待ち人は春に

 見上げると、どこかで静かに春が芽吹いているような星空だった。
 ふうっ、と小さく息を吐いて、アーケードに入った。
 19時過ぎの街を低いヒールで足早に歩く。
 急ぐ必要はないけれど、気持ちは急いていた。とはいえ目当ての場所もなく、人通りの多い賑やかな場所をただ通り過ぎていく。
 歩調より早く、ドキドキと胸が鳴る。昨日の夜から、期待と緊張と不安がぐるぐると混ざり合って、私の中に居座っていた。
 土井先生は、待ち合わせの時間に来なかった。勿論、事前にメールはあった。

  ごめん。遅れます。8時までには行けると思うから、どこかで待っててもらえるかな。また後でメールします。

 少しだけ苦笑して「分かりました。待ってます」とだけ返した。
 約束の時間に土井先生が遅れてくるのは、すっかり恒例になりつつある。他の人なら腹が立つのかもしれないけれど、土井先生にはそんな気は起きなくて、いつも待ち遠しい。
 でも今日は、緊張して仕方がない。待っていた日であり、来ないでほしい日でもあった。明確にそうと言われたわけではないが、今日こそ告白の返事がもらえるはずだから。
 そう考えると落ち着かなくて、土井先生を待ちながら書店で本を見ていることも、コーヒーを飲んでいることもできそうになかった。
 だからこうして、アーケードを彷徨っている。
 足早に、けれどもぼんやりしながら進む街は、時折、知らない場所に見えた。遠い国の、行ったこともない場所みたいに、私を不安にさせる。
 それでも私が考えているのは土井先生のことだけで、そこはどうやっても変わらなかった。
 横断歩道の手前。信号待ちの人混みに紛れるように、足を止めた。
 どこへ行こう。
 向かい側のアーケードの屋根を見た。このまま人の波に流されて行けたら、きっと楽だろうな。
 肩に掛けた鞄の持ち手を、ぎゅっと握った。
 人混みから抜け出して、左手の道へと進む。その先はバス通りだ。
 今日は逃げ帰るわけではなく、ただの散歩。そう言い聞かせながら、バス停の方へと足を向ける。
 よく知った、見慣れた風景。
 土井先生とここを歩いたのは、一ヶ月前になる。昨日のことにも思えるし、ずっと昔のことにも思えるから不思議だ。
 告白なんてしなければよかった。あの後、何度もそう思った。
 友達との会話の最中、ドラマや映画を見て、本を読んで。ああ、自分もこんな風に駆け引きができればよかったのに、と幾度も思った。思ったけれど、どう頑張っても自分にはできないことは分かっていた。
 逃げて、格好悪くて、告白もやっとで、全然スマートじゃなかった。
 でも、やりきった。
 あれが自分らしくて、よかったんだと思う。それにきっと土井先生なら分かってくれる。そうでないなら、恐らく私は告白する相手を間違えたのだろう。
 間違えていないという確信はある。先生の返事は分からないけれど、告白してよかったとも思っている。
 土井先生との時間は、掛け替えのない宝物。先生の貸してくれた本、コーヒーの香り、二人きりの食事、声も笑顔も何もかも。十年後に、二十年後に、思い出せたらきっと幸せだろうと思う。
 いつか。これから先のとても遠い日に、土井先生が一瞬でも私を思い出してくれたら、それ以上に嬉しいことはないだろう。
 同情でも後悔でもなく、自分に想いを寄せていた子がいたのだと、ただ思い出してほしい。
 それを私が知ることはなくても。
 先生が思い出してくれたとき、かっこ悪くて弱い自分も、好きでどうしようもなくて切ない気持ちも、今感じている不安も全部、全部、報われるんだと思う。
 報われなくても、報われるのだと思う。そう信じていたい。
 十年後、今日の先生の歳を通り越した私は、同じように思うだろうか。それとも、こうして考えていることも忘れてしまうだろうか。
 横断歩道の手前で、束の間歩みを止めて、私はひとり微苦笑した。

 冷たい風に頬を撫でられて、ふと横を見ると、駐輪場の自転車の並ぶ先にバイクが見えた。
「ここ……バイクも停められるんだ」
 土井先生の利用するバス停のすぐ側だ。バイクをどこに停めているのだろうと思っていたけれど、ここを利用しているのかもしれない。
 だから大概、バス停まで送ってくれていたのかな。そう考えると、ちょっとだけ騙されたような気分になった。
 やっぱりまだ、私は土井先生のことを何も知らないんだな。
 自転車の列に沿って歩きながら、大きく息を吐く。
 そう、何も知らない。どこに住んでいるのか、今までに彼女が何人いたのか、どんな子供だったのか。まるで知らない。
 でも、お互い様だ。
 もう会えなくなるなら、もっと色々訊けばよかった。自分の話もすればよかった。嫌われるくらいに、何度でも。
 これからも会えるなら、どんな話をしよう。
 そんなことを考えながら、人通りの少ないオフィスビルの並びを抜けて、賑やかな大通りに戻った。
 アーケードに戻って、うろうろしようかな。デパートを覗くのもいいかもしれない。それとも書店に戻ろうか。
 決められないまま、並木を数えるように歩いていく。
 仕事帰り風の人達。これから飲みに行くと思われる、騒々しい一団。きっとホワイトデーだからだろう、幸せそうなカップルもいつもより多い気がする。
 週末の浮ついた雰囲気に、今はどうしても馴染めない。
「土井先生のバカ」
 緩んでいた歩調を速めた。前を行く人を避けたり、避けられたりしながら、ずんずんと進む。
 そのうちに賑々しさが増し、わざわざ居酒屋の多い方へと向かっていたことに気付いて踵を返した。
 気持ちにも自分自身にも行き場がなくて、もどかしい。
 今、何時だろう。もう8時を過ぎたんじゃないのかな。
 イライラしながら携帯をポケットから取り出したが、時間よりも先に、新着メールに気付いて慌てて画面を開いた。

 10分くらいでそっちに着くと思う。

 土井先生からのメール。送信時間は6分前。
 電話がないので、まだ先生は着いていないはずだが、ふらふらしている場合ではない。
 書店で待つとは言わなかったけれど、せめてその近くにいた方がいいだろう。ここから書店へは3ブロックほどある。 「急いで戻らなきゃ」
 小走りに、来た道を戻る。 吐く息が僅かに白く、流れていく。それほど寒いとは思わなかったが、段々と冷え込んできたのかもしれない。
 あと1ブロック。
 大股で5歩もあれば渡り切れそうな横断歩道の信号に、運悪くひっかかった。さっきまでは全く足止めなどされなかったのに。目的地ができた途端、どうしてこうなるんだろう。
 呼吸を整えながら立ち止まると、急に汗が滲んできた。 一昨日まで雪がちらついていたけれど、春物のコートの方がよかったのだろうか。
 コートの中に冷たい空気を入れようと、持ち上げた襟は重かった。確かに、この時期には厚手過ぎるかもしれない。
 でも今日はこのベージュのコートがいいと思った。これなら、土井先生にちゃんと見つけてもらえるような気がして。
 パタパタと手で顔を扇ぐ。
 目の前の細い道を通る車は殆ど無いのに、信号はなかなか変わらない。
 時々、信号を無視して渡っていく人はいるけれど、私にはとても真似できず、やきもきしながらただ青に変わるのを待っている。
 やっぱり私は要領が悪いのかな。そわそわしながら、ひとりで首を傾げていると、信号がようやく青になった。
 横断歩道を渡り終えたところで、なんだか疲れてしまった。土井先生を待たせちゃ行けないと思って急いでいたけれど、私が待たされた時間を考えたら、少しくらいはいいんじゃないのかな。
 とりあえず、時間と連絡の有無を確認するために、と携帯を取り出した。邪魔にならないように並木の脇に寄る。
 携帯を開くと、先生からの連絡はまだなかった。
 書店の入っているビルの前で会いましょう。私も今から向かいます。
 そう打つつもりで、メールの作成画面を開いた。
 画面が切り替わったとき、私は不意に車道側を振り向いた。
 その瞬間、一台のバイクが通り過ぎていった。
 フルフェイスのヘルメット越し。
 目が合ったわけでもないのに、互いに気付いたのが分かった。
 土井先生。
 もしかしたら、あの駐輪場に停めるのかもしれない。そう考えたとき、私は既に走りだしていた。
 鼻先や頬に、寒さが刺さる。
 大した荷物の入っていない鞄がやたらと重く、靴のヒールも邪魔で仕方がない。どちらも投げ捨てたいくらいだが、当然そうはできないのだから我慢するしかない。
 土井先生に会えるのだから、これくらい我慢できる。
 もう走れない、待たせてもいい。ついさっきそう思ったばかりなのに、どうして私は走っているんだろう。
 頭の隅で考えたことに、心が答えた。
 そんなの、会いたいからに決まっている。
 土井先生に会いたい。ずっと、ずっと待っていた。
 返事もこれからのことも、もうどうでもよくて、ただ会いたかった。
 細い路地から出てきた人とぶつかりそうになって、互いに驚いて足を止めた。
「す、すみません」
 謝って、少しだけ遅いペースで、また駆ける。
 髪も化粧も崩れて、靴もきっと痛んでいる。それでも、なりふりかまわず走った。
 走るしかないと思った。
 
 どこをどう走ったのか覚えていないけれど、やっと駐輪場が見えた。ほっとすると同時に苦しくて、膝に手を突いて前屈みになる。
 殆ど間を置かずに、大きな白い息が何度もこぼれる。
 ここで合っていただろうか。行き違いになっていたりしないかな。今更ながら、そう考えてしまう。
 顔に落ちてくる髪を耳にかけながら視線を上げると、駐輪場のすぐ脇で携帯を開いている土井先生が見えた。
 携帯のバックライトが、先生をぼんやりと照らしている。
 土井先生が携帯を耳に当ててすぐ、私のコートのポケットの中で携帯が鳴った。
 私は電話には出ず、声を上げた。
「土井先生!」
 先生が弾かれたようにこちらを見た。それを合図にするように、私はまた先生に向かって走り出した。
 土井先生の驚いた表情が近くなる。
 あと少し。
 アスファルトの小さな窪みに、躓いた。
「苗字っ」
 あっ、と思った次の瞬間、私は土井先生に抱き止められていた。
「ごめん」
 訳が分からないまま、苦しいくらいに抱きしめられた。
 土井先生って足が速いんだな、なんてぼんやりと考えながら、私は先生の腕の中で荒い呼吸を繰り返す。
 走り疲れた体に、ダウンジャケットの冷たさが心地良くて、静かに目を閉じた。土井先生からは、冬の乾いた匂いがした。
 すごく長い時間そうしていたような気がするけれど、ほんの30秒程度だったのかもしれない。
 私の呼吸は落ち着いてきたけれど、先生はまだ私を抱きしめたままだ。
 そういえば、さっきの言葉はどういう意味だろう。
 私が顔を上げる気配に気付いてか、先生の腕が緩んだ。
 見上げると、目が合った。
「……好きだ」
 確かに土井先生の声だったけれど、聞き間違いだと思った。
 聞き返していいのか分からなくて、開きかけた口を閉じた私から、土井先生は体を離した。
 でも土井先生の両手はしっかりと私の肩に置かれていて、怖いくらい真剣な目で、真っ直ぐに私を見つめている。
「苗字のことが、好きだ」
 なんだか、世界中に騙されてるんじゃないかと思った。
 立っているこの場所も周りの風景も、全部作りものなんじゃないかと思うくらい、信じられない言葉だった。
 信じられないくらい、嬉しい。
 呆然と立ち尽くす私を見て、土井先生は、ふっ、と笑った。
「ちゃんと、聞いてたか?」
 そう言った土井先生の声音は、授業中と同じようで、どこかが確かに違っていた。
 少しの間の後に頷いた私を見て、先生は安心したような表情を浮かべた。
「付き合おう……」
 すぐに照れくさそうに笑う。
「いや、付き合ってください、か」
「……はい」
 絞り出すようにそう答えると、涙があふれた。
「ごめんなさい、なんか……ほっとして」
 ハンドタオルを出そうと鞄を漁っていると、土井先生の指が私の涙を拭った。
 そのせいで何故か余計に泣けてきて、涙が止まらなくなった。
 待ちくたびれて、走り疲れて、泣き出して。今の私は驚くくらい不細工な顔をしているんだろうな、と思った。
 恥ずかしくなって背を向けようとした私を、先生が引き寄せた。とっさに先生の胸に手を着くと、その手を先生がそっと握った。
 大きくて、温かくて、少し骨ばった土井先生の手が、もう一度私を引き寄せた。
「ありがとう、待っててくれて」
 先生の胸に顔を寄せたまま、必死で首を横に振ると、頭の上で笑う気配がした。
「好きだよ」
 言って、土井先生は大きく深呼吸した。
「苗字に……苗字だけに、話したいことが沢山ある。一緒に行きたい場所も、見たいものも、知ってほしいことも、知りたいことも……数え切れないくらいあるんだ」
 私もです。
 到底、言葉にはならなくて、返事をする代わりに先生の背中に腕を回した。

 先生のダウンジャケットには、私の涙の跡が地図のように残っていた。
「汚してごめんなさい」
 ハンドタオルで目元を拭いながらそう言うと、土井先生は肩を竦めた。
「大丈夫だ、どうせ元々汚いから」
 私が顔をしかめると、先生は慌てた様子で手を振った。
「いや、そんなに汚くはない……はずだ……そろそろ暖かくなってきたからクリーニングに出そうかな、と思っていたから、つい。……とにかく、そんなに汚くはないから」
 言い訳をする先生の情けない風情に小さく笑いながら、ハンドタオルを鞄にしまう。
 この後どうします、と尋ねるように先生を見上げる。
 目が合うと、土井先生は柔らかく微笑んだ。
「何か食べに行こう」
 差し出された手に僅かに戸惑いながら、自分の手を重ねた。
 不思議と緊張はしなかった。先生の体温が当たり前のように、すっと馴染んで、どこか懐かしい気持ちになった。
 例えば、何度も繰り返し眺めた景色を思い出す時みたいに。
 目の前に広がる街は、普段以上にキラキラして見える。道路に車、ビルに並木に、人間も。皆、新しい季節を喜んでいるみたいだ。
 そう、勿論私も。
 隣を歩く土井先生を見上げて、もう春なんだな、と思った。