落ちこぼれ

 急がなければ、と名無しさんは思った。
 けれども急に、彼女の足下の地面が消え去った。
 落ちる。
 そう思って飛び起きるのは、今週に入ってもう何度目だろうか。
「……最近、多いなぁ」
 名無しさんは溜息混じりにぼやいた。
 寝入り端や朝方に、がくん、と体が小さく痙攣を起こし、落下するような感覚と共に目が覚める。それが何日も続いていた。
 きっと疲れているのだろう。そう思いながら名無しさんが携帯を見ると、時計は10時27分を表示していた。
 アラームが3分後に鳴るはずだった。
「仕方ない……起きよ」
 損をした気分になりながら、名無しさんは羽布団をよけて起きあがる。
 カーテンの隙間からは日が射して、天気がいいことを教えてくれているが、春の暖かな陽光も名無しさんの心を晴らしてはくれない。
 この一年、彼女の心はずっと雨模様だった。

「またダメだったの?」
 友美のあっけらかんとした言葉に、名無しさんは肩を竦めた。
「書類は通ったんだけど、面接で落ちちゃった」
 こぢんまりとしたレストランで、名無しさんは親友の友美と食事をしていた。
 大学で知り合った友美は同い年で、明るく社交的な美人だ。一見すれば名無しさんとは間逆のタイプである。
 だが、気が合う相手ではない、という名無しさんの第一印象は外れ、いつの間にか彼女が一番の友人になっていた。
 元々の趣味や性格が異なるため、いつも一緒に過ごすという関係ではないが、それでも気が向けば買い物や食事に行き、部屋でのんびりと朝まで喋り明かすような気安い関係だった。
 しかし、ここのところの名無しさんは友美に劣等感を感じ続けていた。
 ふたりが大学を卒業して一年が経つ今、友美は会社員であり、名無しさんはアルバイターだ。
 その差が名無しさんを落ち込ませるのだった。

「名無しさん、選り好みしすぎなんじゃない?」
「うーん……でも、何でもいいってわけにもいかないよ」
「そうだけど、少し条件変えてみたら? 意外にすんなり決まるかもよ?」
 友美の何気ない言葉が、名無しさんの胸に突き刺さる。心配からの言動だと分かっているはずなのに、見下されているような気分になり、じりじりと焦りと苛立ちが募る。
「そうだね」
 名無しさんは無理矢理に口元を綻ばせ、続けた。
「やっぱり新卒じゃないときついのかな……いいなぁ、友美は」
「必死で就活したもん」
 友美が明るくそう言って、ミートローフを頬張ったのを見て、名無しさんは彼女から余裕を感じた。
「わ、私だって必死でやったよ……内定決まって安心してたのに……卒業直前に倒産とか、ありえないよ」
「運が悪かったよね。でもさ、誰だって頑張ってもダメな時はあるし……とりあえず仕事探し続けなよ。そのうち絶対決まるって! 内定取れてた会社より名無しさんに合った仕事がきっと見つかるよ」
「うん」
 本当にそうかな。名無しさんは心の中でそう問いながら、料理を押し込むように口へ運んだ。

 他愛のない話題に花を咲かせてデザートを平らげた後、ふたりは席を立った。
「あたしが払うね」
 レジの手前で、伝票を手にした友美にそう言われ、名無しさんは首を横に振った。
「自分の分くらいちゃんと払うよ。この前も、お茶ご馳走になったじゃん」
 名無しさんが財布を出そうと慌てて鞄に突っ込んだ手を、友美は止めた。
「じゃあ、あたしの誕生日によろしく。美味しいハンバーグが食べたいな。で、ケーキは別の店で食べよ」
 にっ、と快活に笑って友美はレジへと向かう。
 親友の優しさと気遣いが嬉しい一方で、劣等感がより一層名無しさんの胸を浸食していた。
 
 レストランの外は、暖かい春の夜だった。
 ふたりはいつものように歩いていた。友美は電車で、名無しさんは歩いてアパートまで帰る。
 先ほど食べた料理、テレビ番組の話や共通の友人の話をぽつぽつとしていると、学生時代に戻ったような気持ちになった。
 なんとなく隣を盗み見ると、綺麗なジャケットを着た親友がしっかりと前を見据えているのが目に入り、名無しさんは急いで視線を逸らした。
 不意に視界に入った自分の右手。その中指に鈍く光る指輪が、名無しさんを余計に惨めにさせた。それは生まれて初めてのバイト代で記念に買ったものだ。誕生石のついた安物の指輪を肌身離さず身に着けるようになってから、6年になろうとしている。
 大切にしてきた指輪だが、惨めな自分の分身のように思うこともある。かといって、外す勇気もきっかけもなかった。
「じゃあ、またね」
 はっ、と名無しさんが顔を上げると、そこはもう駅の前だった。
 自分に笑顔を向ける親友が、名無しさんにはキラキラ輝いて見えた。彼女はいつだって輝いていたが、学生時代とはまた違う眩しさだった。
「就活頑張って! あんまり無理しないでね」
「うん。ありがと……気をつけてね」
「名無しさんもね、おやすみー」
 そう言いながら手を振って、友美は改札を通っていく。
 親友の凛とした背中を見送って、名無しさんは再び歩き始めた。
 友美と自分とは、何が違ったのだろう。同じ大学の同じ学科。差はどこで生まれたのだろう。
 いや、何もかもが違うというのは学生時代から知っていた。ただ、同じ様になれるのではないかと思っていたのだ。名無しさんは自分も彼女のようにキラキラと輝ける人間なのだと、信じてしまっていたことを後悔していた。
 薄暗い道を歩いていると、この世界にひとりきりのように思えた。通りを行き交う車も、店や家の明かりも別世界のことのようだ。
 このままどこか遠くに行きたい。煩わしい日々のことで思い悩む必要のない場所に。
「無理だよね」
 諦めたように言って自嘲すると、名無しさんは煌々と明るい光を放つコンビニへと足を向けた。
 入店を知らせる音に次いで、いらっしゃいませ、という店員の声を聞きながら名無しさんは店の奥の方へと進む。買うものは決まっている。
 いつもと同じ紙パックのレモンティーとプリンを一つずつ手にとってレジへ持っていく。
 名無しさんは機械的に会計を済ませると、再び暗い家路についた。
 遠くで桜がぼんやりと、春の夜を明るく照らしていた。

 ポストを開けると、郵便物が幾つか入っていた。
 ダイレクトメールに混ざって、社名の入った封筒が一つ。よく知ったその厚みは、紛れもない不採用通知だ。
 連絡がないよりは幾分かましだが、落ち込むことに変わりはない。
「また落ちちゃったか」
 名無しさんは高望みなどしてないつもりだった。
 普通でいいと思っているが、普通とは何だろう、と最近はよく考えている。
 やりたいことは特になく、可能なら、という程度に事務職を希望している。事務職以外でも、できれば週休二日で社会保障完備。残業は嫌だが必要ならば仕方がない。
 勿論それは理想であって、生活できる給料が手に入るならば、多少の我慢はするつもりがある。
 洒落たカフェでの時間も、高いランチもネイルサロンも、シーズン毎の流行の服もいらない。それでも高望みしてるのだろうか。
 本当は自分で考えているよりもずっと、自分は取るに足らない人間で、普通すら望んではいけないのではないか、と名無しさんは考えることが増えていた。
 平均を目指す為の努力は、実らないのではないだろうか。
 名無しさんにはやりたいことも、人生の目標も何もない。面接では適当に都合よくでっちあげるが、そんなことは恐らく相手も分かっているのだろう。だから、採用されないのだろうか。
 それなら、どうすればいいのだろう。
 どこへ進んでも行き止まりが待っているような気分で、この一年を過ごしてきた。
 辛いが、それが落ちこぼれの自分の人生なのかもしれない。そんな風に、名無しさんは諦めのようなものを感じ始めていた。
 名無しさんはゆっくりとアパートの階段を上がる。
 一体、どれだけの人間が目標や夢を持ち、それに向かって精一杯生きているのだろう。そして、その中で幾つの努力が報われるのだろう。
 何もない自分は、何もないまま生きていくのだろうか。仕事も恋愛も、人生はひとつも思うようにならない。
 名無しさんは大きな溜息を吐いた。

 玄関のドアを開けると、レースのカーテン越しに街の灯りが見えた。
 名無しさんが学生時代から住み続けている1Kの部屋。ここでの生活を維持するのはバイトでもどうにかなってはいるが、それを何年も続ける自信はない。けれども、前の一年で成し得なかったことが、この一年でできるのだろうか。
 頑張ろうという気持ちに反して、不安が増殖していく。
 後ろ手に鍵を閉め、部屋の明かりを付ける。いつも通りの流れで部屋に入ると、ローテーブルの上に携帯とレジ袋を置いた。
「明日は……9時から、か」
 コルクボードに貼ったバイトのシフト表を確認しながら、名無しさんは上着を脱いだ。

 風呂から出て部屋に戻ると、ローテーブルの上の携帯がメールを受信したところだった。
 友美からだろう。名無しさんは濡れた髪をタオルで拭きながら、携帯を手に取った。

  お疲れさま! 今、家に着いたよ。名無しさんももう家かな?
  今日はありがとう。ゆっくり話せて楽しかったー♪ごはん美味しかったし!
  またごはん行こうね(^o^)おやすみ。

 今日はごちそうさまでした。そう返信の文章を打ちかけた手を止めて、名無しさんは作成途中のメールを破棄した。そして、友美からのメールを消去した。
 ざわざわと胸の奥が動く。
 嫉妬と劣等感。惨めで、苦しくて、たまらない。大好きなはずの友達が疎ましく、そう思う自分はもっと嫌だった。
 醜い感情を押し込めたくて、名無しさんはレモンティーを開けると流し込むように飲んだ。
 甘酸っぱく、ほんの僅かに渋さが残る。いつもと変わらない味だった。学生時代に友美とよく飲んだ味。
 大好きだったはずのレモンティーが苦く、けれども甘くて、名無しさんはどうしようもなく悲しくなった。
 その甘さに、慰めよりも追い打ちをかけれられているようで、ただただ辛い。
 名無しさんはレモンティーを飲み干した。
 気が付くと、いつの間にかぼろぼろと涙がこぼれ落ちていた。泣いている理由が自分でもよく分からない。
 名無しさんがレモンティーのパックを投げ捨てたその先に、不採用通知の封筒があった。
 パックは軽い音を立ててぶつかり、封筒に小さな染みを作った。
 それを見て嗚咽が洩れた。
 我慢していたものが噴き出して、止めることはできなかった。
 自分はすごくちっぽけで、誰にも、どこでも必要とされない。それを事実として認めなければいけないのが惨めで、苦しいと誰にも言えないのが寂しかった。
 まだこんな風に泣けるんだ。声を上げて泣いている頭のどこかで、名無しさんは冷静にそう考えていた。
 隣の部屋に聞こえるかもしれないが、そんなことはどうでもいい。どうせ付き合いなどないのだから。

 落ち着かない息を整えて、もう一度鼻をかんだ。
 涙と鼻水でできたティッシュの塊を床に放ったままベッドにあがると、ふわふわの羽布団が名無しさんを迎えた。
 鼻が詰まって、頭は痛い。目の周りもひりひりする。
 泣いてすっきりしたような気がしたが、そうでもないような気もした。
 名無しさんはアイボリーの天井を見上げ、小さく笑った。
「明日も……」
 頑張ろう、とは言葉にできないまま、名無しさんは部屋の明かりと落とした。

 あ、落ちる。
 がくん、と小さな衝撃を受ける。
 気持ち良くうとうとしていたのに。そう思った名無しさんの体が、突如冷たい空気に包まれた。
 おかしいと思う間もなく体が転がる。暗闇のせいもあり、天地が分からない。
 名無しさんはでこぼこした固いものに幾度も叩きつけられながら転がり続けた。歯を食いしばると、嫌な感触と共に土の味がした。
 斜面を転げ落ちているのだと気づいた時には、ごつごつとした岩や木の枝で体中が痛めつけられていたが、痛みを感じる余裕などなく、絶え間無く繰り返される衝撃に耐えるのでやっとだった。
 悲鳴を上げる暇すらない。
 死んでしまう。
 そう思った次の瞬間、名無しさんは背中にひときわ大きな衝撃を受け、息が詰まった。
 彼女は闇の中で瞼を閉じた。