土井先生と恋人同士になって、一月ほどが経つ。
何が変わったというと、正直、前とあまり変わらない。電話が増えて、私はメールを気兼ねなく送れるようになったこと。あとは、先生からのメールの返信が少し遅くなった気がすることくらい。
そもそも先生は忙しいようで、ホワトデーの後に会ったのは一度だけ。それもたった30分。
恋人らしい時間なんて過ごせるわけもなく、一ヶ月経っても付き合っている実感は無いままだ。時々、まだ片思いをしている気分になって、ひたすら無駄に想像力を働かせている。
きっと土井先生は、卒業式に手紙を貰ったり告白されたりしたはずだ。なんと答えたのだろう。もしかしたら新入生のとびきりの美少女が、土井先生のことを好きになってしまったかもしれない。ひょっとしたら美人な新任教師だって来たかもしれない。
そんな風に悶々とするだけで、到底訊けやしない。
今週も会えそうにない、というメールや電話に平気な振りをして、後でひとり溜息を吐く。不安な夜にも寂しい朝にも、「会いたい」なんて我が儘は言えなくて、大人の振りをして自分を騙すので精一杯。
本当は毎日会いたい。今日も明日も、一週間後も先生が私を好きでいてくれるか、不安で仕方がない。
だから「花見に行かないか」という土井先生からメールに、一も二もなく同意した。
駅での待ち合わせは初めてで、ちょっとドキドキする。
案の定、待ち合わせスポットには沢山の人がいた。ここにいる皆がそれぞれに誰かを待っているのは、なんだか不思議な光景だ。
ざっと見回してみるけれど、土井先生はまだ来ていないようだった。できるだけ端の方で、けれども埋もれすぎない場所で足を止めて携帯を見る。
約束の時間まで15分ある。
今日は時間通りに来てくれるといいな。そう考えながら買ったばかりの靴に目をやる。
一目惚れした白のフラットシューズには、立体的な花モチーフが控えめに付いていて、土井先生にもらったペンダントと合わせたら可愛いと思った。
多分、先生は気付かないと思うけど。
ぼんやりと人の流れを眺めていると、つん、と後頭部を軽く押された。
驚いて振り返ると、すぐ後ろに土井先生が立っていた。
「名無しさん、全然気づかないんだな」
「せ、先生……いつから後ろにいたんですか?」
焦りながらそう訊いた。もしかしたら、先生を待っていたつもりが、逆に待たせていたのかもしれない。
けれども、土井先生は可笑しそうに笑った。
「今」
「もうっ、違う人だったらどうするんですか」
「ちゃんと前から見て苗字だって確認した」
先生は私のことを下の名前で呼んでくれるようになったけれど、時々苗字に戻る。それがどうしてか、名前で呼ばれるよりもずっとくすぐったく感じる。
「行こう」
頷いて、土井先生の隣を歩く。
久々に見る先生はやっぱりかっこいい。
「今日は風が冷たいし、昼は公園じゃなくてどこか別のところで食べないか?」
「はい。きっと混んでるし、その方がいいですね」
桜を見ながらのお弁当も捨てがたいけど、室内でゆっくりできる方がいいかな。
「晴れてよかったな」
「そうですね」
ぎこちなく喋りながら切符を買って、改札を抜けてホームへ、そしてタイミング良くやってきた電車に乗る。極当たり前の流れなのに、土井先生とは初めてで、変な感じがする。
電車が揺れると、土井先生の肩が僅かにぶつかるくらいの距離。触れないように気をつけた方がいいのか、そうしない方がいいのか分からなくて緊張する。
不自然に姿勢を正した私に、土井先生が小声で言った。
「いつにする? 買い物」
「買い物?」
首を傾げながら聞き返すと、先生は苦笑した。
「ホワイトデーのお返し。一緒に買いに行こうって言ったじゃないか」
「あ……でも、忙しいんじゃないんですか?」
「忙しいけど……」
土井先生が言葉を濁す。
次の言葉を待っているうちに目当ての駅に到着して、私たちは駅へ降りた。
同じ公園へ花見にいくであろう人たちの後ろをゆっくりと歩きながら、土井先生が口を開いた。
「ゴールデンウイークはバイト? 友達と遊んだりするのか?」
「バイトだけです。友達は彼氏と旅行に行くって言ってるし」
「ずっとバイト?」
「いえ、休みもあるんですけど……パートさんとシフト替わるかもしれないから、まだはっきりしてなくて」
「そうか」
うーん、と土井先生は小さく唸った。
「じゃあ、ゴールデンウイークが終わってからの方がいいかな。とりあえず、シフト決まったら空いてる日を教えてくれ。買い物に行こう」
「はい」
チョコのお返しなんていらないのに。嬉しいけど、何を買ってもらおう。欲しいものはそれなりに思い浮かぶけど、先生に買ってもらうとなると話は別だ。
アクセサリーはクリスマスプレゼントに貰ったし、そもそも付き合い始めたばかりでアクセサリーをねだるのもちょっと嫌だ。目覚まし時計が壊れているのだけれど、それでもいいのかな。秒針の音がしないものか、デジタルで、あんまり大きくなくて、色はできれば寒色で。なんて言ったら絶対可愛くない。ケーキセットでもご馳走になれば丁度いいんじゃないかなぁ、と思うけどそれでもいいのかな。そのくらいで十分嬉しいのに。
一緒なら、何だっていいんだけどなぁ。
先生の横顔を見上げた途端、段差に躓いた。
「苗字!」
前のめりになった私の肩を、大きな手が押さえてくれた。
「大丈夫か。前、見てなかったのか?」
言われて顔上げると、私たちの目の前には「段差に注意」と書かれた看板があった。どうやら補修工事をしているらしい。
「す、すみません」
「気をつけて」
ほんの少しだけ叱るような口調に縮こまる。
先生の顔を見てました、なんて言えない。
やっぱり、咄嗟の時はまだ苗字で呼ばれるみたいだ。いつか、名無しさんとしか呼ばれなくなったりするんだろうか。私もそのうち「半助さん」なんて呼んじゃったりするのかな。
そこまで考えて、急に恥ずかしさが襲ってきた。先生の名前を呼ぶという想像だけで、じたばたしながら叫びそうなほど照れてしまう。
「どうした?」
俯いた私を先生が覗き込んだので、慌てて首を横に振った。
「何でもないです。桜、綺麗ですね」
「ああ」
公園への小道も桜色に染まっていた。風が吹くと、はらはらと花弁が舞う。
「来週はもう、散ってるだろうな。今日来られてよかった」
土井先生が嬉しそうに言って、私の心も弾んでいく。
公園には屋台が出ていた。沢山の花見客で賑わって、まるでお祭りのようだ。
私たちは公園を一回りすることにした。
満開の桜はとても綺麗で、公園は薄紅色にふんわりと染まっている。
けれども、どうしても気が散ってしまって、折角の桜を見る余裕が今の私にはない。その原因は、繋いだ手だけではなかった。
先生には気付かれないようにしなくちゃ。そう思ったのとほぼ同時だった。
「足、どうした?」
「え?」
深刻そうな声に驚いて顔を上げると、眉間に皺を寄せた土井先生の視線は私の左足に向かっていた。
「さっきから、足を庇っているだろう。靴擦れか?」
先生の目敏さに驚きながら、言い訳を考える。
新しい靴の踵は思っていたよりも固く、長く歩くのには向いていなかったようだ。お花見デートに浮かれて油断しきっていた私は、靴擦れ対策なんて用意していなかった。
対策なんていうのは大袈裟で、軽い靴擦れなんて絆創膏を貼ればそれで終わりだ。それなのに運の悪いことに、いつも鞄に入れて持ち歩いているはずの絆創膏は、昨日友達にあげてしまったものが最後だった。
どうして、よりによってこのタイミングなんだろう。
「大丈夫ですよ」
そう言って、先生に笑顔を向ける。
痛いし、公園は思ったよりもずっと広いけれど、我慢できるはずだ。というか、我慢する。
公園を出たらコンビニに寄らせてもらおう。そうすれば大丈夫。付き合い始めて最初のまともなデートなんだから、こんなことで水を差したくない。
土井先生は黙ったまま、人の少ない噴水の方へと進む。ゆっくりとした歩調が私を気遣ってのものだと気付いた時には、もう噴水は目の前だった。
繋いでいた手が自由になって、もしかしたら先生は怒っているのかもしれない、と思った。
次の瞬間、私の肩に二度、先生の手が優しく触れた。
「ここで待ってて」
そう言って、先生は走り出した。
びっくりする間もないくらいの速さで、先生の後ろ姿が花見客の中に紛れた。遠く、小さくなったかと思うと、すっかり見えなくなってしまった。
前にも思ったけど土井先生って足が速いんだなぁ、なんてぼんやり考えながら、私は噴水の縁に腰を下ろした。
ピリピリした痛みと鈍い痛みを我慢しながら靴を脱ぐと、赤茶色の染みが踵を汚していた。
「あーあ……」
溜息混じりに呟きながら、真新しい靴の汚れをウエットティッシュで拭っていると、噴水を通り抜けた風が鼻先を掠めた。
それは少しだけ生臭くて、でも今の自分には似合っているような気がして、笑ってしまった。
左の踵からは血、右の踵には水膨れ。
「かっこ悪い……」
呆れられてしまったかもしれない。
遠足の登山やハイキングじゃあるまいし。恥ずかしくて情けない。すごく子供っぽいと思われたんじゃないかな。
やっぱり付き合うのはやめよう。
そう言われてしまったらどうしよう。勝手な悪い想像が大きくなっていく。
段々と暗い気分になってきて、履くのを楽しみにしていた新しい靴も色褪せて見える。
足の先に靴を引っかけて、そっと持ち上げる。爪先を下げると、カコン、と音を立てて靴は石畳に落ちた。
自分が悪いのは分かっているけれど、少しだけ八つ当たり。
「ごめんね」
口の中で呟いて、大きな白い花弁のようなそれを拾った。
フラットシューズに爪先だけを押し込めて、今更ようやく気がついた。
先生はどこに行ったのだろう。
恋人としての初デートでの自分の情けなさばかりを嘆いていたけれど、それどころかデートの相手がここにいない。
さすがに帰ってしまったわけではないだろうけれど、心配になってしまう。待っていてと言われたのだから、戻ってくるはずだけれど、どこへ行ったのだろう。
もう少ししたら、電話をしてみようかな。
とことん至らない自分に落胆して大きな溜息を吐くと、優しい声が降ってきた。
「名無しさん」
顔を上げると、土井先生が小さな白い買い物袋を持って立っていた。
袋から取り出した絆創膏の箱を手渡された私が瞬きをしているうちに、土井先生は消毒液の封を開けた。片膝を地面に着くと、私の左足に触れる。
「え? あっ……」
そこでようやく、土井先生が何をしているのかが分かった。
「じ、自分でやります!」
先生の手から逃げるように足を動かすと、彼は慌てたように立ち上がった。
私から少し離れて噴水の縁に腰を下ろすと、消毒液を私のすぐ側に置いてくれた。
「……ありがとうございます」
うん、と素っ気なく言って、先生は後ろの噴水を見ているみたいだった。
傷に消毒液がしみて、思わず小さく唸ると、先生の溜息が聞こえた。
「どうして早く言わなかったんだ。痛かっただろう」
「……ごめんなさい」
「謝ることはないが……こういう時は酷くなる前に言いなさい」
こういう口調に、やっぱり教師なのだと思わされる。まだ、生徒に見えているのだろうか。この状況では仕方がないけれど。
そんな思いに蓋をするみたいに、絆創膏を貼る。両方の踵に2枚ずつの絆創膏はひどく不格好で、背伸びしたくても背伸びしきれない自分はこんなものなんだな、と思い知らされる。
「あの……これ、幾らでしたか?」
「いいよ。それ、名無しさんが持ってて」
と言って、土井先生は困ったように笑った。
「でも」
「いいから」
お金を払います、と私が言うより先に、先生はきっぱりとした声で言った。そして、すぐにいつもと同じ優しい声になる。
「……鞄に入るか?」
はい、と静かに返事をして、消毒液と絆創膏を鞄にしまった。
「新しい靴?」
「……はい」
答えながら、靴を噴水に投げ入れたい気分になった。
踵の絆創膏と白いフラットシューズを交互に見る。
実用性と可愛さはなかなか同居してくれない。なんてことは分かりきっているのだから、可愛さを選んでデートを台無しにするよりは、履きなれたスニーカーを選ぶべきだったのかもしれない。
落ち込むと、余計に傷が痛むような気がした。
黙って下を向いていると、土井先生が動く気配がした。
「可愛いな」
言って、土井先生は屈んで靴と私の足に触れた。
まるで毎日そうしているみたいに自然な流れで、先生の手に促されながら、私は静かに右足を靴の中に納めた。
「足は痛そうだけど、似合ってる」
左足の絆創膏も、靴でぴったりと隠れた。
「可愛いよ」
にこりと笑いながら、先生は立ち上がって私に手を差し出した。
「立てる?」
少しだけ戸惑いながら手を伸ばすけれど、恥ずかしくて指先が触れるので精一杯だ。
靴を履かせてもらう方が、よっぽど恥ずかしいのに。
「なんだか、お姫様みたいだな」
土井先生の言葉にびっくりして、引っ込めようとした手を強く握られた。そのままゆっくりと、たぐり寄せるように一歩分ずつ引き寄せられる。
「せ、先生って……そういうこと、言うんですね」
「まぁ、恋人にくらいは」
囁く声はとても照れくさそうで、それが私にも伝染したみたいだった。 頬も耳も首も熱い。真っ赤になっているんじゃないかと思うと、とてもじゃないけど顔を上げられない。
頭の上で、先生が小さく笑う気配がした。
「ありがとう」
それが何に対しての言葉か分からずに、思わず顔を上げると、土井先生は自分の鎖骨の辺りを指先で軽く叩いた。
「それ、つけて来てくれてありがとう」
それ、というのがペンダントを指していると分かって、私は余計に戸惑った。
すごく気に入っていること、大事にしていること、プレゼントされた時にとても嬉しかったこと。伝えたいのにどれもうまく言葉にならなくて、言葉にしたら嘘に聞こえてしまう気がして、ただ笑顔を見せることしかできなかった。
土井先生も嬉しそうな笑みを向けてくれたけれど、私が伝えたいことの半分も伝わっていないはずだ。いつかちゃんと、言葉で伝えられるのだろうか。
いつか、が来るまで、先生は私の隣にいてくれるだろうか。
桜の花弁が風に流れていくのが見えた。
「歩けそうか?」
「はい」
先生に手を引かれて、ゆっくりと歩きだす。
「そこまで行ったら、帰ろう」
先生の指した先には一際大きな樹があった。でも、そのずっと先にも公園は続いていて、桜は沢山咲いているはずだ。
気遣ってくれているのは分かるけれど、本当はがっかりされたんじゃないかと不安になる。
「どこかで昼ごはんを食べて……そうだな、映画でも観ようか? 何か面白そうなのやってたかなぁ」
安心させるような優しい声につられて見上げると、先生と目が合った。
先生の柔らかい笑みに、居た堪れなくなった。
「先生」
「ん?」
「ごめんなさい」
どうした、と静かに言われて、益々気持ちが強まる。
「私のせいで、ゆっくりお花見できなくて……ごめんなさい」
本当は謝るよりも、嫌いにならないで、と言いたかった。
土井先生が溜息を吐いて、どきり、と心臓が鳴った。
けれども、何か良くないことを言われるんじゃないか、という私の予想はあっさりと裏切られた。
「花見は別にいいんだよ……ただの、口実だから」
咳払いをひとつして、先生は続ける。
「私は、名無しさんに会いたかっただけなんだから……一緒にいられるなら、何だってよかったんだ。だから、何も気にしなくていいから」
土井先生は困ったように笑った。
「残りの桜は、また来年……ゆっくり見に来よう」
繋いだ手に、そっと力が込められた。先生も同じ気持ちでいてくれたことになんだか泣きそうになりながら、私も少しだけ握り返した。
「来年はお花見弁当を買ってこようか」
「……はい」
来年、という言葉で、先生とちゃんと付き合ってるんだと思えた。
土井先生と手を繋いでいることでもなく、私のために絆創膏を買いに走ってくれたことでもなく、守れるかどうかなんて分からない未来の約束が、そう実感させてくれた。
一番不確かな言葉に、私たちの関係が確かなものだと感じさせられるなんて不思議だ。
正直に言うと、ずっと好きでいてもらえる自信なんてない。来月には別れてしまっているかもしれない。
でも少なくとも今は、一年後も私と一緒にいたいと土井先生は思ってくれている。
そう、絶対に。
「晴れるといいですね、来年も」
その先もずっと一緒にいられるように、願いを込めながら言った。
今日は言葉で伝えられなかったことも、来年にはきっと言えるようになっているはずだ。嬉しいことも、不安や心配も、たまには我が儘も。靴擦れしたことだって、すぐに言える。
先生からも沢山聞けるといい。何でも言ってもらえるような大人になりたい。土井先生の周りにどんなに素敵な人がいても、ちゃんと選んでもらえるような人間に。
今はまだ想像がつかないけれど、これからは喧嘩もするだろう。嬉しいことも、悲しいことも、楽しいことも全部積み重ねて、そうやって次の春に、今とは違うふたりで、気持ちは同じままで桜を見に来ることができたらいい。
そしてまた、次の春の約束をしたい。
「名無しさん。足、痛むのか?」
心配そうに顔を覗き込まれて、慌てて首を振った。
「絆創膏貼ったから、大丈夫です」
土井先生に微笑んで、前を向いた。
春の青空の下で、桜色の道はどこまでも続いてるようだった。