部屋着に着替えて化粧を落とし、炬燵に入って菓子パンを頬張った。
冷えた体をシャワーで暖めたかったけれど、その間に半助君が来たら困る。
何度噛んでも、味がしない。ぱさぱさしたものが、口の中の水分を奪っては胃に落ちていくだけだ。
半助君は怒っているだろう。きりちゃんも叱られているに違いない。他の先生方にも怒られているんだろうか。
今日の出来事の原因を招いたのは私だということが、心苦しくてたまらない。
せめて、もっと早くに帰ってくればよかった。半助君に、きりちゃんがここにいるかもしれないということを伝えればよかった。
でも、そうしなかったし、したくなかった。
それは私のエゴだ。
合い鍵のことを半助君に知られたくなかった。半助君に嫌われたくなかった。
きりちゃんがこの部屋にいるなら彼に危険が迫っているわけではないし、叱られる程度で済むだろうとも思った。
そうやって考えて行動に移した結果、色々なことが変わってしまう予感がしている。
勿論、悪い方に。
「最低だよね」
きりちゃんに対しても、半助君に対しても、私のとった行動は最低だったに違いない。
不意にカレンダーに目をやって、「25日のクリスマスパーティーはどうなるのだろう」と考えた。
明日、ケーキの予約をしようと思っていた。
そんなことを考えている場合ではないのに。と、自嘲していると、呼び鈴が鳴った。
半助君だ。
「はーい」
できるだけ明るい口調で応えながら、玄関へ向かう。ドアを開けると、やはり半助君が立っていた。
彼は先ほどより疲れた顔をしながらも、優しく微笑んだ。
「あがってもいいか?」
「うん」
三和土に並んだ靴を眺めながら、半助君に訊いた。
「何か飲む?」
「いや、いい」
そう、と答えて半助君の背中を追い、寝室に向かう。
いつもと同じようで、いつもとはまるきり違う雰囲気に緊張する。
何を話せばいいのか分からずに、口を閉ざしたままキッチンとの仕切り戸を閉めて振り返ると、半助君が私に向かって手を差し出した。
「これ、返しておく」
「あ……」
銭のキーホルダーがついた鍵。きりちゃんに渡していたものだ。
手のひらに乗せた鍵の重さが、胸の中を沈んでいく。
「……ごめんなさい、勝手なことをして。まさか、こんなことになるとは思わなくて」
「もし、留守中に何かあったらどうするんだ」
静かで優しい声音に怒気が含まれていることに気付いて、私の心臓の鼓動は段々と早くなる。
「それに、下手をしたら通報されかねないぞ……いくら名無しさんときり丸が親しいとはいえ、お前たちは大人と子供で、赤の他人なんだから」
ダウンジャケットを脱いだ半助君にハンガーを渡そうかと悩んで、結局私は戸の前に立ち尽くしていた。
半助君はベッドに腰掛けると、大きな溜息を吐いてうなだれた。
「皆、どれだけ心配したか」
「ごめんなさい」
鍵を握り締める手に、力を込めた。
「気付かなかった私も悪いのかもしれないが、どうして話してくれなかったんだ」
「話そうとは思っていたの……思ってはいたんだけど」
顔を上げた半助君と目が合う。
責めるわけではなく、ただ悲しそうな瞳だったので、私は言い訳の続きを並べることができなくなってしまった。
いつかは話すはずのことだった。
今となってはただの言い訳でしかないそれらを、口に出してもいいのだろうか。私の本心を彼に伝えた方がいいのだろうか。
きりちゃんを放っておけなかった。この部屋があの子の居場所の一つになればいいな、なんて軽く考えていた。
でも、鍵を渡したことは、間違った選択だということも分かっていた。大人としても、きりちゃんの友人としても、半助君の恋人としても間違っていた。
それを指摘されるのが恐ろしく、失望されるのも嫌われるのも避けたかった。
とても簡単にいってしまえば、私は自分が可愛かった。
その結果がこれだ。
「……軽はずみなことをして、ごめんなさい」
本当の気持ちを隠したままで、これ以上何が言えるだろう。いっそ、責めてくれればいいのに。
けれども半助君はゆっくりと首を振る。
「いや、軽はずみだったのは私だ。仕事とプライベートを、きちんと分けるべきだった。結果的に、名無しさんに迷惑をかけてしまった」
「……迷惑?」
「今日は眠っていただけだが、事故でも起きていたら大変だった。もしそうなれば、きり丸だけでなく名無しさんの今後の人生にも響くだろう……私がちゃんと線引きすべきだったんだ」
もういい。聞きたくない。半助君、言わないで。
どれも声にはならず、半助君は淡々と続ける。
「私の仕事と、名無しさんは関係ないんだから」
とても真っ当な半助君の言葉に、私は突き放された気分になった。
半助君ときりちゃんと一緒に出掛けたことも、私ときりちゃんの時間も、半助君と私の関係も、全部否定された気がしてしまう。
今日のことは私が悪かった。
私がきりちゃんに合い鍵を渡さなければ、きりちゃんはここへは来なかった。皆が彼を探す事態にもならなかった。
迷惑を掛けたのは私で、半助君じゃない。隠し事をしていたのも私。それなのに、どうして半助君がそんなことを言うのだろう。
どうして。
ひとつだけ、答えが浮き上がる。
「半助君は、面倒見てくれてただけなの?」
「面倒?」
「私がひとりで可哀想だったから、でも、半助君に迷惑掛けたから……」
もう要らないんでしょ。
最後まで言えずに、俯いた。
私は時々、あのクリスマスの朝の自分をきりちゃんに重ねていた。
ひとりぼっちで悲しくて、寂しくて、行き場もない。そんな思いをしているんじゃないかと考えて、守ってあげたかった。一緒にいたかった。大丈夫だよ、って伝えたかった。
今になって痛いほど分かるのは、それはとても独り善がりだということ。
そして、もしかしたら半助君も同じような気持ちで、私と一緒にいるのかもしれない。
忙しいだろうからと、いつも我慢していたけれど、半助君は私に会いたいと思わなかっただけなのかもしれない。
私と一緒にいるのは恋でも愛でもなく、責任感と同情からだったのかもしれない。
それなら、こうして付き合っているのは正しいのだろうか。
もう終わりなんじゃないかな。
「名無しさん?」
半助君が私の顔を覗き込んだ。
疲れた顔に心配そうな表情を浮かべる彼が、愛おしく感じるのと同時に憎らしくもあった。
「名無しさん、何の話をしているんだ」
「半助君も本当は……私のこと、好きじゃないんじゃない?」
「え?」
「だって前の彼氏も……」
3年前の惨めなクリスマスがフラッシュバックする。あんな男はもうこれっぽっちも好きじゃないのに、あの時のやり場のない気持ちが戻ってくる。
愛情でも何でもない自分勝手な気持ちで、私がきりちゃんに合い鍵を渡したように、半助君も恋ではない感情で私と付き合っているのかもしれない。
この考えが間違っているなら、はっきり打ち消してほしい。
「半助君は、何で私と付き合ってるの」
「何でって……そんなの、理由なんて決まってるだろう」
同情。親切心。責任感。成り行き。あと何があるだろう。
「もし、好きなら……何で会えないの? クリスマスくらい会いたいよ。いつもいつも仕事ばっかり」
本当は、こんなことが言いたいんじゃない。
出てくる言葉と気持ちが噛み合わないのが悲しくて、心のずっと奥の方では半助君に申し訳なくて、涙が溢れる。
けれど、彼にぶつける言葉も嘘ではない。
「半助君は、仕事ばっかり!」
叫ぶように言うと、半助君も声を荒げた。
「名無しさんだって仕事ばかりじゃないか。この間も、映画に行く約束だったのに仕事が入ったって前日に断ったのは誰だ? それに、23なら会えるって言っただろう」
「私はその日、仕事なんだってば!」
「ほらみろ……休みが合わないんだから、仕方ないじゃないか」
「それはそうだけど……でも、クリスマスだよ!」
「クリスマスに会わなくたっていいだろう……子供じゃないんだから」
言い聞かせるような口調に腹が立つ。
私は半助君の生徒じゃない。
「半助君って、どうしてそうなの」
「つっかかるな」
「……もう疲れた。きりちゃんのことから、何でこんな話になるわけ」
「名無しさんが始めたんじゃないか……」
半助君は気怠るそうに言って、私をじっと見つめる。
「どうせ……どうせ、全部私のせいなんでしょ!」
怒鳴りながら、握っていた鍵をベッドに投げつけた。当然、半助君の座っている反対側にだ。
半助君は驚きもせず、羽布団に埋もれた鍵を、ただ横目で見ていた。
それがまた、私を苛立たせる。
「きりちゃんのことも、他のことも全部、私が悪いって言いたいんでしょ!」
ヒステリックな声、と思う、冷静な自分が頭のどこかにいた。
半助君はそれ以上に冷静で、穏やかに諦めたような雰囲気を醸し出している。
「そんなことは言ってないだろう」
「じゃあ何なの」
半助君は考えるような素振りをしながら、ベッドの上の鍵を手に取って炬燵の天板の上に置いた。
「……全く別の話を、一緒にしないでくれ」
「別じゃないよ! 全部、私と半助君の、ふたりのことだもの!」
子供みたい。
何を言っているのか、何を伝えたいのか、段々と分からなくなってくる。
「名無しさん」
どうしてこの人は、これほど優しく私の名を呼ぶのだろう。
「仮に、そうだとしても……ひとつずつ、切り離して考えてみないか」
「どうして」
「別々に考えた方が、その方が、解決が早いんじゃないか……名無しさん」
ぼろぼろと涙がこぼれて、嗚咽が漏れた。唇を噛みしめて下を向くと、フローリングの床に水滴が落ちていく。
涙を拭わず肩を震わせながら、泣いていない振りをした。
「私と半助君の間のことなんて……結局は、好きかそうじゃないかだよ」
「違うだろう、名無しさん」
半助君が立ち上がり、私の手を取った。
「名無しさん……少し落ち着こう」
そっと引き寄せる大きな手を振り払うと、半助君が深く息を吸うのが聞こえた。
「名無しさん」
それでもやはり彼の口調は穏やかで、少しも憤りを感じない。実際、怒ってはいないのだろう。
「……忙しい時期に悪かった」
忙しいのは今日で終わった。そう言い返す気になれなくて、私は口を噤んだままでいた。
「疲れて、お互いに苛立ってるな」
半助君は小さく笑いながら言う。
嘘だ。
苛立ってるのも悲しいのも私だけで、半助君は普段通りに優しくて落ち着いている。
「暫く……忙しさが落ち着くまで、距離を置こう。とにかく今日はここまでにしよう。近所迷惑になるし、名無しさんも疲れただろう?」
涙を拭って顔を上げると、穏やかな笑顔があった。
「また大木先生に怒られそうだしな」
冗談めかした口調で言うのを聞いて、どうしてか「ああ、これで終わりなんだ」と思った。
「帰るよ」
ダウンジャケットを着込む半助君に背を向けて、戸を開けた。逃げるようにキッチンに入って明かりを点け、玄関の脇で半助君が来るのを待つ。
思考は麻痺して何も考えられない。
どうして喧嘩になったのかも、分からなくなっていた。喧嘩というよりは、私がひとりで怒っていただけのような気もする。
少しくらいは、何か伝わったのだろうか。
「名無しさん」
ぼうっと床を見つめていると、いつの間にか半助君は靴を履いて玄関に立っていた。
「今日は忙しかったようなのに、迷惑をかけて悪かった……また今度、ゆっくり時間が取れるときに話そう。じゃあ、おやすみ」
「……おやすみ」
視線を上げずに、半助君の足に向かって言った。
彼がドアを出てすぐに鍵を掛け、冷たい空気から逃れるように寝室に走った。遠ざかる足音なんて、聞きたくない。
シャワーを浴びよう。
そう思いながらベッドに横になったはずなのに、次に目を開けると朝になっていた。