外から見た限り、部屋の明かりは点いていない。
鍵を差し込むのに苦労した。
手の震えは寒さのせいではなく、焦りと不安と緊張のせいだろう。そして、とてつもない恐怖。
きりちゃんが部屋にいてもいなくても、その先に起きるであろう出来事を想像すると、とても怖い。私たちの、きりちゃんと私の、私と半助君の、そして3人の関係が、これまでとは変わってしまいそうで恐ろしい。
やっとのことでドアを開けると、部屋の中はテレビの音も光もなく、静かだった。
でも、玄関には小さなスニーカーが一足。
事件でも事故でもなさそうなことにほっとしたのは束の間で、それまでとは別の焦りが生まれた。
「きりちゃん!」
早く寮に帰らせなければいけない。
バタバタと部屋にあがり、キッチンとの仕切戸を開けた。
寝室の窓に引かれているのはレースのカーテンのみで、外からの僅かな明かりが、炬燵掛けから顔を出して眠っているきりちゃんを照らしていた。
部屋の明かりを点けると、きりちゃんの頬は赤く染まっていた。きっと炬燵のせいだろう。それはとても可愛らしいけれど、今はそんな暢気な状況ではない。
「起きて。きりちゃん」
完全に熟睡しているようだった。
「きりちゃん!」
強く揺さぶると、きりちゃんはゆっくりと目を開けた。
「あ……名無しさんさん。おかえりなさぁああい」
欠伸混じりに言ったきりちゃんは、私の顔を見て僅かに表情を曇らせた。
「え? ……何かあったんすかぁ?」
「もう10時過ぎてるの。先生たちが、心配してる」
寝起きのきりちゃんには、私の言葉がすんなり伝わらないようだ。彼は眠そうに数回瞬きをした後、時計を見ると真っ青になった。
「お、おれ……眠っちゃって。名無しさんさんを待ってたんだけど……」
「うん……」
狼狽えるきりちゃんに向かって何度も頷いたのは、彼を安心させるためだけではなく、自分を安心させるためでもある。
大丈夫、と心の中で頼りなく呟く。何が大丈夫なのか、全く分からないけれど。
「すぐ帰ろう。支度して」
「は、はいっ」
きりちゃんが立ち上がるのと殆ど同時に、呼び鈴が鳴った。
膝を着いたまま玄関を振り向くと、鍵をかけずにいたドアが開いた。
半助君だ、と思うより先に、ぼさぼさの髪とダウンジャケットが目に入った。
「名無しさん? いるのか?」
「半助君……」
半助君と目が合って、一瞬頭が真っ白になった。けれども、彼の視線はすぐに私の隣に移動する。
「きり丸っ!」
「ど、土井先生っ」
さっと半助君の表情が変わった。
素早く靴を脱いで寝室に現れた半助君は、きりちゃんに向かって口を開いた。
「お前、今何時だと思ってるんだ! 勝手に出歩くなといつも言っているだろう!」
初めて聞くような大声だった。
「ご、ごめんなさい」
「半助君っ、きりちゃんが悪いんじゃないの」
「大体、名無しさんも名無しさんだ! どういうことなんだ、これはっ!」
「それは……」
「土井先生! 名無しさんさんのせいじゃないんです。ぼくが校則を守らなかったから……」
きりちゃんの言葉を遮って、半助君が怒鳴った。
「お前も名無しさんも、どちらも悪い!」
部屋の中が、しんと静まり返る。
半助君の言葉は至極真っ当で、正しい。
ぐうの音も出ない、というのはこのことだろうか。などと他人事のように頭の隅で考えながら、私は炬燵掛けを眺めていた。
よく見ると、染みがある。コーヒーかな。
その染みが段々とぼやけてきたので、私は勢いよく立ち上がった。
私が泣いてちゃいけない。
ショルダーバッグの肩紐を手にして俯くきりちゃんの背に、そっと手を添えた。
「半助君、ごめんなさい。きりちゃんを怒らないで」
「怒らずにいられる状況じゃないだろう。どうして名無しさんは……」
突然、呼び鈴が短く鳴った。
驚いた私たちが玄関へ顔を向けたのと同時に、ドアが勢いよく開いた。
「うるさいぞ!」
という大声が響く。
「遅い時間に騒ぐな! 近所迷惑だろうが!」
半助君の怒鳴り声より大きく通る声でそう言い終えると、大木さんは拍子抜けしたような顔をした。
「なんだ、名無しさんの部屋か。何をやっとるんだ」
予想外の人物の登場に驚いたけれど、視界に入った半助君の横顔は、私よりも混乱しているようだった。
「お、大木先生っ?」
土井先生じゃないか、と言って大木さんは快活に笑う。
「大木さんが先生? え、あの……大木さんは……どうしてここに?」
「どうしてもなにも、ここの大家はわしだ。一番上に住んどるのを知らなかったのか?」
知るわけがない。
近所どころか同じアパートに住んでいるうえに、大家さんだとは想像もしなかった。ついでに半助君と知り合いだなんて。
私の頭はパニックを起こして真っ白になっていた。
「ここ、大木先生のアパートだったんですか……」
大木さんに話し掛けながら玄関へ移動する半助君の後を、きりちゃんと一緒におずおずとついていく。
全開になったドアからは、寒風が吹き込む。
畑の一部を売ってアパートを建て、名前は「コーポどこんじょー」にしようと思ったが、各方面から反対されて渋々英語の「gut」にした、という大木さんの仕様も無い話を遮って、半助君が口を開いた。
「……もう遅いので、そのお話は後日伺います。お騒がせして申し訳ありませんでした」
頭を下げる半助君を見て、私も慌てて頭を下げた。
「遅い時間に騒々しくして、すみませんでした」
「今後は気をつけてくれ、入居者が減ったら困るからな」
はい、と苦笑混じりに答える半助君は、怒っているようには見えなかった。
大木さんが来てくれて、助かったかもしれない。
そう考えながら玄関先の大木さんに目をやると、彼は呆れたような顔で私を見ていた。
どうしてそんな顔をされなきゃいけないんだろう。
溜息を一つ吐く。
靴を履く半助君の背中に声を掛けようとすると、まるで見えているかのようなタイミングで半助君は振り返った。
「きり丸、帰るぞ」
「は、はいっ」
玄関を出る半助君に返事をして、きりちゃんは普段の何倍も素早い動きで靴を履くと、くるりと私の方へ体を向けた。
「名無しさんさん、ごめんなさい」
突然の言葉に、首を強く横に振る。
「ううん、私こそごめんね」
せめて見送ろうと思い、サンダルを履いてきりちゃんと一緒に通路へ出る。半べそをかいたきりちゃんが、何か言おうと口を開きかけたけれど、半助君の鋭い声がそれを遮った。
「きり丸、早くしなさい」
それだけ言うと、半助君は背を向けて歩いていく。私には見向きもしない。
きりちゃんは私と大木さんに軽く頭を下げ、半助君の元へ駆けていった。
「半助君っ……」
振り向かない。
躊躇いながらあげた声は彼に充分届いたはずだ。だって、きりちゃんは申し訳程度にこちらを振り返ったのだから。
でも、半助君は振り向いてくれない。
「土井先生、無視はいかんぞー。それとも、名無しさんが呼んでるのが聞こえなかったのか?」
大木さんが、あっけらかんとした口調で言った。
半助君はそのまま数歩進んでから、観念したような雰囲気で振り返った。そして、大木さんではなく私に向かって溜息を吐いた。
「後で来る」
低く言い残して、半助君はきりちゃんとアパートを出ていった。
どうしたらいいのだろう。
漠然とそう考えていると、勢いよく肩を掴まれて、体が跳ねた。
「わっ!」
信じられない、というような顔で大木さんは私を見ている。
「わっ、じゃない。いつまで外に突っ立っている気だ? 凍るぞ」
「あ……はい。どうも、すみません」
大木さんのいつもと変わらない、粗野とも言える口調に、妙にほっとする。
「さっさと入れ、風邪をひく」
と言って私を玄関に押し込めても、大木さんはドアを押さえたままでいる。
元々暖かくもなかった部屋の温度は、外と殆ど同じになっているだろう。これでは本当に風邪をひきそうだ。
「あの、ドア……」
「ところで、一体何の騒ぎだったんだ? 何できり丸がここに?」
一番訊かれたくないことを訊かれてしまい、言葉に詰まる。とはいえ、起きたことは単純だ。
「それは……きりちゃんが、ここで私を待つ間に眠ってしまっていたみたいで……私は仕事で帰れなくて」
「なるほど」
大木さんは然程興味が無さそうに呟くと、頭を掻いた。
「しかし、まさか土井先生が名無しさんの彼氏だったとはな」
「お知り合いだったんですね」
「わしも以前は教師だったからな。というか、否定しないということは本当に彼氏なんだな」
「……はい」
「そうか。わしにもチャンスはあると思ったんだが、見当違いだったか」
見当違いだけど、見習いたいくらいポジティブだ。
それよりも、大木さんに今までぞんざいな対応をしていたことが、半助君にもばれてしまうのだろうか。あまり親しそうではなかったけれど、大木さんはきりちゃんのことも知っているようだったし気をつけた方がよさそうだ。
そもそも大家さんなわけだし、大木さんへの態度を改めよう。
ひとり頷いて大木さんを見ると、彼はわざとらしく眉を上げた。
「今更、わしに惚れたか?」
「は? まさか」
「だろうな」
「はい……」
「よし! わしは今日で名無しさんから手を引く。相手が土井先生というのは面倒でかなわん」
勝てないわけではないがな、と付け足して、大木さんは豪快に笑う。
何を言い出すんだこの人は。
私は狼狽えながら、作り笑いを浮かべる。
「痴話喧嘩は程々にな。せめて夜間は静かに喧嘩してくれ」
「しませんよ」
「土井先生は戻ってくると言っていただろうが。あれは、怒られるぞ」
にやりと意地悪く笑む。
確かに、半助君に怒られるのは確実だ。
「名無しさん」
「はい」
「どこんじょー!」
どう考えても近所迷惑な大声でそう言って、大木さんはようやくドアを閉めたのだった。