「冗談はやめてください」
雑渡さんは驚いたように眉を上げた。
「冗談? 本気だけど」
私は雑渡さんの顔から目を逸らして、静かに首を横に振った。
冗談にしておいてくれないだろうか。
今、雑渡さんに告白をされても困ってしまう。だって、私には半助君がいる。
「本気なんだよ、手を出すチャンスは幾らでもあったけど、嫌われたくなくて今日まで我慢する程度にはね」
「私、からかわれてるんだと……」
「遊ぶなら余所でやる。会社の女の子に言い寄るなんて面倒なこと、本気じゃなきゃしないよ。それか、馬鹿なんだろうね」
と言って不敵に笑う雑渡さんが、どこまで本気なのか計り兼ねる。
ひとまず、密着している状況から抜け出したい。
「あの、雑渡さん……離してください」
「やだ」
押し退けてここから逃げたいけれど、長い腕にがっしりと押さえつけられていて身動きが全くとれない。それでも必死に身を捩っていると、私の耳元で雑渡さんが小さく笑った。
「今日まで我慢したこと、褒めてくれないかな」
鼻先で耳をくすぐられて、体が勝手に跳ねた。
恥ずかしい。
逃げることも隠れることもできなくて、涙が込み上がってきた。
「ざっ……と、さん」
やんわりと、雑渡さんのスーツの胸を押すと、私を捕まえていた腕が、ぱっと解けた。
「ごめん」
彼の顔を見ることができなくて、離れていくネクタイの柄を見つめる。
瞬きを一つすると、目尻から涙がこぼれた。
「泣かせる気はなかった」
頷く私の頬を伝う涙を、雑渡さんの指先がそっと拭った。
「ごめんね、名無しさんちゃん」
暫くの沈黙の後、雑渡さんが口を開いた。
「仕方ない」
それはどう考えても独り言だったので、私はそのまま黙っていた。
雑渡さんはスーツの乱れを直すと、天井を仰ぎ見て、少し考えるような仕草をした。
何をしているんだろう、と思った途端、彼は普段通りの口調で私の名を呼んだ。
「とにかく、返事はもう暫く待つよ」
仕事の話をするかのような冷静な口調に、私はつい「分かりました」と答えそうになったれども、慌てて首を振った。
「待つって言われても……私、付き合ってる人がいるんですよ、返事なんて決まってるじゃないですか」
「覚えてない? 前に言ったはずだよ。恋人がいても諦める気はないから、って」
覚えてはいる。
だからといって、何が変わるわけでもない。寧ろ、雑渡さんに態度を改めてほしい。
私のことなんか、放っておいてくれればいいのに。
唇を噛みしめながら、床を見た。
今は半助君ときりちゃんと、クリスマスの件で一杯一杯だ。これ以上ややこしいことになったら、私の頭では考えきれないし、考えたくもない。
それに、好きって気持ちが何なのか、よく分からなくなってしまっている。
「名無しさんちゃん」
呼ばれて顔を上げると、雑渡さんはいつの間にかドアの前に立っていた。
「そろそろ仕事に戻るよ」
「……はい」
「名無しさんちゃん。早く彼氏と別れて、私のところにおいで」
にやり、と雑渡さんは悪戯っぽく笑う。そして、ひらひらと中折れ帽を振って部屋を出ていった。
ようやく編集部にひとりきり。
そう考えたら、思わず大きな溜息が出た。
デスクの上に置いた、パンの入った袋を指先でつつく。
この美味しそうなパンたちは、単純に雑渡さんの優しさなのか、下心なのか、少しも分からない。
分かるのは、もう雑渡さんに甘えてはいけないということだ。
あれほどはっきり告白されるとは、夢にも思わなかった。
信じられないという思いと、とうとうこの日が来てしまったという思いが入り乱れる。
雑渡さんの気持ちがはっきり分かった安心感と、応えられない申し訳なさと寂しさ。
黙っていてくれたらよかったのに。そうすれば、何も変わらずにいられた。考えて悩む必要もない。
雑渡さんのことは嫌いじゃない。嫌いじゃないけれど、私が好きなのは半助君だ。
そう、私には喧嘩中の恋人がいる。
彼はまだ、私を想ってくれているのだろうか。