雑渡さんが運転する隣で、私は半助君と電話でやりとりをしている。
「どういうことなんだ?」
「きりちゃん、うちにいるかもしれない」
「名無しさんは、まだ職場なんだろう?」
「私……きりちゃんに、合い鍵渡してるの」
半助君は押し黙った。
驚いているのか怒っているのか、その両方なのか、電話では計りかねた。
私は沈黙に耐えられず、早口でまくし立てる。
「今アパートに向かってるから、着いたら連絡する」
「いい。今から行く」
半助君が珍しく突っ慳貪な口調で言い、通話は終わった。
抑えてはいたが、やはり怒っているようだった。
俯いて、膝に乗せた携帯の端を握りしめる。もう、何を考えればいいのか分からない。
「大丈夫?」
雑渡さんの優しい声に、慌てて顔を上げた。
運転してもらっているというのに、彼の存在を忘れかけていた。
「……はい。すみません」
「いいよ、することなくて帰るところだったし」
「余計に申し訳ありません」
「別に、帰っても寝るだけだからね。名無しさんちゃんとドライブできてラッキーだよ」
軽い口調でそう言って、雑渡さんが静かに笑うのにつられて、私も口元で笑んだ。
「それで、何があったの?」
雑渡さんの問いに、躊躇いながらも口を開いた。彼は社内で言い触らすような人ではないだろう。
「半助君の……私の彼氏、教師なんですけど、彼の教え子が寮に戻ってないみたいで。その子、私のアパートにいるかもしれないんです」
「名無しさんちゃんと仲がいいの?」
「はい……よく内緒で遊びに来てて。部屋の鍵、渡してるんです」
「それはちょっと、まずいかもね」
まずいかもね。
私に向けられる言葉としては優しすぎるくらいなのに、雑渡さんの言葉が胸に刺さった。
私はきりちゃんに合い鍵を渡すべきではなかった。無許可で出歩くことを助長させてしまった。私がきりちゃんを危険な目に遭わせたのも同然だ。何かあってからでは遅いのに。
彼を大事な存在だと思いながらも、実際の扱いは無責任にいいとこ取り。少しも大事にできていない。
きりちゃんへの申し訳なさと、自分への苛立ちで涙がこぼれた。
携帯に落ちた水滴を何度も拭う指先に、綺麗に畳まれたハンカチが置かれた。
殆ど黒に見える、濃いグレーのチェック。
「部屋にいるといいね」
「……はい」
「一応言っておくけどさぁ」
「……は、はい」
「綺麗だから、それ」
鼻かんでもいいよ、と冗談めいた口調で雑渡さんは言った。
私の息も、雑渡さんの息も、白く流れていく。
駐車場に車を停めて、雑渡さんからキーを受け取ったところだ。
「ありがとうございました」
「どういたしまして。もし、何か困ったことがあったら電話して。何時でもいいから」
もう一度お礼を言って頭を下げて、顔を上げたところで気が付いた。
「……雑渡さん、どうやって帰るんですか?」
「名無しさんちゃん、今更それ訊く?」
雑渡さんは可笑しそうに笑う。
「だ、だって……あ、私の車に乗って戻ってください。私、バスでも通えますから」
「陣左に迎えに来させるから、心配しないでいいよ」
ひょい、と帽子を被って、雑渡さんは白い息を吐く。
「じゃあ、気をつけて。おやすみ」
「ありがとうございました。おやすみなさい」
雑渡さんに頭を下げてから、私はアパートへと駆けだした。