Bitter & Good-bye

 午後の日差しが柔らかく入り込むカフェのソファーに身を沈めて、土井先生を待っている。
 約束の14時を7分過ぎても、先生は現れない。何かあったのだろうか。15分を過ぎたらメールを送ってみよう。そう考えながら携帯をテーブルに置いて、ラテを一口飲んだ。
 ソファーと体の間に挟まれた紙袋の中を覗き込むと、淡いピンクの包装紙に包まれたチョコレートの箱と、土井先生に借りた本が見える。
 返す本と一緒なら、チョコレートをさりげなく渡せると思った。
 そう、クリスマスプレゼントの二の舞はごめんだ。

 12月28日。クリスマスが終わった街は、年末の忙しない空気で満たされていた。けれども、大通りから通り一本外れた場所にあるその小さなレストランはとても落ち着いた雰囲気で、オレンジ色のライトが温かくテーブルを照らしていた。
 初めての食事がロシア料理なのは何故だろう。不満に思ったわけではないけれど、不思議には思った。先生にとって特別なお店だったりするのだろうか。
 よく来るのかと尋ねると、先生はメニューから顔を上げて静かに笑うだけだった。
 料理はどれも美味しかったけれど、未だにあれが本格的なものなのか、そうでないのか分からない。
 食事を終えて最後の紅茶が出てきた時、私は小さな紙袋を先生に差し出した。
「あの……これ」
 土井先生はカップを置いて、不可解そうな表情を浮かべた。私は気後れしながらも、なんとか言葉を続けた。
「クリスマスプレゼントです」
 先生は大きく目を見開いて、口元に手をやった。
 土井先生の眉間に軽く皺が寄って、困らせてしまったのだと気付いたけれど、差し出した包みを引っ込めることもできずに、私はテーブルの上に置かれたジャムの深い赤を見つめた。
 それはほんの数秒のやりとりだったはずだけれど、恐ろしく長く感じた。
 ラズベリージャムの輪郭が歪み始める前に、私の手から紙袋の重さが消えた。
「ありがとう」
 先生の声に小さく会釈して、自由になった手を膝の上で重ねた。
「開けてもいいかな?」
「はい」
 プレゼントは焦げ茶色のレザーのブックカバーと金属製の栞にした。散々考えたけれど、何を贈っていいのか分からなかった。
 包みを開いていく先生の指先を見ていると、ドキドキと心臓が早鐘を打った。
「ありがとう。使わせてもらうよ」
 その声に顔を上げると、土井先生は優しく微笑んで、次に申し訳なさそうな顔を私に向けた。
「ごめん……私は苗字に何も用意してなかった」
「いいんです。私が勝手に……私こそ、気を遣わせてしまってごめんなさい。気にしないでください」
 笑顔を作りながら苦しくなった。
 ああ、私ひとりで舞い上がってたんだ。そう思ったと同時に、プレゼントを貰える気でいた自分がどこかにいたことが浅ましくて恥ずかしくて、惨めだった。
 正直に言うと傷ついていたけれど、それすら自分勝手で、特別だと思い上がっていた自分が呪わしくて、滑稽で愚かしいとさえ思った。
「今度、何か……」
「いらないです」
 プレゼントするよ、と言いかけた先生の声を強い口調で遮った。
「でも……」
「何も、欲しくないんです」
 頑なで子供じみた言動だったのに、土井先生はいつもと同じ優しい声で「そうか」と言うだけだった。
 それがすごく大人に感じて、先生が私を好きになってくれるわけはないと思った。
 好意と恋は違う。
 そう思っていれば傷つきたくない私の心は、一応の平静を保っていられるのだった。
 少し遅いクリスマスはそんな風にいびつだった。

 ぬるいラテを口に含む。先生が来る前に飲み終えてしまいそうだ。
 何分経っただろう。時間を確認するために、携帯に手を伸ばした。
「土井先生!」
 聞こえたのは、安堵と呆れと苛立ちの混ざったような、複雑な声音だった。
 呼ばれた名前に驚いて店の入り口の方に目をやると、息を切らした土井先生が青年に頭を下げていた。
 知り合いなんだろうな。先生と呼んでいたから卒業生かな。そう考えながら彼らを見ていると、不意に先生と目が合った。
 先生はもう一度、青年に頭を下げた。
「利吉くん、すまん」
 そう言って早足で私の方へ歩いてくる。
「え? 土井先生っ」
 利吉くん、と呼ばれた青年は困惑顔で先生を追いかけてくる。
 土井先生の息はまだ荒くて、髪は普段以上にぼさぼさ。ヘルメットを持っているから、今日はバイクなのだろう。
「苗字、ごめん」
「いえ……大丈夫ですか?」
 頷く先生の肩は何度も上下する。
 一体どこから走ってきたのだろう。
「まさか、ダブルブッキングですか?」
 唐突に降ってきた声の方に目をやると、利吉さんがひきつった笑顔を土井先生に向けていた。
「そういうわけではないんだが……苗字との待ち合わせが14時だったから、それまでには利吉くんの相談も終わるかと」
「3時間も待たされなければ、そうだったでしょうね。せめて連絡をくださればよかったのに」
 土井先生はぺこぺこと頭を下げる。
「すまん。部活動で怪我をした生徒がいて、運悪く顧問の木下先生がいなかったものだから……休日だから他の先生方も殆どいないし。保護者に連絡して、病院に連れていって、残りの生徒を帰したりでバタバタと」
 先生って大変なんだな、と思いながらふたりを眺めていると、利吉さんが苦笑混じりに息を吐いた。
「何を飲みます? 先生の分もついでに注文してきますから、その間そちらの方にも言い訳をどうぞ。私は後でかまいませんけど、10分でいいからお時間いただきますよ」
「コーヒーを頼むよ」
 メッセンジャーバッグから財布を出す土井先生に、利吉さんは鋭い口調で言う。
「当然、奢ってくださいますよね?」
 苦笑する土井先生からお札を2枚受け取ると、利吉さんはカウンターへ向かっていった。
 先生はバッグを外してソファーに腰を下ろした。ダウンジャケットのファスナーを下ろして大きく息を吐くと、疲労困憊といった様子でうなだれた。
「……ごめん、色々と」
 言って、先生はもう一度息を吐いた。
「いえ……あの、怪我した子は大丈夫でしたか?」
「ああ、捻挫と擦り傷だけですんだみたいだ。連絡もできなくてごめん」
「大丈夫です。心配だからメールしようかなって思ってたとこで……ええっと……あの方、ずっと待ってらしたみたいだし、先にどうぞ。私、あと30分くらい大丈夫ですから。私の方が約束の時間、後ですし」
 出てくる言葉はしどろもどろ。突然の展開に、私の思考はついていけずにいた。チョコレートを渡すまでの脳内予行演習は全て吹っ飛んで、正直どうしていいのか分からない。
「彼……」
 土井先生は言いながら、カウンターの方へ視線をやった。つられて私も目をやると、利吉さんはコーヒーを用意している店員と気さくに話している。
「山田先生の息子さんだよ」
「えっ」
 驚いて土井先生を見ると、先生は苦笑した。
「見たことないか?」
「えっ……あ、言われてみれば、高校の時に何度か」
 山田先生に荷物を届けたり、文化祭に来ていたりしたのを見たような見なかったような。女子生徒がかっこいいと騒いでいたのは覚えているけれど、必死に記憶を手繰り寄せても輪郭がかろうじて思い出せる程度だ。
「親しいんですか?」
「まあ、昔から知ってるから……遅刻したうえに本当に申し訳ないんだが……お言葉に甘えて、30分だけいいかな?」
「はい。大丈夫です」
「ありがとう」
 土井先生が微笑んだのを見て、好きだなぁ、と思った。
 見た目も性格も、仕事のせいで待ち合わせに何度も遅刻してくるところも、全部。
 すっと照明が遮られて、テーブルにカップが置かれた。
「土井先生、どうぞ」
「ああ、利吉くん。ありがとう」
 何気なく利吉さんを見上げると目が合った。
「あなたの分も、一緒に注文すればよかったですね。気が回らなくてすみません」
「えっ? あっ……私は大丈夫ですから」
 思いがけない言葉に慌てて首と両手を振る私を見て、利吉さんは笑う。
「利吉くん、向こうで話そう」
 土井先生が立ち上がると、利吉さんは明らかに戸惑った様子で私と先生を交互に見た。
「いいんですか?」
 いいから、いいから。そう言いながら、土井先生は利吉さんの背中を押して入り口に程近い席へ向かった。

 私は本を開いて、ソファーに身を沈めている。
 目は文字を追うが、内容は全く頭に入ってこない。表面をなぞって、するりと逃げていく。耳に入るのはBGMとお客さんたちの楽しそうな会話。女の子やおばさんの賑やかな声から少し浮いて、土井先生と利吉さんの低めの声も私に届く。
 内容までは分からないけれど、ふたりの声は明るく、その親しそうな雰囲気から付き合いの長さが窺い知れる。
 私の知らない土井先生を利吉さんは知っているのだと思うと、疎外感に苛まれる。
 待つことを快諾したはずなのに、真逆の気持ちが沸き上がって心は沈む。
 先生はどうして約束を今日にしたのだろう。利吉さんは電話じゃだめなのかな。先に先生と約束したのは私と利吉さんのどちらだろう。もし同じ時間を指定していたら、先生が選んだのは彼だろうか私だろうか。
 不毛なことを考えながらの30分は長かった。カップの中身は空で、私は携帯をいじる振りをして、ふたりを盗み見てばかりいた。
 それから5分経ち、じっとしているうちに更に15分が過ぎた。
 ふたりの会話は遠目にも盛り上がっていて、到底終わりそうにない。
 先生、土井先生。もう、50分経ちましたよ。土井先生っ!
 心の中でいくら呼んでも、先生は振り向かない。
 私がここで待っていることなど、すっかり忘れているんじゃないだろうか。利吉さんと喋っている先生は、私といる時よりもずっとリラックスしていて楽しそうだ。
 ほの暗いソファー席で、私は静かに唇を噛んだ。携帯のメール作成画面を開いて文章を打つ。

  親から、親戚が家に来ていると連絡があったので帰ります。

 打った文章を読み返して、溜息を吐いた。酷く馬鹿げた文面だ。十中八九嘘だと分かる。
 私は作成途中のそのメールを消去して、携帯を鞄にしまった。荷物と空のカップを手に取ると、土井先生と利吉さんから隠れるようにソファー席の奥にある出入り口へ向かう。静かにゴミを捨て、音を立てないようにゆっくりとドアを開けた。
 冷たい空気に触れて、すぐに走った。
 目指すのは、いつものバス停ではなく地下鉄の駅だ。
 デパートに入って地下通路を行く方が早い。そう判断して化粧品の匂いの中に飛び込み、地下へのエスカレーターを駆けるように下りた。
 誰も自分を気にしてなどいないことは知っているのに、いかにも「約束に遅れそうなんです」という体を装って早足で改札を目指した。
 ホームへの階段を下りていると、生ぬるい風が吹き上げた。髪とコートの裾がふわりと舞って、私の胸には罪悪感が降りた。
 足取りは鈍ったが止まりはせず、タイミングよくやってきた電車に乗り込んだ。
 座席に腰を下ろし、ホームに目をやった。
 ホームに土井先生の姿が見えたらどうしよう。
 そんな妄想と現実とを隔てるようにドアが閉まり、私は静かに溜息を吐いた。動悸が治まらないのは、走ったせいだけではない。
 なんてことをしてしまったんだろう。
 汗が滲む。
 ハンカチを出そうと鞄を開けると、携帯が光ったのが見えた。画面に表示された「土井先生」の文字に体が小さく跳ねる。
 もう、私がいないことに気付いたのだろうか。
 私のことなんて忘れたように、あんなに楽しそうに話をしていたくせに。
 じりじりと焼け焦げるような感情に蓋をしたくて、そのまま何も見なかったように鞄を閉じた。

 家までのバスの始発が出る駅で降りると、街中とは違い休日にも関わらず閑散としていた。
 目当てのバスは数分前に出てしまったようだった。
「あと20分かぁ」
 今日は待ってばかりいる。
 バス停の脇にあるベンチに座って空を仰ぐと、見えるのは冬らしい薄い青だった。天気は良く、日差しはそれなりに暖かい。
 それなのに、私は何をしてるのだろう。
 慌てて、考えるのをやめた。
 紙袋から包みを取り出して、宝石風のプラスチックの装飾がついたリボンを解き、包装紙を外す。箱を開けると、甘い香りが寒風に流されていった。
 艶やかな濃い茶色の中にピンク、水色、淡い黄色と緑がそれぞれ一つずつ。
 どこでチョコレートを買おうか、散々迷った。ネットの通販でも物色してみたものの、土井先生に渡すものは自分の目でしっかり確認しておきたかったので、デパートやショッピングモールへ何度か足を運んだ。
 チョコレート専門店の高級なもの、催事場に並ぶ店の珍しい形やびっくりするくらいカラフルなもの。沢山あって、とても悩んだ。
 優しい春の雰囲気が気に入ってこれを選んだ。シンプルだけれど可愛らしくて、気取っていない。本命らしくないけれど、義理っぽくもない。
 これなら背伸びせずに渡せると思った。
 けれど全部無駄だった。無駄にしてしまった。

 チョコレートを一粒、口に放ると、次第にオレンジの風味が広がった。
 不意に、水色のチョコレートの上に水滴が落ちた。
 それが自分の涙だと気付くより先に、ぼたぼたとチョコレートの上に水滴が降り注いだので、慌てて蓋を閉じた。
 苦い。
 他の誰でもなく、自分が悪いのは分かっている。
 でも、私は心のどこかで土井先生を責めている。酷いと思っている。「先にどうぞ」と自分で言ったくせに、土井先生が私を優先してくれなかったから。くだらないヤキモチだ。
 私はこんなに狡くて情けない人間だっただろうか。先生に良いところを見せたいと思うほど、自分の嫌なところばかりが見える。
 どうして見つからないようにこそこそと、黙って帰ってきたのだろう。先生にも利吉さんにも不愉快な思いをさせてしまった。どうなるかなんて、分かっていたのに。
 そう、分かっていた。
 多分、私は土井先生に嫌な思いをさせたかったんだ。私が寂しい分、先生は嫌な思いをすればいいと思った。先生と私の関係が、思い通りにならないから。
 土井先生の一番になりたい。
 一番にして欲しいと言う勇気もないくせに。
 恋ってもっと楽しいものじゃないのかな。土井先生のことを想うだけで、幸せだったはずなのに。会えるだけじゃもう足りない。
 ハンカチを出して涙を拭う。
 一緒に取り出した携帯を見ると、着信が5件あった。留守電が1件にメールは2通。全部、土井先生からだ。
 留守電を再生すると、焦ったような声が聞こえた。
「苗字、どこにいる? ごめん……店の前で待ってる」
 僅かな沈黙の後、再生の終わりを告げる電子音が鳴った。私は携帯をのろのろと耳から離し、膝の上に置いた。
 どうしようもない罪悪感。今更戻るわけにもいかない。いや、戻ればいいのかもしれないけれど、私にはその勇気はない。あれば恐らく、こんなことにはならなかった。
 待っていたバスが目の前に止まった。開いたドアが何故か、以前映画で見た真実の口のように思えて、私は荷物を持ったまま少しだけ立ち淀んだ。
 勿論、何か起こるはずもなく、いつも通りにステップを上がってバスに乗り込んで、一番後ろの窓際に座った。
 土井先生からのメールを受信順に開く。

  本当にごめん。どこにいる? もう帰ってしまったかな?
  苗字を蔑ろにする気はなかったんだ。結果的にはそうなってしまって、本当に申し訳ない。
  嫌な思いをさせてごめん。

 私が望んでいたのはこれだったのだろうか。
 困らせて、謝罪させて、それで満足?
 自分自身への問いかけに小さく首を振りながら、次のメールを開いた。

  心配なので連絡をください。

 ぼんやりしたまま、返信を打つ。

  ごめんなさい。
  具合が悪くなって、帰ってきてしまいました。声を掛けづらかったので、家に着いたらメールするつもりでした。

 大嘘つき。
 あまりに白々しい文面に、さすがに送信を躊躇う。
 でも先生はきっと、騙された振りをしてくれるだろう。大人で、優しいから。
 優しくて、優しいから優しくなくて、狡い。
 なんでこんなに好きなんだろう。
 バスの窓から差し込む日差しは、やはり土井先生を思い出させた。優しい声、黒板に向かう背中、困ったような笑顔、チョークで汚れたジャケットや怒鳴る声。本屋で見つけた黒いコートの後ろ姿も、土井先生の指先の温度も全部。
 痺れるように、甘くて苦い。
 怖くて何度も逃げるのに、囚われ続けている。これからもきっとそうだ。
 でも、それから解放される術をひとつ知っている。
 嘘でできたメールを消去して、新たに土井先生へのメールを打つ。

  勝手に帰ってきてしまってごめんなさい。

  14日に会ってください。
  夜7時に、最初に会った書店で待ってます。

 送信。
 携帯を鞄にしまって目を閉じると、心はすっかり静かになっていた。
「チョコ、買い直さなきゃ」
 自分にも届かない小ささで独り言つ。
 ちゃんと謝ろう。そしてチョコレートを渡して、自分の気持ちを伝える。
 もう、さよならしたい。
 待ってばかりいるくせに、好きになって貰えないと惨めぶる自分でいたくない。傷つくことから逃げて、傷つけるのは平気な人間になりたくない。
 好きだと言おう。
 そのせいで、土井先生に二度と会えなくなるとしても構わない。報われなくとも、日が経てば気持ちは軽くなるだろう。伝えてよかったと、思う日も来るだろう。
 最後の日になるとしたら、なんて苦いバレンタインだろう。
 そう考えて微苦笑した胸の奥は、不思議と甘く高鳴っていた。