落ちていたのはお姉さん 2

 半助の腕の中で、娘はぐったりとしていた。
 彼女を抱き抱えている半助が体温を奪われていると感じるほどに、体は冷えている。怪我よりもそちらの方が余程心配だった。
「もうすぐ着きますから」
 声を掛けると、娘は小さく頷いた。
 忍術学園へ向かうということ、そして自分は教師であることを初めに伝えたきり、半助は口を閉ざしていた。
 世間話をするような状況でもない。彼女に何か尋ねたところで、また要領の得ない答えしか返ってこないだろう、と半助は考えたのだった。
 そうして黙って様子を窺っていたのだが、彼女はずっと不安げに眉を寄せて辺りの様子を眺めていた。娘が表情を緩ませたのは、満開の桜の木の下を通ったときのみ。桜を通り過ぎれば、直ぐに表情は元通り硬くなった。彼女から漂う緊張感の原因は怪我だけではない、と半助は考えていた。
 そもそも、この娘は一体どこから来たのだろうか。
 あの斜面の上には道など無いはずだ。あったとしても獣道である。ましてや、この娘の格好では山に入るのは無茶だ。何者かに追われていた様子でもない。
 まさか学園長を狙うくノ一か、と一瞬だけ頭をよぎったがその可能性はすこぶる低い。半助の見た限りでは、彼女はただの風変わりな娘だった。
 そうこう思案しているうちに、ようやく学園に着いた。
 娘もそれに気づいたのか、何故か怯えた様子で体を強ばらせた。正門を見上げ、益々不安そうに眉根を寄せる。
 半助は彼女を安心させるための言葉など幾らでも持っていたが、どれも口にしないまま門へと進む。
 すると、ひょい、と忍装束の男が門から飛び出してきた。その胸には「事務」の文字。「あ、土井先生。おはようございます」
「小松田くん、おはよう」
 小松田は半助が抱えている娘をまじまじと見て、素っ頓狂な声をあげた。
「あれぇ? そちらの方はもしかして……土井先生の彼女ですか?」
「何で新学期に彼女同伴で登校せにゃならんのだ! 怪我人だ、怪我人っ! 見りゃ分かるだろうが!」
「ああ、乱太郎くんたちが言ってた怪我人ですね。外部の方は入門票にサインしてください」
 怒鳴る半助を気にする様子もなく、小松田はマイペースに言った。
「急いでるんだ、後でいいだろう?」
「だめです」
「まったくもう……書けますか?」
 半助が溜息混じりに尋ねると、娘は静かに頷いた。
「お願いしまーす」
 小松田が入門票と筆を差し出すと、娘は躊躇いながらもゆっくりと手を伸ばした。そしてたどたどしく文字を書いていく。抱き上げられているせいか、怪我のせいか、とにかく書きづらそうだった。
「苗字、名無しさん……」
 入門票に書かれた名前を半助が読み上げると、名無しさんは頷いた。
「ひとまず、医務室へ行って怪我の手当てをしましょう」
 医務室へ連れていけば予想外に現れたこの仕事は終わるが、その後のことを考えると半助は頭が痛かった。

「新野先生。申し訳ありませんが、戸を開けてくださいませんか?」
 医務室の前でそう言うと、すっ、と戸が開いた。
「土井先生、お待ちしてました。そちらの方ですね?」
「はい……苗字名無しさんさんです」
 ちらり、と窺い見ると、やはり名無しさんは酷く戸惑っているようだった。派手な色の衣を腹の辺りで弱々しく握りしめている。恐らくは痛みで力が入らないのだろう。
 半助は努めて事務的に口を開いた。
「こちらは校医の新野先生です。あなたの怪我の手当をしてくださいますから、大丈夫ですよ……降ろしますね」
 ゆっくりと名無しさんを降ろすと、彼女は小さく呻いた。
 立っているのも座っているのも自力では辛そうだったため、半助と新野は名無しさんを壁に凭れ掛かるように座らせた。
 彼女の怪我を見て新野が顔をしかめた。
「傷だらけですね。乱太郎くんに聞いてはいましたが……一体どうなさったのです?」
 よく、と名無しさんは蚊の鳴くような声で言った。
「……よく、分からないんですけど……すごい勢いで、転がり落ちて……」
 それしか分からないです、と言って名無しさんは俯いた。
「そうですか」新野は安心させるような優しい口調で言う。「まずは汚れを落としましょう。それと、一番痛むのはどこです?」
「背中が……」
 半助は少し離れたところに腰を下ろし、新野と名無しさんのやりとりを見ていたが、慌てて立ち上がった。
 これを脱いでいただけますか、と新野が彼女に言うのが聞こえたからだ。
 ここにいては治療の邪魔になるだろう。
「彼女の着替えを用意してきます」
 新野に声を掛け、半助は医務室を出た。
 くの一教室に行けば、教師の山本シナか生徒に何か借りることができるだろうと考えた。最悪、伝蔵から女装用のものを借りるしかない。
 早く済ませてしまえばいいと分かりきったことなのだが、くの一教室に向かう足取りは重い。
 ふと、自分の着物に土が付いていることに気付いて、半助はそれを払った。名無しさんを抱いて運んだおかげで、汚い着物が益々汚れてしまった。
 彼女は何者なのだろう。
 半助は大きく溜息を吐き、首を振った。
 今は考えても仕方がない。
 しかし、どうにも幸先が悪い。これでは今学期も授業が遅れるのは決まったようなものだ。この後も授業より先に、学園長へ報告に行かなくてはいけない。
 とはいえ、自分が学園まで連れてきた手前、名無しさんをこのまま放っておくこともできない。
「ややこしいことにならなければいいんだが」
 ぽつり、と半助は独り言ちた。

 山本シナから寝間着と小袖を借りた半助が医務室へ戻ると、名無しさんの姿は見当たらなかった。だが、すぐに衝立の向こうに彼女の気配を感じた。
「手当ては終わりましたか?」
 薬を片付けている新野に声を掛けた。
「ええ。体中、内出血だらけで、とりわけ背中の打ち身が一番酷いです……骨は折れていないのが不幸中の幸いですね」
「そうですか……大怪我でなくてよかった。寝間着の方がいいでしょうか?」
 新野が頷いたのを確認してから、半助は借りてきた寝間着を衝立にかけた。
「苗字さん、着替えを借りてきたので、どうぞ」
 ありがとうございます、という声と共に着物が衝立の向こうに消えた。
「どうも昨晩から倒れていたようです。少し衰弱しているので、数日は安静にさせないといけません。乱太郎くんたちが発見してくれてよかった」
 深刻な面持ちで新野が言った。
 彼女にとっては良かったのかもしれないが、自分にとってはどうだろうか、と考えて半助は僅かに苦笑した。
「土井先生」
 彼女は着替え終わっただろうか、と衝立に目をやった瞬間に新野に呼ばれ、半助は慌てて顔を戻した。
「は、はい」
「薬草を摘んでくるので、彼女の着替えが終わったらこの薬湯を飲ませて、安静にさせておいてください。すぐに戻ります」
 私も授業があるんですが。などと言って断ることはできず、半助は名無しさんの着替えが終わるのを待つ羽目になった。
 まいったな。今学期も補習から始めないといけないというのに、こんなに遅くなってしまうとは。隣のおばちゃんにつかまっていた時間も考えると、もっと早く出るべきだった。それよりもまず、きり丸のアルバイトをぎりぎりまで手伝っていたのがまずかったか。
 心の中でぶつぶつと呟いていると、か細い声がした。
「あのう……」
 半助は衝立の方へと向き直った。
「はい? 着替えが終わりましたか?」
「……いえ」
「どうされました?」
 そう問うと返事がなく、半助は首を傾げた。
 いくらなんでも、サイズが合わないということはないだろう。一体、何が問題なんだ。
 半助が痺れを切らしかけたとき、恥ずかしそうな声が聞こえた。
「すみません、これ……着方がよく分からなくて」
「えっ?」
 半助はたじろいだ。着方が分からないと言われても、まさか衝立の向こうにずかずかと入り込むわけにはいかない。
「と、とりあえず……袖を通してください」名無しさんに見えるわけはないのだが、身振り手振りもつける。「合わせは左が上にくるように」
「あ、そこまではなんとか……ごめんなさい、帯が……帯をどうすればいいのかが、分からないんです」
「どうって、適当に締めればいいんですよ」
 衝立の向こうでは明らかに戸惑っている気配がするが、半助も相当に戸惑っていた。
 早く新野が戻らないものかと、半助は何度も医務室の入り口に目をやるが、気まずい時間が流れていくだけだった。
「……失礼します」
 意を決して衝立から顔を出すと、名無しさんは途方に暮れた様子で帯を持っていた。
 帯を締めればいいだけの状態になっていることにほっとしたのも束の間、半助はすぐに名無しさんの痛々しい姿に顔をしかめた。包帯や膏薬で所々覆われて、傷が剥き出しになっていたときよりも、かえって怪我の多さが目立つ。これが体中に及んでいるのかと思うと気の毒だった。
 打ち身はこれから更に痛みが酷くなるだろう。
 だからといって今、彼女に何をしてやることもできない。
 いや、ひとつだけある。
 半助は名無しさんから帯を受け取ると、床に膝を着き、彼女の腰の後ろに手を回した。
「こういったものを、着たことがないのですか?」
「……はい、殆ど」
 半助は名無しさんの返答に眉を寄せながら、手早く帯を締めた。
「ありがとうございます」
 と、恥ずかしそうに言われて、半助はぎこちなく笑みを返した。
 立ち上がり掛けたとき、傍らに寄せてあった泥まみれの着物が目につき、それを手元に寄せた。
「この着物はお預かりします……洗っておきますね」
「あっ……すみません」
「いいえ」
 半助は泥が落ちないように注意して彼女の服を衝立の奥から運ぶと、新野が用意していった薬湯を手に戻った。
「薬湯です」
 名無しさんは毒でも渡されたような顔をして半助を見た。
「薬ですよ」
 と、半助が言うと、名無しさんは暫し考えるような間の後に、目を閉じて薬湯を一気に飲み干した。
 きっと苦かったのだろう、名無しさんは泣きそうな表情を浮かべている。彼女から薬湯の入っていた器を受け取り、横になるよう促した。
 仰向けになるのは辛いのか、名無しさんはもぞもぞと布団の中で横向きになる。彼女が落ち着いたのを見届けて、半助はそこから離れた。
 衝立を眺めて、半助は小さく息を吐いた。新野が戻れば自分の医務室での役目は終わりだ。
 だが大事なことを忘れていたことに気付き、再び衝立の向こうへ顔を出した。
「苗字さんはどこからいらしたんですか? 怪我のことを家へ連絡しておきます……心配しているはずですから」
 詳しい話は後でもいいが、ひとまず安否の連絡くらいはしておいた方がいいだろう。
 先は彼女も怪我をして混乱していたのだろうが、今なら大分落ち着いているはずだ。どこから来たのかくらいは話せるだろう。
 第一、名前しか分からないのでは今から学園長に報告しに行く意味もないに等しい。
 彼女の言葉を待つ半助の期待を裏切って、名無しさんは首を横に振った。
 その不安そうな様子は、さながら迷子のように見えた。