告白

 暖房と差し込む陽光で、編集部は暑いくらいだ。

 私は白昼夢を見ているような気分で、パソコンに向かっていた。昨日までの慌ただしさと打って変わって、今日はとても暇だ。

 皆が取材等で出払った編集部にひとり残った私は、時折掛かってくる電話を受けながら、雑務をこなしていた。

 私が今日中に終わらせなくても全く支障がない、しかしいつかは誰かがやらなければいけないようなこと。考えたくないことから逃げるために、それらを片付けていく。

 顔の火照りにとうとう耐えかねて、私は椅子から立ち上がった。

「暑い」

 換気の為に窓を大きく開けた。

 風の冷たさが心地よいと思ったのは一瞬で、氷のような寒風が強く吹き込んできたので、私は思わず身を竦めた。

 わっ、と小さく呟いて、慌てて窓を閉める。

「顔が凍るかと思った」

 独り言のはずだったのに、くすくすと笑う声がした。

 振り向くと、雑渡さんが入り口に立っていた。片手にはいつもの中折れ帽、反対の手には紙袋をふたつ。

「名無しさんちゃん、お疲れさま」
「あ……お疲れさまです」
「皆、出掛けてるみたいだね。これ差し入れ」

 と言いながら、編集部に入ってきた雑渡さんの手から、すれ違いざまに白い紙袋を受け取る。
 大きさの割に軽い紙袋の中には、ラスクが3袋入っていた。お徳用としっかり書かれているのに、可愛らしくてお洒落なデザインのパッケージだ。

「ありがとうございます。後で皆でいただきますね」

 紙袋を部屋の中央にあるテーブルに乗せて振り向くと、雑渡さんが私の椅子の上に、もうひとつの紙袋を置くところだった。

「懸賞の景品ですか?」

 そう尋ねてみると、雑渡さんは小さく笑う。

「違うよ。これは私から名無しさんちゃんに」
「えっ……あ、ありがとうございます」

 自分のデスクに近付いていくと、雑渡さんはさりげなく部屋の中央へと移動した。

「……見てもいいですか?」

 どうぞ、と言いながら、雑渡さんはテーブルに寄りかかる。

 袋をよく見てみると、ベーカリーのものだった。
 ここからは少し遠いけれど、美味しいと評判の店だ。休日は並ぶほど、平日もそこそこ混んでいるということで、行きたいと思いながら、今日まで行けずにいた。
 柔らかな香りを漂わせる袋の中には、何種類ものパンが入っている。

「あの……これ……」

 顔を上げて雑渡さんを見ると、彼は悪戯っぽく肩を竦めた。

「よく考えたら名無しさんちゃんの好み知らないし、選ぶの面白くて買いすぎちゃったから、頑張って食べてね」
「……はい」
「今日の昼はそこで食べたんだけど、コーヒーも美味しかったよ」
「雑渡さん」
「何?」
「ありがとうございます。その……昨日も……」

 ありがとうございました、と呟くように言うと、雑渡さんは何故だか少し呆れたように、溜息を吐いた。

「あの後、大丈夫だった?」
「はい。すみません、ご迷惑をかけたのに連絡もしないで」
「それは別に構わないよ。名無しさんちゃんの顔を見るに、あの後も泣いたみたいだから、気になってはいるけど」

 目敏い。
 瞼が腫れぼったいのは自覚していたけれど、気付かれない程度だと思っていたのに。

「泣いてないですよ。さっき擦ったからだと思います」
「そう?」

 雑渡さんは気になると言いながら、どうでもいいような返事をする。

「はい……そうだ、ハンカチ、まだ洗ってなくて」
「ああ、返さなくてもいいよ」
「そういうわけには……」

 ハンカチの話題を殆ど無視して、雑渡さんはお徳用ラスクの袋を開けると、一枚取るように私に促した。
 おずおずと彼の元に近付いて、ラスクに手を伸ばす。

 口に運んでみると、軽い食感と控えめな甘さが絶妙で、癖になりそうだった。

「美味しい?」

 独り言のように訊きながら、雑渡さんは伏し目がちにラスクの袋に手を差し入れた。

「名無しさんちゃんだけのせいじゃないから、あまり気にしないようにね」

 言って、雑渡さんはラスクの欠片を口に放る。
 サクサクという小気味良い音を俯いて聞きながら、私は次の言葉を選んでいた。

「ありがとうございます。でも、私が軽はずみなことをしたせいであんな大事になってしまったし……」

 半助君にも怒られて、喧嘩になってしまった。そんな愚痴と一緒に、残りのラスクを頬張って飲み込む。

「まあね。名無しさんちゃんも悪かった部分はあるけど、タイミングが悪かったのが一番じゃないかな……なんて、詳しくは知らない私が言っても、慰めにならないだろうけど」
「いえ……」

 悪いのは私なのだと、説明した方がいいのだろうか。それとも、このまま甘やかされるように慰められていても構わないのだろうか。

 もう大丈夫です、解決しました。と言って、終わらせてしまえばいいのかもしれない。雑渡さんに話したところで、どうにかなる問題でもない。

 でも、彼氏に「距離を置こう」と言われた、なんて言ったら、雑渡さんはどうするだろう。そんな好奇心と邪な気持ちがうろつくが、ずるくて面倒くさい女だと思われるだけだろう。それに、職場でそんな話をするなんてどうかと思う。

 俯いて、ぐだぐだと考えていると、雑渡さんが私の顔を覗き込んだ。

「そんなに落ち込むほど怒られたの?」

 心配そうな声に、慌てて顔を上げる。

「怒られたってわけでは……」

 うーん、と雑渡さんが唸った。

「名無しさんちゃん、私と付き合わない?」

 聞き違いだと思った。
 けれども、雑渡さんの真剣な表情は、間違いではないことを物語っている。
 断ればいいだけなのに、妙に怖じ気付いてしまい、私は口ごもりながら一歩後ろに下がった。

「雑渡さん……私……私には、彼氏が」

 彼氏がいるんですよ。
 そう続けようとしたけれど、勢い良く腕を引かれたせいで何も言えなかった。

 すぐ目の前は雑渡さんのネクタイとシャツ。
 少し甘く、男らしい匂いがするが、香りの正体は分からない。

「君が、私を好きか嫌いかだけでいい。彼氏の存在は関係ない」
「……か、関係ありますっ……大ありです」

 逃げようとする私を腕の中に閉じこめたまま、雑渡さんはくすくすと笑う。
 パニックを起こしそうな私と違って、余裕たっぷりだ。

「じゃあ、土井先生と付き合っていなかったら、名無しさんちゃんはどうする? それでも私を振る?」

 一度も考えたことがないわけじゃないけど、初めて考えたのは半助君と付き合い始めてからのことだ。振るという選択しかしたことがない。

 でも、半助君と付き合っていなかったら、私はどうするのだろう。

「答えられないっていうのは、そういうことだよ」

 図星を指されて、頬がかっと熱くなった。
 雑渡さんの言葉を否定するように、彼から離れようとスーツの胸を押して試みたけれど、びくともしない。

「不安にさせない。大事にするよ、今まで以上にね。だから……」

 私を拘束していた雑渡さんの腕が緩んだ。

 自由になったと思ったのは一瞬で、目の前の景色がシャツから雑渡さんの顔になっただけだった。大きな手はしっかりと私を捕まえていて、彼はまだ、私を放す気はないようだ。

 これまでにない至近距離で、雑渡さんと目が合う。

「名無しさんちゃん、私のものになりなさい」

 内容はともかく諭すような口調に、雑渡さんは一回り年上だったと思い出す。
 こんなに年上の人が、どうして私なんかを。
 そう考えながら雑渡さんを見つめていると、彼はにやりと笑った。

「キスしてもいい?」
「なっ……」

 雑渡さんを思い切り突き飛ばしたはずだったが、私だけがその反動で動いていた。
 密着した状態から解放されて、ほっとしながら雑渡さんを睨んだが、彼は普段と変わらない余裕の表情。

 私一人で振り回されて、あたふたしている。

 私ばかり余裕がない。半助君だけで手一杯なのに、どうして雑渡さんは私にちょっかいをかけるんだろう。
 頭に血が上った。

「からかうのもいい加減にしてください!」

 雑渡さんは、目を軽く見開いた。
 きっと、私が怒るとは思っていなかったのだろう。

「私があたふたしているのを見て、楽しいのかもしれませんけど、からかわれるのは迷惑です! 私だってちゃんと分かってるんですから。雑渡さんが、私なんかを好きになるわけないじゃないですか! ……私みたいな、何の取り柄も魅力もない女、雑渡さんが好きになるわけ……」

 ないでしょう、と言い終える前に、怒ったような雑渡さんの顔がアップで見えて、私の体が浮いた。

「怒らせたいようだね」

 もう怒っているじゃないですか。そう思ったけれど、とても口にはできない状態だ。

 なにしろ、雑渡さんの腕が私の腰を引き寄せている。というか、殆ど抱き上げられていて、床に着くのは右の爪先のみ。

 さっきよりも顔が近い。

 普段はそれほど気にならない火傷の痕さえ、彼は魅力的なのだと気付かされる。

 表情豊かな瞳に間近で見つめられる緊張で、喉が鳴ってしまった。
 恥ずかしさのあまり俯こうとしたけれど、雑渡さんの指がそれを邪魔する。

「私、怒らせるつもりじゃ……」
「好きだよ」

「……はい」

「冗談はやめてください」