あの後、殆ど眠れなかった。
重い体を無理矢理に起こし、コーヒーを淹れる。
素足のままでキッチンマットの上に立っていると、どこまでも体が冷えていきそうだった。
湯気を立ち上らせるカップを手に寝室に戻り、コーヒーを一口飲む。
僅かな苦みを残し、静かに胃に落ちてく熱い液体は、眠気を少しずつ消していく。
メールの後、半助君からの着信はぴたりと止まった。返信もない。
あんな会話とメールの後では当然だと思う一方で、とてつもなく不満に思う自分もいる。
名無しさんが一番だよ。
半助君がただ一言そう言ってくれれば、それで終わるのに。
でも、彼がそうしてくれたところで、私は何を返せるだろう。今だって、身勝手に彼を振り回しているだけだ。それも取り返しのつかないような、愚かな言葉を投げて。
きりちゃん。受け持っているクラスの子供たち。山田先生に利吉君。仕事。半助君が大切にしているものは、他にも沢山あるだろう。
その全てを押し退けて、こんな私が彼の一番になれるわけがない。
少しは特別な存在だろうけれども。
恋って、こんなに醜いものだっただろうか。傷つくのが怖いからといって、傷つけてもいいものだろうか。
いいわけがない。それもあんなに優しい人を。
これじゃあ殆ど、あの男と同じだ。私の恋人だった男と。
思い出せば酷い男だったけれど、今の私も彼と大差ない。
溜息混じりにカップの中を覗いても、底は見えなかった。
占いのように、コーヒーに文字でも浮かんで見えれば楽なのにな。
くだらないことを考えながらカーテンを開けると、街はまだ淡い夜色のまま眠っていた。
この街の、そう遠くはない場所で、半助君は夢でも見ているのだろうか。それとも、もう起きているだろうか。
なんだかもう、全てがどうでもいいような気がしてしまう。半助君に関すること全て、私からはとても遠くにあるように思える。まるで、遠い国の出来事みたいだ。
考えたところでどうにもならない。どうにかする気力も無い。望む方向に変わるとは思えない。
でも、答えを出さなければならない。
「12月ごと、消えて無くなればいいのに」
恨めしく呟くと同時にお腹が鳴って、慌てて手をやった。
部屋には誰もいないのに、恥ずかしくなってしまう。
冷えきった炬燵に足を入れ、天板に乗せた袋の中からパンをひとつ選んだ。
薄暗い部屋でメロンパンをかじった。
ビスケット生地が、口の中でほろほろと崩れる。ふわふわと柔らかいパンの中央には、程良く甘いクリームが隠れていた。
「美味しい」
やっぱり評判のお店は違うな。
ひとり頷きながら、パンを頬張る。
「今度……」
続きを言いかけて、口を噤んだ。
半助君と行ってみよう。私は無意識にそう言おうとしたのだった。
温かいコーヒーと優しい甘さのメロンパンは、幸せな味がする。
半助君も、ここにいればいいのに。
雑渡さんがくれたパンだと言ったら、半助君は妬いてくれるだろうか。告白されたことも言ったら、怒ってしまうだろうか。
それとも、気にしない素振りで一緒に食べてくれるだろうか。
どちらにしろ、半助君がここにいればいいのに。そうしたらきっと、幸せだろう。
私はようやく、深夜の電話とメールを心底悔いたのだった。