ごめん、30分くらい遅れます。大丈夫かな?
土井先生からのメールが来たのは、バスを降りて待ち合わせ場所へ向かう途中だった。
日の暮れた街の片隅で立ち止まってメールを打つ。
全然大丈夫です! お店で待ってますね。
送信して、再び歩きだすと待ち合わせ場所のカフェが見えたけれど、そこで30分間待つのは心臓に悪い気がして、他で時間を潰すことにした。その方がきっと緊張もほぐれる。
混まないといいな。ガラス越しに店内を覗きながら通り過ぎる。
土井先生との再会から3週間が経つ。何度もメールのやり取りをして、今日がやっと初めての待ち合わせだ。
先生からのメールは殆ど絵文字も使われていない素っ気ないものだけれど、その文章にさえドキドキする。
おはよう。おやすみ。また明日。
たったそれだけでも攻撃力は抜群で、バスや大学でうっかりにやけ顔を披露したり、就寝直前のベッドでじたばたする羽目になる。
すごく楽しいけれど、メールを打っているのは本当に土井先生なのかと時々疑ってしまう。私の知っている教室での彼とは、あまりに違うから。少し冷たかったり、可愛かったり、妙にムキになったりする教師らしすぎない土井先生を知らなかった。
学校では「土井先生」であって、土井半助ではないんだと、この3週間でようやく知った。
勝手に抱いていたイメージが崩れ始めて、ちょっと怖い。
憧れ混じりの私の恋が、本物になっていくのが分かるから。
今日、何か変わるだろうか。
クリスマス前の街。キラキラ眩しいイルミネーションと賑やかな音楽につられて、私の恋にも何か起きるんじゃないかと期待してしまう。
何も起きなかったらどうしよう。がっかりしたくない気持ちもある。
勝手な期待と不安を持て余しながら、輸入雑貨の店に入った。 時間を潰すだけで、買い物をするつもりはない。高校時代もこんな風に店内をうろついた。懐かしい、と思わない程度には今もこの店に足を運んでいる。
カラフルな台所用スポンジ、お洒落なようでそこはかとなく野暮ったい三色ボールペンや、レトロなレターセット。自分の部屋には似合いそうもなく、使い道も思い浮かばない。どんな生活だったら似合うだろう。
金属製の栞を手にとってみる。
もうすぐクリスマスだから、土井先生に何かプレゼントをしようかな。栞やブックカバーはどうだろう。
でも、使わない人は全く使わないし、先生はどうなんだろう。
そう考えて初めて、私は土井先生の好みを全く知らないことに気が付いた。
何が好きとか嫌いとか、そんな話をしただろうか。メールで本の話を少ししたけれど、知っているのはそれだけだ。
携帯が鳴って、慌ててコートのポケットから取り出した。
土井先生、と画面に表示されている。
「もしもし」
「あ、苗字、どこにいる? 店を覗いたんだけど……いないよな?」
もう30分経ってしまったのだろうか。それとも先生が早く着いたのだろうか。どちらにしても遅刻したのは私だ。
「ごめんなさい。すぐ行きます!」
「分かった、店の前で待ってる。急がなくていいから」
そんなことを言われても、急がないわけにはいかない。雑貨屋を出て、カフェを目指して走った。
今日は滅多に履かないヒールのある靴を選んだ。たった3センチだけど、あるのとないのとでは大違い。
つまり、すごく走りにくい。夢の中みたいだ。
やっとカフェの看板が目に入って安心したのも束の間、紺のダウンジャケットと、くたびれたメッセンジャーバッグが目に飛び込んだ。
土井先生。
私が呼びかける前に、先生は振り向いた。襟元からのぞく鮮やかなオレンジの上に満面の笑みがあった。
「苗字」
「ご、ごめんなさい」
息切れがして言葉が続かない。
「いや、こっちこそ遅くなってごめん」
肩で息をしながら首を強く振ると、土井先生は困り顔で笑う。
「大丈夫か? 急がなくていいって言っただろう」
私はまだ息が整わなくて、頷いてから小さく頭を下げた。
「コーヒーでも飲もう。ここでいい?」
「……はい」
店に入るとコーヒーのいい香りが立ちこめていた。
ありがたいことに、それほど混んではいない。私と先生は注文のために2組のお客さんの後ろに並んだ。
周りからは付き合ってるみたいに見えたりするのかな。なんて考えると緊張する。
一人勝手に気恥ずかしくなっているのを誤魔化すように、財布を出そうと鞄を開くと土井先生の声が聞こえた。
「よく来るのか?」
ぱっ、と顔を上げると、先生は私を見つめていた。
「たまに」
「おすすめは?」
その声が優しくて、妙に居た堪れなくなる。
「えーっ、何だろ……私、いつも期間限定のやつばっかり飲んでるんです」
「そうか」
先生はにこりと笑った。
かっこいいな。
見とれているうちに、先生は期間限定のドリンクをふたつ注文した。
ふたつも飲むのかぁ、私も同じのにしよう。幾らだっけ。
ぼんやりと考えながら財布を用意して、土井先生が支払いをするのを眺める。
お釣りの10円玉をつまむ指が長い。袖口から覗くシャツは、白に薄い青のストライプ。
注文の為に前に出ようとすると、土井先生が私の腕を引いた。
「苗字? こっち」
横歩きになりながら先生を仰ぎ見ると、不思議そうな顔をされる。
「あの、私……注文を……」
「何言ってるんだ」
と、先生が言う。
「ご馳走するよ」
そういうことか、とやっと理解する。
「えっ……は、払います」
一瞬で、走った後よりもずっと体温が上がって、財布を持つ手が汗をかく。
「いいから。遅れたお詫びに」
「でも……」
遅刻したのは私の方なのに、ご馳走になるわけにはいかない。バイトもしてるんだし自分の分くらい払います。しっかりそう伝えようと意気込んだ途端、先生は弱り切った顔をして溜息を一つ吐いた。
「頑なに断られると、かえって困るんだが」
「あ……じゃあ、ご馳走になります」
小さくそう言って財布を鞄にしまう。
失敗。
今までに、他の男の子とデートくらいはしたことがある。奢って貰ったことも何度か。
でも、先生がそうしてくれるなんて、これっぽっちも頭になかった。
こういうことに不慣れだと思われた方がいいんだろうか。それとも面倒だって思われるかな。そんなこと考えないかな。
そもそも、土井先生はどういう人が好きなんだろう。どんな人と恋愛したいんだろう。
どういう恋愛をしてきたんだろう。
思考はぐるぐる回るけど、外側の私はぎこちないながらも平静を装って動く。
私たちは窓から離れたソファー席に着いた。
メッセンジャーバッグを開ける土井先生を意識しながらも、手元の温かなカップから届く甘い香りに誘われてドリンクを一口飲んだ。
これは忘れられないな。殆ど無意識にそう思って、私は後悔した。
教室での遠い思い出よりもずっと鮮明に、目の前の土井先生が私に焼き付いた。
それが酷く甘い。どこかで簡単に手に入りそうなのに、これと同じものは味わえない。そんな残酷な甘さ。
土井先生の長い腕が私の方に伸びた。
「これ、約束の本」
文庫本を2冊受け取る。再会した日に借りる約束をした話題作だ。
「ありがとうございます。面白かったですか?」
「うん」
そう言って、土井先生はソファーにもたれる。
「……それだけですか?」
「苗字が読み終わったら、感想を言い合おう」
「はい」
土井先生は私の返事に満足そうに微笑むと、ドリンクを口にして驚いたように軽く眉を上げた。
「甘いな」
鞄に本をしまいながら、そうですね、と答えた。
さっきの私の気持ちを見透かされたような気がして、鼓動が早くなる。
こんな風に会っているのだから、好意を隠す意味はあまり無いようにも思えるけれど、やっぱり伝わってしまうのは怖い。
「何を喋っていいのか分からないな」
どきり、とした。
私といてもつまらないんだ。私の頭を掠めたそんな考えを打ち消すように、土井先生は言葉を続けた。
「緊張するもんだな」
照れくさそうに頬を掻く。
「さっき……どこに行ってたんだ?」
「雑貨屋さんです。高校の頃から好きな店があって、そこに」
先生に微笑んで、テーブルの上のカップに手を伸ばした。
「何か買ったのか?」
「何も……」
会話を続けるのは難しい。友達が相手なら何時間でも話を続けられるのに。
訊きたいことも知りたいことも沢山あるはずなのに、言葉にならずにどこかでつかえる。出てくるのはありきたりで、訊かなくても分かっているようなこと。
「や、やっぱり12月は忙しいですか?」
「うん……忙しいよ。冬休み前は成績つけたり、受験もあるし……今日は授業が午前中までだったから、なんとかな」
笑顔が可愛い。
土井先生って、こんな顔だったかな。こんな髪型だったかな。
たわいない会話を続けながら、こっそりと先生を盗み見る。
テーブルを挟んで、まるで二者面談みたいな距離だけど学校とは全然違う。先生の声も表情も、初めて会う男の人みたいだ。
いいのかな、この人を好きで。
ふと、不安がよぎる。
一目惚れだってありなのに、先生のことをよく知らないと思うと、この恋に踏み出せない。
こんなチャンスは滅多にないと分かっているのに、自分から動きたくなくて奇跡が起きることを待っている。クリスマスが近いから余計に。
土井先生が腕時計を見たので、私も携帯に目をやった。19時を少し過ぎたところだ。
「苗字、帰りはバス?」
「はい……先生は?」
「今日は私もバスなんだ。朝は雪が降りそうだったし、この辺でバイクを停める場所を探すのは面倒だから」
「今も、あの緑のバイクですか」
「うん。カワサキの……って言っても分からないか」
バイクのことなんて全然分からない。かろうじて色と原付ではなかったことを覚えてるくらいだ。
そもそも私は先生がバイクに乗っているのを見たことがない。職員用の駐車場の隅に停めてあったバイクが土井先生のものだと、誰かが言っているのを聞いたことがあるだけ。
「あれって大型ですか? 中型?」
「大型だよ」
「わあ、すごい。かっこいいですね!」
よく分からないけど、かっこいい。そう思って素直に口に出すと土井先生は慌てた様子で首を振る。
「別にすごくはないよ」
「……二人乗りとかするんですか」
自分の言葉に、ちくり、と胸が痛む。彼女と乗ったりしたのかな。
「しない。危ないからな」
土井先生は苦笑する。
中身を飲み干したカップをテーブルに置くと、からっぽな音がした。
それは終わりの合図のようだった。
今日はここでお別れだ。食事をする約束はしていないし、これ以上は間が持てない。
一緒にいたい気持ちもあるけれど、意を決して鞄に手をかけた。別れの挨拶を口にするより先に、先生が観念したようにそっと笑うのが聞こえた。
「外を……少し歩こうか」
先生がそう言って、私は頷いた。
表はすっかり夜で、クリスマスソングとイルミネーションが目眩を覚えるほど街を飾りたてている。やはり季節柄かカップルが多い。
私たちもそう見えたりするんだろうか。いや、見えないだろうな。私のコートと先生のジャケットの袖は触れそうにない距離にあるのだから。
なんとなく黙ったまま、賑やかなアーケードを歩く。
今度、と土井先生の声が聞こえて、顔を上げた。男らしい横顔は前を向いたままだ。
「苗字のバイト先に行ってみようかな。シフト、夜が多いんだろ?」
「はい」
急にこちらを向いた先生と目が合って、飛び上がりそうになった。
「あ、割引券持ってるんです。よかったら……使ってください」
割引券は手帳に挟んである。
先生がバイト先に来てくれるなんて、社交辞令でも嬉しい。割引券を渡したら本当に来てくれるかもしれない。
舞い上がりながら取り出した手帳が、私の手から逃げた。
「おっと」
先生が手帳を受け止めてくれた。
「ありがとうございます」
「慌てすぎだ」
大きな手に差し出されると、見慣れた手帳が小さく感じる。土井先生の手にうっかり触れてしまわないよう、慎重に受け取った。
「可愛いな、手帳」
自分が言われたみたいで照れくさくて、割引券を渡す手が小さく震えた。先生は多分それに気付いていたけれど、ありがとう、とだけ言って券を受け取った。
「苗字。バス、どこから乗る?」
「二つ向こうの、始発から乗ろうかなって……確実に座れるので」
「なるほど」
先生の白い息が、風で流れる。
「じゃあ、行こうか」
そっか、先生もバスだと言っていたから、きっと同じバス停なんだ。 一緒にいる時間が延びていくのが嬉しい。
街の雰囲気や予想外の展開に、私は気が大きくなっていた。
「クリスマス……予定ありますか?」
「あるよ」
撃沈だ。調子に乗って訊くんじゃなかった。後悔先に立たず、とはこのことだ。このままじゃ残りの時間は拷問みたいなものだ。変な質問をしなければ楽しい気分で過ごせたのに。
「24も25も仕事」
落ち込む私をよそに、土井先生は静かに言った。
仕事という言葉に救われる。そういえば忙しいと言っていたっけ。
それでもまだ動揺したまま、唇が震える。
「大変ですね……私もどっちもバイトあるんですよ」
嘘だ。24はシフトが入っていて25日は休みだけれど「25は空いてるんです」なんて言ったら、誘ってほしかったみたいで恥ずかしい。
本当は、誘ってほしかったのだけれど、やっぱりそう上手くはいかない。私のクリスマスなんてそんなもんか。
恥ずかしいのとがっかりしたのとで、こっそり溜息を吐いた。
目的のバス停がすぐ側に見えて、ほっとする。もうじき、バスもくるだろう。
土井先生が足を止めた。
「28なら、夕方から空いてるんだが……クリスマスは無理だけど、どうかな」
先生の言葉を一言一句そのまま、頭の中で繰り返す。
「あ……えっと……多分、大丈夫です」
バイトは休みだったはずだけど、そうじゃなくても絶対に休みを代わってもらおう。
そんな決意を込めて力強く頷いた私がおかしいのか、先生は笑う。
「約束、な」
言いながら、土井先生が小指を差し出した。
躊躇いつつも手をあげて、自分の小指を触れさせた。先生と私の指が絡む。
ただの指切りだ。
それなのに、すごく、いけないことをしているような気分になる。
胸がぎゅっとして、泣きそうになる。 指と指が自然に離れて、体の脇に戻そうとした私の手を熱が捕らえた。土井先生の大きな手が、指先を包み込む。
「随分と冷えてるな」
静かで深い声に驚いて顔を上げると、先生の後ろに空が見えた。ビルの建ち並ぶ谷底みたいな通りから、星が見えるなんて知らなかった。
私は本当に、何にも知らないんだな。
でも、これから知っていけばいいんだ。そんな簡単なことだったのだと分かって、心が軽くなる。
私、この人が好きなんだ。好きでいいんだ。
澄んだ冬の星空のように、自分の気持ちがはっきりと見えた。
なんて幸せなんだろう。
土井先生の優しい目が私を見ている。私もきっと同じように見つめ返しているのだろう。 自分のものとは違う体温が、肌から直に伝わるのは不思議だ。家族でも友達でもない男の人の手。
土井先生の手。
先生の親指が躊躇うようにゆっくりと手の甲を一撫でして、私の冷たい指先が痺れた。
「今度、私にも何か貸してもらえるかな」
本を、と先生は付け足す。
「はい」どきどきしすぎて、言葉が細切れになる。「もちろん」
先生は平気なのだろうか。
「でも……先生が読んでない本、私……持ってないかもしれないです」
「いいよ、何でも。苗字から借りたいだけだから」
そう言って、土井先生は苦笑した。
「本を返したいから会わないか、って……口実ができるだろう?」
その言葉を聞いて、握られた手に少しだけ力を込めると、先生は恥ずかしそうに笑った。
このまま時間が止まればいい。そう思ったのに、土井先生の声が終わりを告げる。
「苗字、バスが来たよ」
「先生のバスより、早く来ちゃいましたね」
「ああ……私の乗るバスは、ここには来ないだろうな。バス停、向かい側だから」
「ええっ!」
さらっと言われて本気で驚いた。てっきり同じ方向だと思い込んでいたのに。
「ほら、早く行きなさい。乗り損ねるぞ」
土井先生の手がするりと離れた。
私は泣きそうになった顔を隠したいのもあって、勢いよく頭を下げた。
「今日はありがとうございました……ごちそうさまでした」
「こちらこそ、ありがとう。楽しかったよ。……帰ったらメールする」
先生の顔を見れないまま頷いて、バスの乗車口に向かって駆けた。
ステップを上がると、名残惜しい気持ちが一層強くなった。できることならバスを降りて駆け寄りたい。もっと一緒にいたい。
当然ながらそうはできずに、座席に座って土井先生に向かって手を振った。
バスが走りだし、手を振り返してくれる先生はあっと言う間に見えなくなる。
わざわざ見送ってくれたんだ。
嬉しいのに、切ない気持ちで胸が満たされる。
流れていく街の灯りと車内の少し淀んだ臭いが、夢見心地だった私を現実に連れ戻した。膝に置いた手には夜の冷たさが沁みて、土井先生の体温が恋しくなる。
クリスマスプレゼントは何にしよう。
私はゆっくりと目を閉じて、先生の熱を思い返しながら両手を重ねた。