プロローグ

 3年前のクリスマス。
 私は泣きながら通りを歩いていた。始発電車が出る前の時間帯だったので、人目を気にする必要もなかったし、気にする余裕もなかった。

 付き合っていた男に振られたのだ。
 正確には”付き合っていたつもりの男”だった。

 思えば、おかしなことばかりだった。
 初めて一緒に過ごすクリスマスイブなのに、彼の友達グループと居酒屋とカラオケでオール。
 こっそり鞄に忍ばせていたプレゼントは、彼が欲しがっていたそれなりに高い時計。バイトのシフトに入れるだけ入って、臨時のバイトもした。
 その時点で私は馬鹿だった。本当に馬鹿だった。

 プレゼントを差し出すと、予想もしない言葉が彼から返ってきた。

「俺、プレゼント用意してないよ」

 当然というような口調に、私は狼狽えた。けれどそれを必死で隠した。

「えっ……あっ、いいよ、気にしないで。約束してたわけじゃないし」

 初めてのクリスマスだからって、一人で盛り上がっちゃったかな。確かにプレゼントの話なんてしたことがなかったのに、張り切りすぎて恥ずかしい。
 内心では取り乱しながら、プレゼントを差し出したまま私は突っ立っていた。
 でも、プレゼントの包みは無事に彼の手に収まった。
 ほっとしていると、耳を疑う言葉が聞こえた。

「てかさ、別れよう?」
「……え?」
「だから、もう別れよう? 半年付き合ったけどさ、俺、名無しさんのこと最初から好きじゃなかったのかも。まぁ、これは記念に貰っとくよ。ありがと」

 じゃあな、と言って友人たちの元へと戻って行く彼の背中を見送った。

 わけが分からない。何が起きたんだろう。ぼんやりとそう思いながら、私はふらふらと通りを歩いていた。
 辺りは暗く、電車はまだ動いていない。

 彼との半年間を振り返ってみれば、2人きりで遊びに行ったことがない。いつも途中で彼の友達が合流するか、初めから皆で出かける予定になっていた。
 食事くらいは2人きりで行ったけれど、支払いは私の奢りか、良くて割り勘。奢ってもらいたかったわけではないけれど、なんだか引っかかっていた。友達に指摘されても、彼はお金がないから仕方がないと庇って、自分にも言い聞かせていた。本当は、友達と遊び歩いているのを知っていたのに。
 告白は彼からだったけれど、もしかしたら罰ゲームか何かだったのかもしれない。それでも最初は優しくて、一緒にお昼を食べたり、バイト先まで送ってくれたり、そんな些細なことを繰り返すうちに、私はあいつを好きになってしまった。

 なんだか違うってことに、本当は気付いていたのに。
 プレゼントなんか、用意しなければよかった。
 悔しくて、悔しくてたまらなくて、同時に傷ついてもいた。
 家に帰るまでは絶対に泣かない。そう決めたはずなのに、涙がこぼれた。
 マフラーについた涙を拭っていると、手の甲まで濡れていく。

 こんなに寒いのに、凍らないんだな。

 水滴はマフラーに降り続けて潰れていく。
 惨めなクリスマスに、雪が降っていないことだけが救いに思えた。

「大丈夫ですか?」

 突然聞こえた声に私は足を止めた。声を掛けられたのが自分なのか自信がなくて、おずおずと顔を上げる。
 目に入ったのは、ぼさぼさの髪といかにもな部屋着。

 寒そうな格好。きっと近所に住んでいるんだろうな。

 泣いている私は外側にいて、内側のどこか遠いところから、ぼさぼさ頭のその人を見つめているような気分だった。

「……大丈夫ですか?」

 優しい声に頷くと、我慢していた嗚咽が漏れた。

「何かあったんですか? ……警察に行きますか?」

 慌てた様子の彼に首を振った。

「何でもないんです。その……失恋、しただけで……」
 
 失恋なのだろうか。心の中で疑問に思いながらも、あの男と終わったことに安堵してもいた。そう、私にとってこれはいい出来事だ。
 恋だったとしても、違ったとしても、あれはろくな男じゃなかったのだから。
 ただ、惨めなことにも変わりはなかった。
 それが起きたのは、よりによってクリスマスだったのだから。

 ぼさぼさ頭の男性は、泣きじゃくる私を花壇のブロックに誘導すると、そこに座らせた。
 化粧で汚れたハンカチから私が顔を上げたとき、バスが大通りを走っているのが見えた。私がそこで泣いていたのは5分や10分ではなかったように思う。
 その間ずっと隣に座っていた男性が、小さく溜息を吐いた。
 怒っているのかと思ったけれど、目が合うと彼は優しく微笑んだ。そして、レジ袋から缶コーヒーを取り出すと、私に差し出した。

「どうぞ。嫌いじゃなければ」

 それだけ言うと、彼はレジ袋から取り出した肉まんを頬張った。
 無言で肉まんを食べる横顔。その向こうに見える空は、まだ群青色だった。

 クリスマスの朝に見ず知らずの他人といる。
 彼は肉まんを食べていて、私はコーヒーを飲んでいる。
 その事実がとても滑稽だったけれど、悲惨ではなかった。

 受け取ったコーヒーはすっかり冷えていた。きっと、肉まんも冷たくなっていただろう。
 私のことなんか放っておいていいのに。この人、お人好しなんだ。
 そう思いながら口にした冷たいコーヒーのおかげで、体は一層冷えてしまった。
 でも心は温かくなって、凍えそうだった私は救われた。

 それが、私と半助君の出会いだった。

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