冬の日差し

 冬の日差しがガラス窓から差し込むと、高校時代の記憶が忍び寄ってくる。

 3年生にとっては最後の選択授業だった。
 川の見える教室。窓際の一番後ろの席で、私は外を見ていた。冬の寂しげな、暗いトーンの風景。河川敷を駆け回るふわふわした毛の犬、橋の上には着膨れした通行人や車が通る。
 窓から差し込む午後の日差しは硬質だが、机の上に落とす影は弱々しかった。
 セントラルヒーティングのラジエーターの熱が顔を火照らせたけれども、窓を開けたら寒そうで、私は我慢していた。
「少し暑いな」
 土井先生が不意にそう言って、窓を開けた。
 冷たい風が吹き込んで、前列の生徒たちが小さな悲鳴を、廊下側の生徒たちは不満を漏らす。
 先生は苦笑しながら窓を閉めた。
「すまん、お前たちも暑いかと思って」
 そう言いながら脱いだジャケットに、白いチョークの粉が着いていた。
 黒に見えるような濃紺に、白い、指の跡。

 土井半助。
 窓から吹き込む寒風に頬を叩かれて、私は初めて彼の存在を認識したように思う。一年間、彼の授業を受けてきたにも関わらず、だ。
 だからといって、何が変わるわけでもなかった。
 受験前のピリピリした空気、最後の高校生活、クラスメイトや友達との別れの寂しさ、新生活への不安と期待。そんなもので一杯だった私の心に、土井先生の入る隙間なんてなかったように思う。
 彼は選択授業を受け持ってくれた教師の一人で、ただ、それだけ。
 卒業式の日、女子に囲まれる土井先生を見ながら、友達と学校を後にした。ありがとうも、さようならも無しに。
 憧れでも、恋でもないはずだった。

 高校を卒業して、二度目の冬。
 バスの座席で、大学の廊下で、授業のない午後に自分の部屋で、私はあの教室を思い出す。 恋だったのに。
 どうして気付かなかったのかと自分を責める。
 土井先生は、今もまだあの高校に勤務しているはずだけれど、訪ねていく気には到底なれない。第一、私のことを覚えているはずがない。担任でも顧問でもなかったのだから、私はその他大勢のうちの一人だったはずだ。
 でも、もしもどこかで偶然に会えたなら、声をかけよう。絶対に。
 夕暮れ時のバスに揺られながら、そんな風に思いを巡らせる。
 今日はバイトがないので、自宅へのバスに乗り換える前に書店に寄ろうと決めていた。
 馴染みの書店は、高級感のあるビルに入っているせいなのか、ただ単に分かりづらいせいか、どちらにしろ制服姿の高校生は殆ど見かけない。同じ高校の生徒に遭遇する確率が低いという理由で、高校時代からよく利用していた。
 書店に着くと思いの外、仕事帰りと思われる人で混んでいた。クリスマスが近付いているせいもあるかもしれない。 目当てのファッション誌、他にもう一冊、雑誌を手に取った。ついでに最近話題になっている小説を買おうと向きを変えたところで、私は足を止めた。文庫の新刊が平積みになっているコーナーに、見覚えのある後ろ姿があったからだ。
 まるでスポットライトに照らされているようにはっきりと、周囲から隔てられているように見える。
 窮屈な机から見ていた背中。
 後ろに黒板はないし、真新しいコートを着ているけれど、分かる。
 土井先生だ。
 動悸がする。雑誌を持つ手に汗がにじむけれど、躊躇う暇なんてない。
 黒い厚手のコートとぼさぼさの髪に、深呼吸してから声をかけた。
「あの……土井先生ですか?」
 振り向いたのはやはり土井先生だった。
  驚いてはいなかった。こういう事態には慣れているのかもしれない。
 先生が私をじっと見る。
 やっぱり覚えていないんだろうな、と思った。
「……苗字か?」
「はいっ」
 思わず大声が出た。周りの人の視線が痛い。
「元気なのはいいが、もう少し静かに……」
 苦笑混じりに注意される。謝りながらも、私の鼓動は喜びで益々早まった。
「覚えていてくださったんですね」
「卒業生全員はさすがに無理だが、受け持った子くらいは覚えてるよ」
 特に、と先生は静かに続ける。
「苗字は印象的だったからな」
 土井先生は私を誰かと間違えているのではないか、と思った。私は地味、よくいっても平均的な生徒だったはずだ。授業中に恥をかくような失敗をやらかした覚えもない。
 そもそも先生とこうして話すのだって初めてなのだから、印象的なはずがない。
 同じ苗字の、別の生徒と勘違いしているんだ。
 すうっと、浮かれた気持ちが消えて、氷水に足を浸けたような感覚にとらわれる。
 声を掛けるんじゃなかった。
 挨拶をして会計レジに行こう、小説は今日買わなくてもいい。
 でも口を開いたのは私ではなかった。
 あれ、と先生が驚いたような声を出す。
「結婚するのか? おめでとう」
「えっ?」
 どうやら、私が手にしているブライダル雑誌を見たようだった。
「ち、違うんです……付録が欲しくて」 私は慌てて、表紙に書かれた「付録」の文字を叩くように指さした。
 なんだ付録目当てか、と先生は笑う。
「結婚どころか、彼氏だって、いませんから……」
 この2年、馬鹿げた片思いしかしていないのに、とんでもなく恐ろしい誤解をされるところだった。
「苗字は短大……いや、大学生だっけ?」
「はい、2年です」
 そうか、と先生の返事は素っ気ない。勘違いに気付いたのかもしれない。
「大学、楽しいか? 授業は真面目に出てるのか?」
「楽しいです。授業……出てますよ」
 ほとんど、と私が心の中で付け足したのを知っているかのように、土井先生は笑う。
「楽しいならよかった。苗字は授業中に外ばかり見ていたから……よっぽど私の授業がつまらないんだろうと、内心傷ついていたんだぞ」
 ぽかん、と口が開いた。頭が真っ白になって、言葉が出てこない。
 私は前の席の生徒に隠れていて土井先生からは見えない。つまり、外を見ていることには気付かれていないと思っていたのに。
 なんてことを言うわけにいかず、でも何か言おうとして私は餌をねだる池の鯉みたいに口を動かすしかなかった。
「見られてないと思ってたのか? 後ろの席、案外目がいくし、見えてるんだぞ」
 おかしそうに笑って先生は言う。
 土井先生が覚えていたのは間違いなく私だ。でも、こんな間抜けな意味での「印象的」だったのかと思うと、恥ずかしくてこの場から消えてしまいたくなる。
「ずっと、何が見えるんだろう、と思っていたんだ」
 真冬の、枯木立が続く風景みたいな声だった。
「川か、橋か、他に何か面白い物があるのか気になってたんだ。だから放課後に、こっそりあの席に座ってみたことがある。でも暗くて……苗字が見ていた景色とは違うんだろうな、と思ったよ」 土井先生の照れたような笑顔が、胸の奥を締め付ける。
 目の前のこの人が、教壇に立っていた先生とは同じには見えなくて、嬉しいようでどこか切ない気持ちになる。
 同時に、また恋に落ちてしまったのが分かった。
 思い出の中。ラジエーターの熱が私を掠めると、ぼうっとした、間の抜けた暑さに包まれる。
 先生の少し重そうな、濃紺のジャケット。私はこの2年間、記憶の中のあのジャケットに触れてみたくて仕方がなかった。
「先生、チョークついてるよ」
 そんな風に気軽に声をかけて、チョークの粉を払う。そして手に取って、重さを確かめて、袖を通してみたかった。
 そうしたら、土井先生のことが分かって、ほんの少しでも近付けるんじゃないかと思った。
 でもそれは私の思い出と、くだらない妄想の中のことだ。
 現実の私は、チャンスがあっても踏み出せない。ただ遠くから見ているだけ。
 例え目の前にジャケットが置かれても、気付かなかった振りしかできない。
 結局、2年前と変わらない。
 今日のことも、過ぎた思い出になる。
「先生」
 わざと、思い出したような口調で言う。
「小説、買うんですか?」
「ああ」
 土井先生は平積みにされた中から、5冊を手に取った。2冊は知らない時代小説で、あとの3冊は最近話題になった作品だった。
「この辺、一応読んでおこうと思って」
 話題作を右手に持って軽く掲げる。
「話題になってますもんね。私も気になってるんですけど、全部は買えそうにないです」
 私の言葉に笑っていた先生が、不意に書棚に目をやった。
 横顔が綺麗。
 そう思っていると、先生は躊躇いがちに私を見た。
「貸そうか?」
 耳に入った言葉を理解できずに、私はただ土井先生の瞳を見ていた。私を見つめ返す目が、少し、揺れる。
 もう一度、唇が動いた。
 教室の後ろまでよく通る声。でも授業中とは違う声音だった。
「読み終わったら、貸そうか?」
 喧騒が消えた。
 土井先生と私しかいないみたいに。
 風景も、気持ちも、ぐるぐる回るけど、進みたい方向は分かってる。
「迷惑かな?」
 困ったように微笑む土井先生に向かって、必死で首を振った。
 ムードがないな、と思ったけど、これが私の精一杯の一歩。
 実らなくても、せめて今度は後悔しないようにしよう。あの席から何が見えていたか、これから先生と何が見たいのかちゃんと伝えられるくらいには。
 そしていつか、濃紺のジャケットに触れられたらいい。
 難しいかもしれないけど。
 ただ想っているよりも、失敗した方がいい。
「貸して、ください」
 私の泣き声みたいな言葉に、土井先生は優しく笑う。
 大きな手が、くしゃくしゃと私の頭を撫でると、黒いコートの袖が前髪に触れて、冬の日差しの香りがした。