、デザートとは別に小さなホールケーキが出てきたのだった。
白いクリームに苺、ブルーベリーとラズベリー。チョコレートのプレートには”さん HAPPY BIRTHDAY”と書かれていた。
和食のお店でケーキが出てくるとは思っていなかったので、私は呆気に取られていた。それが予想通りの反応だったのか、ただ単に可笑しかったのか、土井先生は笑いを噛み殺して私を見ていた。
甘酸っぱいケーキだった。
「幸せな誕生日でした」
独り言のように、窓ガラスに映る土井先生の横顔にそう言った。
「まだ終わりにせずに、花火でもしないか?」
予想外な言葉を反芻して、運転席に顔を向けた。前を向いたままの先生に問いかける。
「花火……今からですか?」
「うん。もう、帰りたい?」
答えは決まっているのに、答えづらい質問に口ごもる。
「……いえ、まだ」花火をするかどうか、訊かれているだけなのに。「えっと、花火……コンビニで売ってますよね。そこで買いませんか?」
一瞬の間があって、土井先生が困り顔で口を開いた。
「後ろに積んである」
言われて後部座席を見てみると、確かに花火が置いてある。
「どうしたんですか、急に花火だなんて」
「花火大会には行けなかったし、夏だし……花火もいいかな、と」
うまく返事ができずに黙り込むと、土井先生は早口でまくし立てた。
「嫌なら嫌と言ってくれていいから。がしたくないなら、無理矢理付き合わせる気はこれっぽっちもないんだ。ただなんとなく思いついただけで、本当に断ってかまわないから」
必死な様子に、私は思わず噴き出してしまう。
「嫌じゃないですよ。ちょっとびっくりしただけで」
楽しみです、と付け加えて、安心したように笑う恋人の横顔を眺めた。
幸運なことに、公園には誰もいなかった。
土井先生が火の準備をしている間に、私はバケツに水を汲む。
「用意周到ですね、バケツまで。山田先生のですか?」
「初等部の寮のやつ。山田先生と子供たちも昨日、花火をしたみたいだ……結構風があるな」
蝋燭に火を点けるのに苦戦している土井先生の隣に、風を遮るようにしゃがんだ。ついでに、携帯で彼の手元を照らす。
「花火を買って遅刻したんですか? 遅刻したから、花火を買ったんですか?」
「後者かな。車を借りるなら花火もいいかな、と」
花火を買わずに急いで来てくれていたら、私より先に着いたんじゃないですか。とは言わずにおこう。
携帯の光から視線を下げると、ブレスレットが目に入った。レストランにいた時よりも、ペリドットはキラキラ輝いている。暗い場所で見る方が綺麗だなんて、なんだか不思議だ。
煌めくブレスレットに見とれていたのも束の間、不意に先生が手にしているライターに目がいった。百円のちゃちなものではなく、しっかりとした金属製のものだ。
「煙草、吸うんですか?」
吸わないよ、と答える声の響きが真剣なものなのは、蝋燭に火を点けているせいだろうか。それとも何か隠し事をしているせいだろうか。
ようやく蝋燭に火が点った。
ライターも借り物、とは言わない横顔が蝋燭の灯りに照らされる。普段よりミステリアスな雰囲気で、先生はライターをポケットにしまった。
「は今年、花火した?」
「してないです」
土井先生に手渡された花火に火を点けながら、私は何故か嘘をついた。
本当は先週、友達の家の前で花火をした。夕飯の食材と一緒にスーパーで買った花火は、子供の頃にした花火となんら変わらなかった。懐かしいだけで、新鮮味はなかったはずなのに、土井先生との花火は全然違う。
先生の持つ花火から火を貰うだけで、ドキドキする。
夜のぬるい空気を漂う、煙と火薬のにおい。火花を散らしながら手元に近付く熱と、風に消えそうになる蝋燭の明るさ。揺れる影。瞼に残る光と、白く焼けた地面。終わりに近づきゆく寂しさと、次の瞬間の闇。
全部知っているはずなのに、どれも初めて経験するみたいだ。色とりどりの花が手元で咲いては散っていき、私の胸では明るく咲き並ぶ。
青白い光に照らされた土井先生の横顔を見るのは、やはり初めてだった。
私の視線に気付いたのか、彼はこちらを向いた。土井先生と目が合った次の瞬間、強い光が消えた。燃え尽きた花火をバケツに放る土井先生を、蝋燭の明かりがぼんやりと照らす。
「、どうした?」
飽きたか、と土井先生に訊かれて首を振たけれど、それは見えなかったかもしれない。
「これをやったら、帰ろうか」
先生が持っているのは線香花火だ。
「勝負しようか。負けた方が勝った方の言うことを一つきく、ってのは?」
差し出された線香花火を受け取りながら、小さく頷いた。
「……じゃあ三回勝負でお願いします」
風に煽られる蝋燭から火をもらうと、線香花火は橙色の玉になる。不安定に揺れながら、幾つも幾つも花を咲かせてやがて消えてしまう。なんだか、夏の終わりみたいだ。
3つ目の夏が終わって、勝敗が決まった。
「やった! 二勝一敗で私の勝ちです」
「勝てると思ったんだけどなぁ……」
土井先生は悔しそうに言いながら、燃え尽きた線香花火を私の手から奪うとバケツに放った。
「さて、勝者の願いは?」
言葉に詰まって土井先生を見上げると、先生は訊ねるように首を傾げた。
思いきって口を開く。
「誕生日おめでとう、って言ってほしいです」
「え?」
土井先生が困惑顔で眉間に皺を寄せるので、私はなんだか恥ずかしくなってしまった。でも今更、別の願いを言うのも恥ずかしい。
「日付変わる前に、もう一回だけ言ってもらいたいんです」
自分の爪先に向かって喋る。
「今日しか……聞けないから」
言い終えて、手のひらの汗をこっそり拭っていると、土井先生のからかうような声が耳に届いた。
「聞きたいなら、会う度に言おうか?」
「そういう意味じゃなくてっ」
思わず言い返しながら顔を上げると、先生は笑っていた。
「ごめん。分かってる」
そう言い終えた土井先生は、真面目な表情で真っ直ぐに私を見た。不思議と照れくさいとは感じずに、足下から柔らかく照らされる土井先生の顔を見つめ返した。
蝋燭の灯りが、先生の顔に落ちる影を静かに揺らす。
「誕生日おめでとう」
土井先生は優しく微笑んだ。
「がこの世界に生まれてきてくれて、嬉しいよ」
ありがとうございます、と口にした途端、照れくささが追いついてきたようだった。私はわざとらしい咳払いをしながら、花火と水の入ったバケツに駆け寄った。
「先生が勝ってたら、何て?」
振り返らずにそう訊くと、うーん、と土井先生は唸る。
「考えてなかったな」
「えーっ……勝てると思ってたんですよね? 先生から言い出したのに」
ちらり、と後ろを見てみると、土井先生は困ったように笑いながら、残った花火をまとめている。
「そうだな、プリント作りの手伝いでも頼んでたかもしれないな」
「雑用じゃないですか。ムードがないなぁ」
つまんないの。心の中で呟きながらバケツを持ち上げたのと同時に、蝋燭の灯が消えた。
「口実かもしれないだろ、部屋に誘うための」
突然の暗闇に響いた言葉に驚いて、私は固まった。
土井先生が近づいてくる気配に顔を向けたけれど、暗闇にまだ目が慣れない。表情がよく見えないせいで、余計にドキドキする。
「嘘だよ。ごめん」
優しい声にほっとしながらも、すごくがっかりした。どちらを望んでいるのか自分でも分からない。嬉しいのも戸惑いも困惑も不安も、全部本当の気持ちだ。
「の誕生日に、ぎくしゃくしたくない。だから、冗談ということにしておいてくれ」
土井先生の指先がブレスレットをなぞる。そのまま私の腕を持ち上げて、土井先生の唇が手の甲に触れた。
「誕生日おめでとう、」
いつも通りの優しい笑顔に、ありがとう、と返して私も微笑む。
花火のにおい、蒸し暑い空気。先生から貰った初めての誕生日プレゼント。
忘れられない誕生日。
「よし、帰ろう……、こっちと交換しよう」
どこか照れくさそうに言う先生の手がバケツの持ち手に伸びてきたので、私は素直にバケツと花火を交換した。
土井先生が、私の空いた手を捕まえて歩きだす。
慌てて足を前に出した私と、ほんの少し先を行く土井先生の手首の間で、誕生石がキラキラと揺れた。