学園長室には3人の男がいた。ひとりはこの部屋の主であり学園長を務める大川平次渦正、もうひとりは一年は組実技担当の山田伝蔵、そして土井半助。
本来ならば授業を行っている時間だが、苗字名無しさんの件を話し合うために、やむを得ず一年は組は自習となっている。
半助が名無しさんを学園まで運んだ経緯を一通り話し終えると、大川が唸った。
「ふむ、苗字名無しさん殿か。して、怪我の具合はどうなのじゃ?」
「大怪我ではありませんが、暫くは動けそうにありません。安静に、とのことです」
「土井先生、彼女の家の者に連絡してやった方がいいのではないですかな?」
伝蔵の言葉に、半助は口ごもる。
「それが……実は」
家の者が心配するだろうから、怪我のことを知らせよう。どこへ使いをやればいいだろうか。
というようなことを、半助は名無しさんに薬湯を飲ませた後で尋ねていた。
だが彼女はそれを断り、自分で連絡をするので”でんわ”を貸してほしいと言った。
そんなものは無い、と半助が訝しみながら答えると、彼女は酷く驚いた様子で顔を青くした。
それから半助は彼女が元いた場所について幾つか尋ねたが、その答えはどれも的を射なかった。彼女が口にするのは耳慣れない言葉ばかりで、更にはここがどこなのかも全く分かっていないようだった。
「少なくとも、彼女はこの辺りの人間ではないでしょう」
と、半助は説明の最後に付け加えるように言った。名無しさんと言葉を交わした末に半助が出した結論はそれだけだった。
彼女は地理に詳しい連れがいたわけでも、どこからか逃げ出して追われていた体でもない。そもそも、あの風変わりな装いではすぐに噂が立つだろう。
しかし、そのような噂は今のところ学園へは届いてない。第一、彼女の言動からは人目を忍んでいたようには思えなかった。
半助が今現在知り得る情報からは、彼女はどこからともなく現れたと考えるのが妥当に思えたが、よもやそんな筈はない。それ故に、名無しさんはこの辺りの人間ではないとしか言えないのだった。
おそらく大川と伝蔵も、これまでの話から同じように考えているだろう。あるいは、半助以上に経験を積んでいるふたりには、何か別の答えが見えているかもしれなかった。
だが、大川も伝蔵も未だ名無しさんと顔を合わせてはいない。その為、各々の見解を述べるには尚早と考えているのが窺える。半助も敢えて意見を訊ねずにいた。
「彼女の着ていたものです」
半助は派手な紅梅色の着物を広げた。白と銀の模様が入ったそれは、破れて泥が付いている。大川と伝蔵もまじまじと着物を見つめる。
「これを見るに、なかなか酷い怪我のようじゃな。その娘は、南蛮から着たのかのぉ?」
大川は首を傾げた。その様子は少しばかり面白がっているようにも見え、半助は微苦笑する。
「分かりません……南蛮人ではないようですが」
「どこかの城の、くノ一では?」
伝蔵の言葉に半助は首を捻った。
「現段階では否定しきれませんが、そういった感じは受けませんでした。実際にお会いになれば、それはすぐに分かると思います」
半助は名無しさんをくノ一だとは露程も思っていない。万が一彼女がくノ一ならば、かなりの手練れか三流以下のどちらかだ。こうして怪しまれている時点で、任務に失敗しているともいえる。もしくは、何かとてつもない裏がある。
実際のところは、そのどちらでもないだろう。不可解な点は幾つもあるが、名無しさんはただの娘にしか見えなかった。
「ふむ」大川は茶を啜る。「土井先生が違うと言うなら、違うのじゃろう」
大川の言葉に伝蔵も頷いた。
「そうですな。ところで、皆には何と伝えましょうか?」
半助は口を引き結んだ。名無しさんの件を知った一年は組の生徒たちが騒ぐ様子が、脳裏にありありと浮かんだのだった。
「そうじゃのう、先生方には事実を伝えるとして……生徒たちには『わしの友人の孫娘』ということにして、様子をみることにするかのう」
「なるほど」
半助がほっとしながらそう言うと、伝蔵も安堵したように唸る。
「それなら騒ぎにならずに済みますな。さすが学園長」
伝蔵の世辞に、うんうん、と大川は満足そうに頷いた。
「それでは山田先生、土井先生、あとは任せた!」
突然の言葉に驚いて、半助と伝蔵は声を揃えて聞き返した。
「えっ?」
困惑して固まる一年は組の担任達をよそに、大川は茶を飲みながら「団子が食いたいのう」などと呟いている。どうやら大川の中では、名無しさんについての話し合いは終わっているようだった。
狼狽する半助の隣で、伝蔵が口を開いた。
「学園長!」立ち上がらんばかりの勢いだ。「任せるとは一体どういうことですか!」
「彼女の面倒をみてやれ、ということじゃ」
さも当然、といった風に言う大川に、半助は戸惑いながらも進言する。
「し、しかし、それなら同じ女性の方がいいのでは? 苗字さんは若い女性ですし、シナ先生とくの一教室に頼みましょう……」
半助は伝蔵を横目で見た。
「山田先生も、そう思われますよね?」
同意を求める声に、伝蔵は力強く乗った。
「そうです、それがいい! 土井先生の言うとおりです。一年は組に面倒をみられては、彼女もいい迷惑です。怪我の具合が悪くなっては可哀想だ」
全くもって伝蔵の言う通りだ。半助は大きく頷いた。
一年は組の生徒たちはよい子たちではあるが、いかなる時にも厄介ごとを引き起こす。名無しさんに迷惑をかけるのも手に取るように分かる。そして、一年は組に任せないことが彼女の為だと言えば、大川も考えを変えるのではないだろうか。
半助と伝蔵は大川の出方をじっと待ったが、ふたりの思惑通りにはいかなかった。
「彼女を見つけたのは乱太郎、きり丸、しんべヱじゃろう」大川は怒鳴るように言いながら、手を振りあげる。「一年は組で責任を持って世話せんでどうする!」
「そんなぁ……犬猫じゃあるまいし」
泣き笑いのような表情でそう言う半助などお構いなしに、大川は続ける。
「勿論、一年は組の生徒だけでは色々と不便もあるじゃろうから、くの一教室に協力をあおぐのは構わん。しかし、名無しさん殿のことは全て一年は組の担当じゃ!」
半助と伝蔵は、それ以上何か言うことは諦めた。大川が言い出したら聞かないことは、この学園の者なら嫌という程知っている。この上、新たな思いつきが始まってしまっては、たまったものではない。
「それでは、失礼します」
一年は組の担任ふたりは、よろよろと学園長室を出た。
学園長室から離れたところで、各々、深い溜息を吐く。
「またややこしいことになったな、半助」
「はい……これでまた授業が遅れます。もう既に遅れているというのに」
言って、半助は肩を落とす。
新学期に入ってから、まだ一度も授業を行っていないというのに教科書が遅れるのは必至だ。同時に、名無しさんの世話を一年は組が任されるということも避けようがない。
怪我人をあのまま放っておくわけにはいかなかったが、学園へ連れてきたことを後悔していないというのは嘘になる。
半助は伝蔵に気取られないよう、そっと苦笑した。
「しかし、苗字さんを子供たちに任せていいんでしょうか?」
半助の問いに、伝蔵は眉間に皺を寄せた。
「まあ、大丈夫じゃろう。私らがちょくちょく様子を見ておけば、そこまで酷いことには……」
「ならないと、いいんですけどねぇ」
ふたりは力なく笑う。これまでの経験からいうと、一年は組の生徒たちが名無しさんを困らせないわけがない。そして担任である自分たちだけでなく、周りの者の手を煩わすことにもなろうだろう。
「あれ、山田先生、どちらへ?」
一年は組とは違う方へ向かおうとしている伝蔵を呼び止める。
「午前中は座学でしょうが」
何を言っているんだ、という表情で伝蔵は言った。
「確かにそうなんですが……山田先生も一緒に教室へ行きませんか? 新学期ですし」
「私は土井先生が来るまでの間、ずっと教室にいましたから」
にっこり、と笑う伝蔵から強い拒絶の意を感じたが、半助は負けじと食い下がる。
「そんなこと仰らずに」
「いやいや、わしはこれからくの一教室に行って、苗字さんの部屋を用意してもらえるよう頼んでくる」
「それは後でもいいじゃないですか」
「しかし、くの一教室にも都合があるだろうから、頼むなら早い方がいいに決まっておる」
頑として譲ろうとしない伝蔵の態度に、とうとう半助の本音が出る。
「やはり……私ひとりで苗字さんのことを子供たちに話さなきゃならないんですか?」
「そういうことになるな。任せたぞ、半助」
「そんなぁ」
伝蔵は逃げるようにその場を去った。
取り残された半助は、重い足取りで教室へと歩き出したが、すぐに足を止めた。
「しまった……」
手にしている名無しさんの着物を見つめる。これを持ったままでは、教室へは行けない。
伝蔵に預かってもらうべきだった。そう考えながら、半助は仕方なく自室へ向かう。
新学期早々、厄介な拾いものをしてしまった。
今のところ、名無しさんは素性の知れないただの娘だ。怪我が治れば、すぐにここを去るだろう。
だが、そうはいかない場合はどうするのだろうか。行く宛も、身寄りも無く、学園の外で生き抜く術も持たない場合、彼女の滞在は延びるだろう。弱者を放り出すような人間は、ここにはいない。
半助とて彼女を放り出そうとは微塵も思ってはいない。自分たちが助けた以上、彼女の世話をすることも、当然といえば当然のことである。
とはいえ、ややこしいことに巻き込まれる可能性を考えれば、それはまた別の話となる。厄介ごとはできるだけ避けたい。つまり、半助は彼女を見捨てはしないが、近くに置きたいとも思っていないのだった。
半助は名無しさんの着物を部屋の片隅に置いた。
派手な紅梅色のそれはこの部屋には不釣り合いで、嫌でも目を引く。そしてそれは桜の花を思い起こさせた。
色のせいではなく、これを着た名無しさんが学園への道中で桜を見上げていたせいだろう。
案外に重かったな。
半助は彼女を抱き上げた時のことを思い出して、小さく笑った。本人に言ったなら、怒るだろうか、それとも恥ずかしがるだろうか。
彼女は今、眠っているのだろうか。
名無しさんの不安そうな表情が脳裏に浮かび、半助の胸はざわついた。
「いかん」
半助は頭を振って部屋を出た。
「のんびりしている場合じゃなかった」
急いで教室へ向かわなければ。そうして、名無しさんのことを子供たちに話さなければならない。
半助は麗らかな日差しを浴びながら、キリキリと痛む鳩尾の辺りを押さえた。