朝★

 あの後、殆ど眠れなかった。

 重い体を無理矢理に起こし、コーヒーを淹れる。
 素足のままでキッチンマットの上に立っていると、どこまでも体が冷えていきそうだった。
 湯気を立ち上らせるカップを手に寝室に戻り、コーヒーを一口飲む。
 僅かな苦みを残し、静かに胃に落ちてく熱い液体は、眠気を少しずつ消していく。

 メールの後、半助君からの着信はぴたりと止まった。返信もない。
 あんな会話とメールの後では当然だと思う一方で、とてつもなく不満に思う自分もいる。

 名無しさんが一番だよ。
 半助君がただ一言そう言ってくれれば、それで終わるのに。
 でも、彼がそうしてくれたところで、私は何を返せるだろう。今だって、身勝手に彼を振り回しているだけだ。それも取り返しのつかないような、愚かな言葉を投げて。
 きりちゃん。受け持っているクラスの子供たち。山田先生に利吉君。仕事。半助君が大切にしているものは、他にも沢山あるだろう。
 その全てを押し退けて、こんな私が彼の一番になれるわけがない。
 少しは特別な存在だろうけれども。

 恋って、こんなに醜いものだっただろうか。傷つくのが怖いからといって、傷つけてもいいものだろうか。
 いいわけがない。それもあんなに優しい人を。
 これじゃあ殆ど、あの男と同じだ。私の恋人だった男と。
 思い出せば酷い男だったけれど、今の私も彼と大差ない。

 溜息混じりにカップの中を覗いても、底は見えなかった。

 占いのように、コーヒーに文字でも浮かんで見えれば楽なのにな。
 くだらないことを考えながらカーテンを開けると、街はまだ淡い夜色のまま眠っていた。
 この街の、そう遠くはない場所で、半助君は夢でも見ているのだろうか。それとも、もう起きているだろうか。

 なんだかもう、全てがどうでもいいような気がしてしまう。半助君に関すること全て、私からはとても遠くにあるように思える。まるで、遠い国の出来事みたいだ。
 考えたところでどうにもならない。どうにかする気力も無い。望む方向に変わるとは思えない。
 でも、答えを出さなければならない。

「12月ごと、消えて無くなればいいのに」

 恨めしく呟くと同時にお腹が鳴って、慌てて手をやった。
 部屋には誰もいないのに、恥ずかしくなってしまう。

 冷えきった炬燵に足を入れ、天板に乗せた袋の中からパンをひとつ選んだ。
 薄暗い部屋でメロンパンをかじった。
 ビスケット生地が、口の中でほろほろと崩れる。ふわふわと柔らかいパンの中央には、程良く甘いクリームが隠れていた。

「美味しい」

 やっぱり評判のお店は違うな。
 ひとり頷きながら、パンを頬張る。

「今度……」

 続きを言いかけて、口を噤んだ。
 半助君と行ってみよう。私は無意識にそう言おうとしたのだった。

 温かいコーヒーと優しい甘さのメロンパンは、幸せな味がする。

 半助君も、ここにいればいいのに。

 雑渡さんがくれたパンだと言ったら、半助君は妬いてくれるだろうか。告白されたことも言ったら、怒ってしまうだろうか。
 それとも、気にしない素振りで一緒に食べてくれるだろうか。
 どちらにしろ、半助君がここにいればいいのに。そうしたらきっと、幸せだろう。

 私はようやく、深夜の電話とメールを心底悔いたのだった。

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