顔色★

「名無しさんさん」

 青白い蛍光灯の明かりに照らされて、怪訝そうに私を見ているその人が誰なのか、私は暫くの間認識できずにいた。

「あ……利吉君」
 知らない街を彷徨っているような気分でいた私を、彼は現実に引き戻す。
「……買い物?」

 返事の代わりに、利吉君は書店の袋を軽く持ち上げた。

「何買ったの?」
「秘密です。そんなことより、名無しさんさん、顔色悪いですよ」
「そう?」

 彼は無遠慮に近付くと、私の顔を覗き込んだ。
 ふわっと爽やかな香りがした。香水ではなく、シャンプーか柔軟剤の匂いだろう。

「仕事忙しいんですか」
「ううん、忙しいのが終わったとこ」
「疲れてるんじゃないですか?」
「平気、平気」

 端正な顔から、一歩退く。
 咎めるような利吉君の視線に気付かない振りをして、私はできるだけ明るい声を出した。

「利吉君、今日はバイト休みなの?」
「いえ、ありますよ」
「ふーん。ワーカホリックめ」

 利吉君はむっとしたように眉を寄せる。

「違います」
「バイトあるのに、どうしてここに? バイト先から遠いでしょ?」
「遠いですけど……私にも色々あるんですよ、都合が」
「何それ。怪しいの」

 うるさい人だな、と軽口を叩きながら笑う利吉君は、この間会ったときとは、どことなく違っている。それは雰囲気といおうか、距離間といおうか、はっきりこれといえないけれど、とにかく、一緒にいても気詰まりでなくほっとする。

「ところで、ガーデニングでも始めるんですか」

 目の前の書棚に視線をやった利吉君が、冗談だと分かる口調で私に訊いた。

「うろうろしてただけだよ」
「名無しさんさん結構暇なんですね……って、本当に大丈夫なんですか?」

 小さく息を吐いただけで心配そうな顔をされた。
 年下にこんなに心配されるなんて、なんだか情けない。それよりも、そんなに酷い顔をしているのかと思うと恥ずかしくなってくる。
 昼に鏡を見たときは、何とも思わなかったんだけどな。

「顔、そんなに酷い?」
「酷いですよ」

 少しだけ皮肉っぽく、どこか呆れたように笑う利吉君の目には心配の色が浮かんでいて、私は懐かしさを感じた。
 どうして態度が変わったのかは分からないが、昔と同じように接してくれるこの子の前では、変に無理せずに済む。
 できるだけ良く見せようとか、好かれたいとか、ごちゃごちゃと考える必要が無い。
 ふ、と笑った私を見て、利吉君が怪訝そうな顔をした。

「何ですか?」
「もう夕飯食べた? 時間あるなら、今からごはん食べない?」

 レストランの連なる通路を何往復かして、結局うどん屋に入ることにした。
 やはり買い物目当ての客が多いようで、店はどこも空いていた。
 席に着いて、メニューを開く。
 月見かきつねか、鍋焼きうどんも捨てがたい。もしくは、セットにしちゃおうかな。

「名無しさんさん、真剣ですね」

 軽く笑いながらそう言われて顔を上げたが、利吉君はメニューに目を落としたままだ。

「名無しさんさん、ご馳走してくれるんですよね?」
「えーっ、そんなこと言ってないし」
「名無しさんさんは社会人で、私はバイトの身ですから」

 と、澄まし顔で利吉君は言う。

「もう、ずるいんだから」

 睨む真似をしてからメニューに視線を戻した。

 利吉君と話していたら、なんだか気が楽になった。
 弟みたいなのに弟ではなく、友達とも幼なじみとも言い切れない、不思議と近い距離の、年下の男の子。
 ここ数年、利吉君との距離がうまく掴めないことが多かったけれど、今日の彼は昔と同じ弟分みたいだ。大人びていて生意気で、優しくて可愛いようで可愛くない。でも一緒にいて無駄に気を遣わずにすむ。

 利吉君に、半助君のことを話してみようかな。
 そんな考えが頭を擡げる。

 利吉君と半助君との付き合いは長い。半助君のことも私のことも知っている。半助君とは同性だし、何かいいアドバイスをくれるかもしれない。が、私は軽蔑されてしまうかもしれない。
 例えば女同士なら、本音はどうあれ、表面上は同意して共感した振りをしてくれるかもしれないけれど、利吉君はそうしないだろう。
 分かりきった自分の間違いを指摘されて、自己嫌悪に陥らない自信はない。
 でも、誰かに話してしまいたい。

「決まりました?」

 利吉君の声に、どきり、とした。
 一瞬、考えを見透かされているのかと錯覚したけれど、すぐに注文のことだと理解して首を縦に振った。

「うん」

 きつねうどん、と静かに言って、私はメニューを閉じた。