9月 ネックレス

 頬が熱い。
「違い、分かります?」
「いいや」
 答えながら、土井先生が小さく笑う。
 遠いようで近い、先生との距離。私たちは正方形のテーブルに、L字型に座っている。白いクロスの上には料理の皿、カトラリー、グラス、ワインのボトル、キャンドルと跳ねたソースの染み。
 今日は私の誕生日だ。
 先生が予約してくれていたのは、スペイン料理の店だった。こぢんまりとしたこの店は、アンティーク風の重厚な調度品がしつらえられていて、落ち着いた雰囲気があり、無性に居心地がいい。

 2本目のボトルを空けながら、「ワインの違いが分かるか」と話していた。私は普段はワインは殆ど飲まない。飲むとしてもグラスワインで、銘柄も違いも分からない。
 でも今日のワインは美味しい。それがお店のおかげなのか、土井先生のおかげなのかは分からないけれど。
 ただ美味しくて、楽しくなってしまって、なんだか可笑しくて、酔った自覚はあるので、できるだけ静かに喋っている。
「名無しさんは?」
「え?」
 不意に土井先生に手を握られて、ほんの少し動揺した。
 付き合い始めてから少しずつ縮まっていた距離は、夏の遊園地でぐっと近づいたけれど、触れたり顔を寄せて話をするのはまだまだ緊張する。
 相変わらずぼさぼさな土井先生の前髪が、私の髪に触れる距離。蝋燭のような色合いの照明が、先生の顔に優しい陰影を作る。目頭や睫毛の下に落ちる影、すっと通った鼻筋、柔らかく弧を描く唇の端は引き締まり、まっすぐな眼差しの奥に淡い光が灯る。よく見れば見るほど、思っていたよりずっと端正で男らしい顔立ちなのだと分かる。
 今日はインディゴのシャツに、濃いネイビーのジャケット。外したシャツのボタンは、教壇に立つときよりひとつ多い。
「ワインの違い、分かる?」
 話題と共に変わる声音。真剣に、からかうように、甘く優しく耳元で囁かれたら、ドキドキしないではいられない。
 ワインよりも土井先生に酔ってしまいそうだ。
「私も分かりません」
「だろうな……」
 私の手を解放して、先生の大きな手がボトルを持った。
「……やっぱり、沢山飲まなきゃ分からないだろうし」
 私のグラスにワインが注がれる。
 深い赤。口を付ければ見た目通り濃厚で、果実の味が静かに残る。分かるのはそのくらい。
「たまに飲みに行くのもいいな」
 そう言ってすぐに、土井先生は首を捻る。
「でも難しいか、名無しさんもこれから就職活動で忙しくなるだろうし」
「そうですね……やだなぁ」
「名無しさんなら大丈夫。私も学生だったらよかったのにな……いや、あの頃もバイトばかりで忙しかったし、どっちみち会えないか」
「先生ってずーっと忙しいんですね」
「あの頃は、わざと忙しくしてた」
「今は?」
 訊いてみても、先生は苦笑するだけで答えない。
 わざとなわけがないのは知っているけれど、たまには文句も言いたくなる。授業の準備、補習や追試、委員会、任されてしまった雑用。先生の遅刻の理由は様々だけれど、疲れた顔はいつも同じだ。
 それでも今日はちゃんと時間を作ってくれた。
 私は、この日を待っていた。
 そう言ってしまうと大袈裟だけれど、本当にそんな気分でいる。
 恋人と、土井先生と過ごす誕生日が来るなんて、去年は想像もしなかった。ちょうど一年前はまだ、再会すらしていなかったのだから当然だけれども。
 映画やドラマを見終わると、恋人と過ごす誕生日を想像することがある。お洒落なレストラン、気の利いた言葉や演出にプレゼント。想像だけでときめくような、とびきりロマンチックな時間。
 勿論、あれらはフィクションで、現実に期待しすぎてはいけないと分かってはいる。だから想像し終えたら、がっかりしないように「土井先生は忘れているかも」と繰り返し呟いていた。
 それなのに実際は、些細な夢は案外に叶ってしまうのだと、土井先生は教えてくれる。

 赤い液体を飲み干して、夢見心地でほうっと息を吐く。
「そうだ、プレゼント渡してなかったな」
 先生の言葉に、思わず口元に手をやった。
「どうした?」
「その……嬉しくて」
 どうしてもにやけてしまう。
「名無しさん、目を瞑って両手を出して」
「えーっ、なんか怖いです」
 そう言いながらも目を瞑る。
「怖いって……信用されてないな」
 土井先生がくすりと笑うのが聞こえて、手のひらに何かが触れた。静かに置かれたそれは軽く、どうやら四角い小さな箱だ。
 何だろう。アクセサリーかな。
 でも、アクセサリーをプレゼントしてくれるなんて、普段の土井先生からはなんだか想像がつかない。
「いいよ」
 先生の声に恐る恐る目を開けると、白いリボンのついた濃紺の小箱が乗っていた。
 やっぱりアクセサリーだ。
「開けてみて」
「……はい」
 箱をテーブルの上に載せ、蓋を開ける。お酒のせいなのか緊張と期待のせいなのか、指先が震える。
 シルバーの月と青い石。そっと取り出してみると、ゆったりと揺れるネックレスだった。
 小さなサファイアを覗くと、深海に沈んだ星空が映る。
「誕生石にしてくれたんですね」
 ネックレスを箱に戻して笑顔になりながら、顔を上げた。
「気に入ってもらえた?」
「はい」
「よかった」
 土井先生は言い終えると、さり気ない動きで小箱の蓋を閉めた。
 もう少し見ていたかったのに。そう思った次の瞬間、急に店の中が薄暗くなった。驚いて、まだ暗さに慣れない目で辺りを見回す。
 どうしたんでしょう、と声を掛けるつもりで先生に目を戻すと、キャンドルの灯に照らされる彼は至って平然としていた。
 先生の視線を辿ると、私たちのテーブルに近付いてくる光が見えた。細かく弾ける火花がテーブルの上に置かれるのを、何が起きているのか分からないまま眺める。
「お誕生日、おめでとうございます」
 ウエイターさんに言われて、ようやく私のための演出なのだと理解した。
「あ、ありがとうございます」
 周りの席から拍手が湧いて、嬉しいけれど恥ずかしくなってしまう。
 強い光を放つ花火。白いお皿の上には、チョコレートの薔薇とクリームで惜しげもなく飾りつけられた、豪華なチョコレートケーキ。ソースで書かれたHappy Birthdayの文字。
 店の中が元の明るさに戻ると、私の顔を見た土井先生が可笑しそうに笑った。
「顔、真っ赤だな」
 慌てて、隠すように頬に手をやった。
「ワインのせいですよ」
「どうかな。名無しさん、誕生日おめでとう」
 何度目か分からないお祝いの言葉に、自然と頬が緩んだ。

 火照った顔に当たる、冷たい風が気持ちいい。
 土井先生と手を繋いで、いつものバス停を目指して大通りを歩く。
 甘いケーキでお腹はいっぱい。エスプレッソのおかげで酔いは少し醒めたけれど、まだ魔法にかかったような気分だ。ふわふわと心許ないのは気持ちだけでなく足元もで、低いヒールにもかかわらず、土井先生の手がなければ転びそうになってしまう。
 先生はもう酔いは醒めたのかな、と盗み見た彼の横顔はいつも通りで、なんだかがっかりしてしまう。
 そんな私の視線に気付いたのか、先生はどこか愉快そうに口を開く。
「月が隠れているな」
 そう言われて見上げた空は薄曇りで、月の輪郭だけが淡く見えている。
「雨、降らないですよね?」
「降りはしないだろう」
 せっかくの誕生日だから、このまま雨に降られず終わりたい。街中なので星はよく見えないけれど、晴れた空に月が浮かんでいれば素敵だったのに。
 言葉少なに、歩きなれた道を行く。
「バスが来るまで、あとどのくらい?」
「15分くらいです」
「まだ結構あるな。向こうのベンチに座っていようか」
 頷いて、広場のベンチを目指して歩く。
「去年の誕生日は、どんな風に過ごしてた?」
「普通の日でしたよ。授業の後はバイトだったし、友達から日付が変わった頃にメールが来たくらいで……あとは、次の日にカフェでケーキセットをご馳走になりました……でも、当日は何も。大人になったら誕生日なんてそんなものかなぁって」
「大人、か」
「なんか馬鹿にしてません?」
 土井先生は笑う。
「まだそんなに大人じゃないだろう」
「……先生は?」
 どうかな、と土井先生は独り言のように言った。
「来年はどうする?」
 返事に困ってしまい、黙って首を傾げた。
「何か希望はないのか? まぁ、来年まで私が覚えていれば、の話だけどな」
 そんなの、忘れちゃうんじゃないかな。そう考えて、こっそり口元だけで笑う。
「希望かぁ……昔、高校生の頃なんかは、誕生日になると何か起きないかなって考えてました。希望というか願望かな」
「何かって?」
 昔は今よりも突拍子もないことを考えていたので、思い出すと恥ずかしさで苦笑いしてしまう。今のものだって、恥ずかしいことに変わりはないけれど。
 土井先生が私の顔をのぞき込む。
「こら、内緒にする気か?」
「えーっ……だって、すっごくバカみたいっていうか、恥ずかしいというか……」
 繋いだままの手を、振り子のように大きく動かす。
 土井先生にならいいかな。笑うか呆れるかだろうけど、お酒のせいだと思ってくれるといいな。そんな風に考えて、散々躊躇ってから口を開く。
「その……好きな人がプレゼントをくれて、告白してくれるとか」
「好きな奴、いたのか」
 予想に反した溜息混じりの声に慌ててしまう。
「い、いないですよ! いなかったです!」
 繋いでいた手を放して、胸の辺りで両手を振って否定する。
 高校時代から付き合っていたわけではないので、当時好きな人がいたって関係ないのだけれど、いなかったのにいると思われてしまうのも嫌だ。
「好きな人がいたらどんな誕生日がいいかなぁ、っていう想像です。ほんとに、ただの想像です」
 必死で言い訳する私を、土井先生が横目で見る。
「今日、少しは叶った?」
 大きく何度も頷く。
「想像なんかよりずっといいです」
「どうかな。想像には劣るんじゃないか?」
「素敵なお店だったし、料理もワインも美味しかったし、プレゼントも嬉しかったです。私、土井先生と一緒にいられるだけで……先生がいてくれるのが、一番嬉しいです」
 街路樹の脇で、土井先生が突然足を止めた。見上げたのと同時に、触れるだけの優しいキスが降ってきた。
 瞬きをする間の、ほんの一瞬の出来事だった。それでも驚いて固まってしまった私を見て、土井先生は苦笑した。
「ごめん……店にいるときから名無しさんにキスしたくて……可愛いことを言うからつい……」
「よ、酔ってるんですか?」
 なんとなく一歩後ろに下がりながら訊くと「そうかもしれない」と先生は静かに言った。
 虫の声が、湿度が低い夜の空気を震わせている。それをかき消すくらい、私の心臓の音が大きく鳴っている。
「先生……お酒、弱いんですか」
「そうでもないはずだが……まぁ、普段飲まないからな」
 確かに、顔色も表情も声のトーンも、普段と全く変わらない。
「名無しさんだって、酔ってるだろ」
 頬は火照っているけれど、キスのおかげで酔いが醒めたとは言えない。どう答えていいか分からずに視線を泳がせていると、ぐいっと手を引かれる。
「まぁ……酔ったから、したわけじゃないけど」
 耳も首も一気に熱くなる。それこそ酔ったからではなくて、土井先生の言動のせいでだ。
 少し早足になった先生に手を引かれるまま、下を向いてついて行く。広場を進み、ベンチの前で止まった。
 どちらからともなく腰を下ろしてすぐに、今度の土日、と土井先生が何もなかったかのような口調で言った。
「文化祭、来る?」
 来て欲しくないんだろうな。すぐにそう分かる声色に、小さく笑った
「バイト入ってるんです……それになんだか、来て欲しくなさそうだし」
「来てほしくないわけじゃないんだが……一緒に回れるわけでもないからな。他校生も来るし、卒業生やどこかの大学生も来るだろうから、ナンパでもされたら困る。少しの時間は会えると思うが、ずっと名無しさんについてるわけにいかないからな」
「私なんかにそんなこと起きないですよ」
「私なんか、って恋人の前で言うな」
 土井先生は怒ったような困ったような不思議な顔をして、私の頭をくしゃくしゃっと撫でた。
「名無しさんは可愛いよ」
 ありがとう、と笑顔で言って、先生の好意と優しさを受け取ったと示せたらいいのだけれど、私ができるのは黙って俯くことだけだった。可愛いといくら言ってもらえても、こういうところが少しも可愛くないと自分で思う。
 こういうところが、大人じゃない。

 不意に首筋を撫でた風の冷たさに、思わず首を竦めた。ベンチにも体温を奪われて、体が冷えてきたようだ。
「寒い?」
「少しだけ」
「薄着だから」
 からかうように言われて、溜息混じりに返す。
「だって……昼間は暑いから、これで足りるかなって」
「残暑でも、もう夜は大分冷えるからな」
 土井先生はそう言いながら、脱いだジャケットを掛けてくれる。
「先生は寒くないんですか?」
「寒くないよ」
 インディゴのシャツの腕が伸びて、私の肩を抱く。
 頬を寄せたシャツの襟元から鎖骨が覗いて、先生は私の恋人で、男の人なんだと実感した。他の人は知らない土井先生。
「そういえば……プレゼント」
 土井先生の声に顔を上げた。
「え?」
「つけてるところ、見たいな」
 照れくさそうな顔に向かって頷くと、私の肩を抱いていた腕が離れていく。それを寂しく思いながら、鞄の中から箱を取り出して蓋を開けた。
 暗い場所ではより濃く見える深い海のようなブルーと、静かに輝く銀の月。月の輪郭は一見シャープだけれど、曲線が甘く上品で大人びた印象を作っている。月より少し上で揺れるサファイアは、青い星みたいだ。
 つけていたネックレスを外して、胸元に月を飾る。ひんやりとした重みがくすぐったい。
「どうですか……似合います?」
 似合っていなくて、がっかりされたりしないだろうか。不安に思いながら顔を上げると、土井先生は目を細めた。
「綺麗だよ」
 絶対に、絶対に、そんなことはあり得ない。
 でも先生がそう言ってくれるのだからと、首を横に振ってしまいそうになるのをぐっと我慢した。
「……ありがとうございます」
 私がそう返すだけで土井先生が満足そうに笑うのを見て、嬉しくなった。
「やっぱり全然違うな、あの頃とは」
「あの頃? 高校生の頃ですか?」
「うん。全然違う」
「まぁ、今は化粧してますし」
「そういう意味じゃない……名無しさんと、こんな風に話したことはなかったな。授業の後に、必要なことだけ一言二言。その程度だったが……今と同じように見えていたら困っただろうな」
「え?」
 何の話なのかよく分からなくて首を傾げてしまうけれど、土井先生はお構いなしに、ひとりで頷いたりしている。
「きっと名無しさんを好きになって、苦しかっただろうな。卒業してからでよかった……でも本当は大学やバイト先でどうしているのか心配になるし、他の男には誰にも会わせたくない」
 独り言のようにそう呟いて、土井先生は大きく息を吐いた。
「せ、先生! 酔っぱらいすぎです」
「そうか?」
 叫ぶような私の剣幕が可笑しいのか、先生はくすくすと笑う。
「いつも、絶対そんなこと言わないじゃないですか」
 狼狽える私の言葉に土井先生は頷く。
「確かに、絶対口には出さないな」
 絶対に酔っている。ふたりでワインを2本空けたけれど、飲んだのは殆ど先生だ。
「飲みすぎたわけじゃないが、酔ってるんだろうな。新学期で疲れているからかな……あとは、少し、緊張してたからか。名無しさんが気に入ってくれるかどうか分からなくて」
「……プレゼントを?」
「何もかも」
 言って、土井先生は肩を竦めた。
 私が想像する何倍も、私のことを考えながら私のために、今日この日の準備をしてくれたのだろう。忙しいにもかかわらず。
 私は映画やドラマのように素敵な台詞は言えないけれど、少しでもいいから伝わるようにと考えて口を開く。
「全部、嬉しかったです。幸せだし、本当に嬉しいです。人生で一番素敵な誕生日になりました。ありがとうございます」
「こちらこそ、ありがとう」
 土井先生は続けながら、溜息混じりに笑う。
「想像したこともなかった。いや、想像くらいはしたんだが……こんな風に恋人の誕生日をゆっくり祝うなんて、今までなかったな。想像しても現実味がなくて。祝い事なんて学校行事くらいだったから」
 夏に聞いた話だ。いつか詳しく話すと言ってくれたので、今はまだよく知らないけれど、誰かと付き合ってもあまり長く続かないこと、家族のこと。きっとそういう話だろう。
「今日は、幸せだと思った。名無しさんの誕生日、一緒に過ごせてよかった」
「私もです」
 微笑み合うのも束の間、気恥ずかしくなって目を逸らしてしまうと、うーん、と唸るのが聞こえた。
「ごめん、本当に酔ってるな」
「……たまには、いいんじゃないですか」
 先生の肩に頭を乗せて、目を閉じた。
 酔ってはいるけれど、きっと本音だ。素面のときの先生が言わないような言葉。優しくて思いやりがあって、仕事熱心で忙しくて、大人で、私を頼ってなんかくれない土井先生が、ほんの少し甘えて覗かせた顔。
 これもプレゼントかな。そう考えて、そっと胸の小箱にしまう。

「そろそろ時間だな」
「……そうですね」
 立ち上がった先生に、ジャケットを返した。
 また手を繋ぎながらバス停へ向かうと、すぐにバスが来るのが見えた。丁度いいタイミング。そう思って早足になった途端、土井先生の足が止まって手が後ろに引かれる。
「先生?」
 止まるのと同時に振り向くと、土井先生は目を逸らしながら、眉間にしわを寄せた。そして躊躇うようにゆっくりと口を開く。
「ごめん……まだ一緒にいたい」
 甘えるような声にドキドキしながら、時計を見た。まだ21時過ぎ。
 言い出しづらいだけで、私も本当はまだ帰りたくはなかった。
「……次のバスまで、ですよ」
「大丈夫、それは分かってる」
 まだ酔っているのかな。そんな私の胸の内を見透かすように笑う土井先生の顔は、昔に見た教室でのそれと同じだった。安心させるような、信頼できる先生の顔。
 まだそんなに大人じゃないだろう、という言葉の意味を今更実感させる笑顔。大好きだけれど、少し寂しい。
 でも、優しい。
「そこの店で、コーヒーでも飲もうか」
 告白した日に聞いた言葉と同じものなのに、全然違う響きだ。
「ご馳走してくれます?」
「勿論。誕生日の主役に、払わせるわけにはいかないからな」
 先生の言葉に小さく笑う。誕生日じゃなくたって、奢ってくれるくせに。
 ひとつ年を取ったって、正直、何も変わらない。
 でも私は来年も土井先生と一緒にいたい。秋を、冬を、春と夏を過ごして、また違う秋を迎えたい。だから大人になりたい。自信を持って隣にいられるように。優しくなるために、素直でいるために、強くなりたい。
 綺麗な深い青は、今はまだ、先生の方が似合いそうだ。それでもきっと、私だって似合う大人になれる気がする。
 土井先生は自然とそう思わせてくれる。
 サファイアの青が似合う大人になったら、先生は甘えてくれるだろうか。
 横断歩道の手前で赤信号を見つめていると、不意に先生が嬉しそうな声を出した。
「名無しさん」
 私を呼んだ横顔は、夜空を見上げていた。同じように顔を上げると、薄曇りだった空はすっかり晴れて、明るい月が浮かんでいる。
「星はあまり見えないけれど、月は綺麗だな」
 ネックレスが揺れる。
「来年の名無しさんの誕生日も、晴れるといいな」
「……はい」
 次の誕生日は、どんな日になるだろう。来年もまた土井先生に言ってもらいたい。
「名無しさん、誕生日おめでとう」